第50話 川中島

 永禄四年、八月。大きな戦が始まろうとしていた。

 信濃の国。川中島。八幡原。

 政虎率いる上杉軍は妻女山に布陣した。

 知らせを受けた武田軍は上杉軍の退路を断つような形で茶臼山に布陣した。そのことで動揺する兵も、政虎の余裕のある態度に次第に落ち着きを取り戻した。とはいえ、下の者まで全ての情報が伝わるわけでは無かった。彼らは陣営の空気を読み、己の置かれた状況を測っていたのだ。果たしてどちらが有利なのか。己らが命を懸ける戦に、勝機はあるのか。下の者達はそのほとんどが忠義とは関わり合いのない平民である。あるのは、あわよくば戦功を立て、多くの褒美をもらいたいという気持ちだ。

「皆、お屋形様をどう思う?この戦、勝てると思うか?」

黒風は問うてみた。他の者の目で、あの政虎がどう見えるのか知りたかった。答えたのは他の戦でも上杉軍に従軍した経験のある年かさの野武士だった。

「上杉の御屋形さまはいつも俺ら同じ戦場に立つのよ。人任せにも高みの見物もしない。いつも我らとともにあってくれるのさ。たまに危ないこともしなさるけどよ」

 そう言って笑った。

 その噂は黒風も聞いていた。敵に包囲された味方の城に、数名の伴だけを連れて入城したことがあるという。敵の真っ只中を突っ切って、だ。大将がそんな事をするなんて信じられない。その事を聞いた時、黒風はそう思った。戦の大将は常に一番安全な所で守られていると思ったからだ。何かあれば、自分だけでも逃げるものと思っていた。実際、下の者はそう思っている。そして、ある程度上の者はそれを願いとする。いざ、危機に陥れば、大将だけでもと、身を差し出してでも逃がそうとする。以前は、保身のためと思っていた。いざとなれば、それしか考えないのだろうとも。だが、今は彼らがそういう者ではないことを知っている。

「あの方には毘沙門天さまがついておられるのよ」

そんな話も聞こえてくる。政虎は戦の前には毘沙門堂に籠もって祈願するのだとか。自らを戦神と為しているからこそ、戦場を駆け回れるのか。黒風は背中に寒いものを感じた。戦場に在る政虎は、平時の政虎とは別人なのだろうか。実際に目にしたわけでは無いが、話を聞く分にはそう思えた。


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