第22話 月夜

「かの、清少納言は、枕草子に冬はつとめてと書き記してはおるが……」

そう言って、信玄は大きく息を吐いた。その息が外気に触れると瞬時に白く染まり、消えた。

「冬は夜空も格別じゃ」

その夜は晴れて、月が無かった。そのため、星々の明かりがそこかしこに瞬いて美しかった。二人は濡れ縁に火鉢を置き、魚の干物をあぶりながら酒を飲んでいた。

「左様に、ござりまするな」

黒風はそう答えながらも、落ち着かない様子だった。周りには信玄の従者が数名、常に目を光らせていたからだ。

 今川義元、織田信長と、期せずしてやんごとなき身分の者達との交流の機会を得て来た黒風であったが、こうして従者に囲まれてというのは初めて出会った。思えば、彼等、特段信長の行動の方が普通ではなかったのだろう。下っ端の、名も無き一野武士。信用されないのが当たり前だ。好き好んで一人で会おうとは思わないだろう。また、周りもそれを良くは思わないはずだ。

「其の方、」

空になった信玄の杯に酒を注いでいると、信玄が低い声で言った。

「は、」

「ただの野武士にしては、立ち居振る舞いや言葉に粗暴さを感じぬが、いずれか名の在る家の筋か」

内心どきり、とした。自分のような境遇の者は、少なからずいる。いくつもの家が滅び、幾人もの「名のある筋の者」が、名を捨てる事を余儀なくされた。自分はその一端に過ぎない。言ったところで何ら害にもならないだろう。しかし、どこから、かの寺の者らに繋がるかしれない。身元に繋がるようなことは、言わないに越したことはないと判断した。

 黒風はにっと下卑た笑いを見せ、どかっと足を投げ出してぼりぼりと頭を掻いた。お付きの者達が、前のめりになる。中には刀に手をかけている者もいる。

「やぁ、お殿様にそっだらこと言われたら、照れるべ」

そう言われた信玄は、はっはと、声を上げて笑った。すると、黒風は、今度はすっと居住まいを正して、三つ指をつくと、深々と頭を下げた。

「ご無礼を致しました」

俯いたまま発せられた高い声に、皆がぎょっとなった。その声のままで黒風は続ける。

「されど、京の都を追われて早幾年。我が身のはかなきを思えば、今はただ、殿のお情けにおすがりするほかないと存じますれば……」

「其の方、河原者か」

信玄が笑いを堪えるように言うと、黒風は頭を上げ、元の姿勢に戻った。

「左様にござりまする。様々な立場の者の立ち居振る舞いは幼き頃、旅の一座にて覚えましたもの。今でも戦無き時は、拙い芸ながら日銭を稼ぐ程度のことは」

地声でそう言うと、周りはまたどよめいた。黒風はそのどよめきに涼しい笑顔を向けた。そして、瓶子を手に取り、差し出した。信玄は、杯に残っていた酒をあおると、盃を差し出した。

「此度はよほどの働きだったと見える。かように、宿にて悠々と過ごしておるとは」

「私の芸を気に入って頂き、少々多めにお心づけを頂きましたので」

嘘は言っていない。ある意味、身についていた芸を以ってあの金子を手に入れたと言える。

「成程。して、これからどこへ行く」

「戦がありますれば、そこへ。無ければ、村の祭りにでも紛れて小銭を稼がせて頂こうかと」

「ふうむ」

信玄は何かを考えているようだった。そして、

「越後とも、雌雄を決せねばならぬ」

越後。長尾景虎のことだと、黒風は思い当たった。信玄に追われた信濃の豪族の幾人かが越後に逃げ、失地回復を求めて長尾景虎に縋ったという。侵攻され、家が潰れ、強者が弱者を駆逐するのは乱世の常だが、手にあるものを守りたいと思うのも、失ったものを取り戻したいと願うのも人の常だ。そうして、求められた救済を、かの長尾景虎は受け入れ、そのために兵を出しているという。

「越後方は、何故信濃の者達を受け入れたのでござりましょう」

呟くようにそう言って、黒風ははっとなった。それは、下手をすれば、目の前の信玄を批判する発言ととられかねない。

「あの男は、」

信玄は眉一つ動かさず、静かにそう言って、空を見上げた。

「そう言う男だ」

「会ったことが、おありですか」

「否」

「それでも?」

「然り」

そう言って、信玄は酒を含んだ。

「然り」

もう一度繰り返し、残った酒に自分の顔を映した。話しかけてはいけないような空気に、黒風はそれ以上の言葉を発することができないでいた。すると、信玄は酒を飲み干し、目を閉じた。夜風が静かにほほを撫でた。それに誘われるように目を開き、静かに言葉を紡いだ。

「我らの間には、戦を越えた、何かがあるのやもしれぬ」

「戦を越えた、何か、に、ござりまするか」

黒風は考え込んだ。信玄が何を言っているのかよくわからない。自分が今まで見聞きし、また、実際に参戦してきた戦。そこには、まだ自分に分からない何かが在るのだろうか。

 ふっと、義元の顔が頭を掠めた。

「黒風」

「は、」

信玄に名を呼ばれ、思わず真正面から顔を見た。信玄は目をそらさず、真っ直ぐに黒風を見ていた。

「其方も戦に生きる者だな」

「一野武士に過ぎませぬが」

「生きよ」

「は?」

「戦場に生きると決めたのであれば、戦場にて生き抜け。そうしてその目でしかと見よ。己の眼で見、己の耳で聞き、己の心で感じよ。それこそが、其方が成すべき事だ」

黒風には、よく分からなかった。だが、またも同じ言葉を言われたと思った。

(何故だ)

返す言葉が見つからず、瞳を揺らす黒風に、信玄は笑みを返した。そして、盃を置いた。

 残った酒に、空の星々が映り、ちかちかと儚く、それでいて力強く煌めいていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る