小俣学の青春日記

神村律子

虐め

 転校生の僕はいつも同級生達の虐めの標的。クラスの誰一人味方の子はいない。それどころか、隣のクラスの連中まで虐めに参加し始めている。

「奇麗に掃除しろよ、小俣おまた

 虐めの中心人物の向日木むこうぎかおるが僕の髪を掴んで小便器の中に顔を押しつける。それもついさっき向日木が用を足したモノにだ。

「隅々まで奇麗に舐めろ、小俣」

 そんな向日木を後ろで囃し立てるのが倉持くらもちじん。僕は必死に顔を背け、唇が便器に着くのを免れようとしていたが、倉持が僕の顔をグイと動かしたので僕は小便器とキスをしてしまった。

「面白そうだな、俺にもやらせろ」

 そう言って近づいて来たのは隣のクラスの三木みき嘉隆よしたか。ラグビー部の三木は身長が百八十センチを超え、体重も百キロに近い巨漢だ。三木は僕がキスさせられた便器の隣で用を足し始めた。

「小俣、こっちも汚れたぞ。奇麗にしろ」

 三木が僕の襟首を掴み、まだ湯気が立ち上っているような状態の便器に顔を押しつけられた。思わず呻き声が漏れたが、倉持の笑い声にかき消された。

「それにしても小俣はトイレ掃除が得意だよな。俺達にはとてもそこまでできないよ」

 ようやく解放された僕はトイレのタイルの上に倒れこんだ。それに合わせるかのようにそこにいた連中が大声で笑った。

「もう授業始まるぞ」

「次はあのうるさいババアじゃん」

 連中は口々にそう言ってトイレを出て行く。僕はしばらく放心状態で窓の上に取り付けられた換気扇を眺めていた。

「どうしてそんなところで寝ているんだい?」

 その声にビクッとし、僕は半身を起こした。トイレの入口に一人の男子が立っていた。見かけない顔だから、違うクラスの男子だろう。転校してまだ三ヶ月の僕には知らない顔がいても不思議ではない。それにしても小柄な子だ。僕も決して身長が高い方ではないが、彼は百五十センチくらいしかないように見える。

「いや、別に」

 僕は事情を説明するのが面倒臭いし、向日木達の耳に虐めの事を話したのがバレたらもっと酷い目に遭うと思ったので、彼の視線を感じながらも目を合わせないようにして手洗い場で顔を洗って口をゆすぎ、何も言わずにトイレを出ようとした。

「虐めだね」

 その子は言った。僕はギョッとして彼を見た。もしかして見ていたのだろうか?

「心配しなくて大丈夫だよ。僕は一組の後藤学。君は?」

「僕は十二組の小俣学」

 名前が同じというだけで、何だか凄く親近感が湧き、後藤君になら話しても大丈夫だと思えた。


 僕と後藤君は廊下を忍び足で歩き、階段を這うように上がって屋上へと行った。

「いいの、授業に出なくて?」

 僕は屋上への扉が施錠されていないのを知っている。だから虐められると屋上に避難していた。

「僕がいなくても誰も気づかないから」

 後藤君は寂しそうだ。僕と同じだ。クラスに友達はおろか、話しかけてくれる人すらいないのだろう。

「何だか似てるね、僕達」

 拒絶されるかも知れないと思いながらも言ってみた。後藤君は微かに笑みを浮かべて、

「そうだね」

 彼とは友達になれるかも知れないと思い、泣きそうになった。

「こっちだよ。この学校で唯一、僕が寛げる場所なんだ」

 僕は後藤君を伴って天体望遠鏡が設置されている建物の裏側に行った。そこは出入り口からも望遠鏡を使う地学部の部員からも見えない場所だ。虐めを受けるようになって人の視線が怖くなった僕は、誰にも見られない空間を探していた。そしてここを見つけたのだ。

「いいところだね」

 後藤君はさっきよりはっきり笑顔を浮かべて言った。僕は舞い上がりそうだった。

「そうでしょ?」

 僕はコンクリートの床にベタンと座り、そのまま大の字になった。空は雲ひとつない青さ。風も心地言い程度に吹いている。

「教えてくれてありがとう」

 後藤君は僕の隣に寝転びながら言う。

「ここは二人だけの秘密にしよう」

 僕は後藤君を見て言った。後藤君も僕を見て、

「二人だけの秘密だね」

と言うと、またニコッとした。

「もしよかったらでいいんだけど、何があったのか教えてくれないかな」

 後藤君が不意に起き上がって言った。僕はギクッとしたが、最初からそのつもりでここに連れて来たので、

「うん」

 僕も起き上がり、後藤君にクラスの連中の虐めについて話した。後藤君はジッと僕を見たまま聞いてくれた。もうそれだけで僕は気持ちが楽になった。しかし、

「僕が協力するから、そいつらに仕返ししよう」

 後藤君の思ってもみない提案に僕は目を見開いた。

「仕返しなんてしたら後で何倍もやり返されるよ」

 僕は自分の身を案じるより後藤君の心配をした。彼は同じクラスじゃないから、あいつらのしつこさを知らないんだ。

「大丈夫。僕に考えがある」

 後藤君は力強く言った。


 後藤君の作戦はこうだ。

 まず向日木を屋上に呼び出す。そして出入り口の屋根の上に潜んでバットか角材で殴りつける。一人ずつ襲撃すれば、確実に倒せると言う。だけど、僕には怖くてそんな事はできそうにない。

