第6話 風

 数日後、黒風は風吹く丘の上に立っていた。静かなものである。

 戦は、織田方の勝利に終わり、同じ戦を戦った者達は、その勝利に酔った。一度は勝ち目がないと思われた戦だったこともあり、いつも以上に、勝利を、そして、生き残った幸いを祝っているはずだ。だが、黒風はそれらに顔は出しつつも、宴もたけなわとなると、こっそり抜け出して一人になった。戦が終わるといつも、この静寂こそが恋しくなった。

 彼は腕組みをし、遠くを見ている。目に見えない、もう一つの風景を追うように。黒風はそっと目を閉じた。あの時の、義元の顔が脳裏から離れない。

(生きろよ。若造)

その言葉が、何度も何度も頭の中で響いている。何故、そのようなことを言われたのか、全く分からなかった。

「此度の戦、真の大手柄はお前だそうだな」

物思いにふける黒風は、背後から近づく気配に気づかなった。その声は、最初、後ろから、そして、最後の方はすぐ横から聞こえた。つまり、相手は黒風の背後から近づき、横に立ったのだ。その声の主を目端に捕らえて黒風は一瞬目を見開き、すぐに、平静を装った。

「さて、何の話でしょう」

 黒風はそしらぬ風にそう言った。義元を討った後、黒風は近くに居た仲間に手柄を譲った。手柄が欲しかったわけでは無い。そうしなければ勝てない、生き残れないと思っただけだ。まして、あのような言葉をかけられて尚、その首を取ったという事を、自分自身が納得できていない。そのような状況で、褒美など貰えるわけもない。そんなことをすれば、あの義元の死を、汚してしまうような気がしていた。

 あの時、義元が何を考えていたのかは分からない。だが、それでも黒風は、義元から何かを、受け取ったような気がしていた。それは、決して汚してはならないと、漠然と思っていた。

「それにしても、さすがは尾張のうつけ殿。供もつけずに野駆けとは」

さらりと言った黒風に、尾張のうつけ、織田信長は高らかに笑った。

「成程、義元の首を取るだけの事はある。肝の据わった男よ。儂を面と向かってうつけと呼べば、怒りを買うとは思わなんだか」

「自ら望んでうつけと言わせている人にうつけと言っても怒りますまい」

信長は静かな目で黒風を見ていた。黒風は涼しい顔で続けた。

「怒るのは自分をうつけと思っていない、真性のうつけでしょう」

「ふむ。望んで言わせたわけでもない、とすれば?」

信長は黒風の心の内を探るように言った。

「うつけ殿の天賦の才を周りが理解できぬだけでしょう」

黒風は緩やかに笑みを作り、まっすぐに信長を見た。それを正面から受けて、信長は喉の奥でくっと笑った。そして、するりと視線を外し、空を仰いだ。その視線を追うように、黒風も同じように空を見る。

「……お主、褒美は要らぬのか?」

「頂きましたが?」

「此度の戦の大手柄ぞ。領地を望んでもおかしくはないが」

「私は風ゆえ、地に縛られはしませぬ」

そうは言ったものの、黒風の呼び名は当初、自ら名乗ったわけでは無い。いつの間にかついた呼び名だが、黒風はそれに便乗した。実のところ、気に入っているのだ。名前を聞かれればそう答えるようになったのは、いつの頃からだったか。

「成程」

信長はしばし顎をさすって思案していた。沈黙が流れる。

(その生き方は、うらやましくもあるな)

自由に生きたい。その想いは、昔からある。他所の大名家の嫡子よりは、大分自由にさせてもらっているだろう。その自覚はある。自分のやりたいようにの山を駆け、奇抜と言われても、好きな格好をし、やりたいようにやってきた。それを以って、周りは自分をうつけと呼ぶ。それもまた、受け入れていた。

 だが、それは、あくまで織田家にあるということが前提だ。家も、領地も捨てて、何にも縛られずに生きる道は、選ばなかった。

(他にも、自由に生きる手立てはある。織田信長として、その名の元に、自由に生きてやろうではないか)

信長は、桶狭間に想いを馳せた。あの、負けてもおかしくない戦において、勝利を収めた。そのことが、強く、強く、自分の心に何かを刻んでいた。

「……黒風」

「はい」

静けさを破った呼称に、黒風は緊張を感じた。そして、再び信長を見る。目線が合った。信長は強い視線で黒風を見て、薄く口を開いた。

「されば……」

その先の話は信長もさすがに小声にならざるを得なかった。


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