「君がやらないなら、僕一人でもやるよ」

 後藤君は闘志満々だ。僕のためにそこまで言ってくれる事に驚き、感激してしまった。

「わかった。やろう」

 僕も勇気を振り絞る事にした。こうして僕は反撃に出る覚悟を決め、屋上を出て校舎の脇にある運動部の部室に行った。そこで僕と後藤君は野球部の部室からバットを一本ずつ持ち出した。

「僕は先に屋上に行って準備するから、小俣君はそいつを誘い出してよ」

「うん」

 うまくいくのだろうか? 不安になりながらも僕は後藤君に励まされ、授業が終わるのを待った。


「何だよ、小俣。しょんべんくせえから、近づくなよ」

 廊下に一人でいた向日木に声をかけると露骨に嫌な顔をされた。

「ちょっと相談があるんだ。放課後屋上で待ってるから、来てくれないか」

「お前なんかに相談されたくないよ」

 向日木は立ち去ろうとした。

「相談に乗ってくれないのなら、僕はこのまま職員室に行く」

 捨て身の作戦に出た。しかし、向日木が開き直れば不発に終わってしまう。

「いい度胸だ。俺を脅かすのか?」

 向日木の目がギラつき、僕を睨みつける。危うく怯みそうになったが、

「そんなつもりはないよ。だから相談に乗って欲しいんだ」

 向日木は訝しそうに僕を見ていたが、

「まあいいや。つまらねえ相談だったらまた便所掃除だぞ」

と言うとニヤリとした。

「うん、それでいいよ。じゃあ、放課後、屋上で待ってるね」

 僕はそれだけ言うと教室に戻った。果たしてうまくいくのだろうか? そればかり気になった。


 そんな状態で授業に臨んだせいなのか、いつも以上に先生に指され、恥を掻く事になった。クラス中が僕を笑っている気がして気が滅入りそうだったが、放課後の事を思い出し、何とか堪えた。


 放課後になり、僕は教室を飛び出すと屋上へと走った。後藤君はもう準備してくれているだろうか?

「え?」

 屋上に出ると、そこには向日木だけでなく倉持も三木もいた。向日木が誘ったのか?

「町田さん、来ましたよ、愚か者が」

 向日木が出入り口の屋根の上を見て言った。僕はその視線の先に目を向けた。そこにはバットを担いで僕を見下ろす後藤君がいた。

「何で? どういう事?」

 僕は理由わけがわからなくなり、パニックになりかけた。すると後藤君は大声で笑い出した。

「お前、本当にバカだな? 受けるぜ」

 後藤君は目に涙まで浮かべて笑っている。向日木達も大笑いしていた。

「俺は後藤学なんていう名前じゃねえよ」

 後藤君は屋根の上から飛び降りて来た。

「押さえつけろ」

 後藤君が言うと、彼より遥かに身体の大きい向日木と三木が僕を両側から押さえつけた。倉持が背後から僕の頭をグイと押し下げる。

「俺の名前は町田昇。後藤学なんていう不吉な名前は嘘さ」

 後藤君だと思っていた町田はそう言うとバットで僕の腹を思い切り突いた。

「ぐほ……」

 昼食べた弁当が喉まで上がって来るのがわかった。胃液が酸っぱい。目に涙が滲む。

「汚ねえな、小俣。ゲロ吐くのはやめろよな」

 倉持が頭を激しく揺さぶる。そのせいで堪えていたものが鼻の奥に回り込んだ。

「ぐえ……」

 堪え切れなくなり、僕は鼻と口から消化されかかった弁当を吐き出した。

「汚ねえな、バカヤロウ!」

 町田が飛び退きながら更にバットで腹を強く突いた。僕は残りを全部ぶちまけてしまった。

「うわあ、きたねえ!」

 僕を抑えていた三人が一斉に離れたので、僕はそのまま吐瀉物としゃぶつの上に倒れこんだ。

「な、何で……」

 僕は町田を見上げて呟いた。すると町田は、

「ちょうど一年前だ。お前と同じ名前の意気地なしがいてさ。そいつ、ちょっと虐めるとすぐに泣きやがって、面白いから毎日可愛がっていたら、自殺なんかしやがってさ」

 その言いようは人が一人死んだ話としてはあまりに軽い感じがした。

「そいつが後藤学なんだよ。だからそのヘタレと同じ名前のお前を見るとあのバカを思い出してムカつくんで、虐めてたのさ」

 町田の顔は人間の顔に見えなかった。

「亡くなった人の事をそんな風に言うな」

 僕はあまりに悲しかったので、思わずそう言ってしまった。

「うるせえよ。てめえ如きに説教垂れられたくねえんだよ」

 町田は僕の背中を踏みつけた。

「ぐうう……」

 吐瀉物まみれの顔を歪め、僕は身を縮めた。

「自分がヘタレなせいで自殺した奴と同じ名前だってだけでムカつくのに、そんな偉そうな事言いやがるのか!」

 町田が僕の背中を強く踏みつける。僕はまた呻いた。そして霞む目で町田を見た。その瞬間、僕は息が止まりそうになった。

「何だよ、その目はよ! 何か文句あるのか、ヘタレヤロウ!」

 町田が更に僕を足蹴にした。僕は町田を見ていた訳でない。奴の後ろに立つ青白い顔の男子を見ていた。その子は恨めしそうに町田を睨んでいる。

(もしかして……)

 僕はその子が自殺した後藤学君だと悟った。そして後藤君がニヤリとしたのを見て恐ろしい事が起こるのを予感した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る