T.S.

馮姿華伝

第1話 朝と霧とロンドンと

   「人が頭で考えられることは、すべて実現可能である」


                 ――― アルベルト・アインシュタイン




 バナナラッシーに必要なのは、なんといってもまだ青いバナナだ。

 この青いバナナは、身に色がついておらず、きれいに色付けできる。

 作り方も簡単だ。青いバナナとヨーグルト、濃い味の牛乳、そして少量のマンゴーソースだ。このマンゴーソースが決め手で、砂糖のくどい甘さじゃなく、果実の甘さを引き立たせてくれる。入れすぎるとバナナを殺してしまい、ただのマンゴーラッシーになってしまう。

「よし、できた」

 私は、窓から街灯の光がまだついている朝4時という時間に、毎日の日課としてこのバナナラッシーを作っている。

 もちろん。街並みがはっきり見えるほどには空はまだ暗く、霧は立ち込めてないものの、少なくとも自分のアパートからは家の屋根がかすんで見えていた。

 朝起きたばっかりなものだから、部屋の電気は切っていて冷蔵庫を開けた時の光が私の濡れた黄色く長い髪を照らしていた。

 あとは、このペットボトルに入れたラッシーを冷蔵庫に冷やすだけ。

 そして私は、先日作っておいたバナナラッシーを少し大きめのタンプラーに入れる。風呂上りの一杯はかなりおいしい。残念なのは、このアパートに風呂がないってことだ。

 掃除がかなりの苦手で、脱ぎ捨てた服や食べ終わった冷凍食品のトレーなどなどが散乱している。そろそろゴミ屋敷になりそうなこの部屋は格安で借りたものだ。都会では驚きの値段だったが、どうも自分の所属している事務所が何かしたのだろう。月1万もしないとなると、学生ではあるまいし…と感じるのは私だけだろうか。

 歯を磨き、首に下げていたタオルを取った。一糸まとわぬ姿にはなったが、寒かったので間髪入れずに仕事着に着替えた。といっても、私服の上にちょっとしたパーカーを着るだけなのだが。外はまだ2月で寒く、基本晴れることのない地域なものだから雨具もコートも必須だ。あとは、そうだな…お金ぐらいは持っていこう。

「よし」

 出勤だ。

 薄くメイクをした顔を見て、今日も気合を入れる。寝癖もない。

 ダンボールが無造作に置かれている廊下を器用に避けながら、私は靴が無造作に置かれている玄関を、そろりそろりと足をのばし、散乱している靴を踏まないように自分の部屋を後にした。


 ロンドンの街は、相も変わらず暗かった。



      ◇



 職場へは船で行く。

 私の職場は海上にあり、海が見渡せる孤島にある。綺麗な場所だ。

 私はベージュのトレンチコートのポケットに手を突っ込み、足早に船着き場へと歩いた。

 まだ暗く、足元が不安なテムズ川下流の船着き場には、汚らしいボートと、見るからに薄汚い船乗りがいる。その人に毎日頼んでもらうのだ。うちの職場はこんな浮浪者みたいな船乗りを雇うほど困窮しているわけではないが、もっとましな身なりをした人に送迎してもらいたいものだ。

「ジョージさん、いつもの」

「あいよ」

 魚臭いコートを羽織り、魚臭いボートをモーターで動かし始めたジョージさんは、乗り込んだ私のほうを向いて、タバコで蝕まれた黄色い歯をみせてへへっとわらった。

 私はそれを見て、首に巻いていたマフラーで自分の口元を隠した。

 テムズ川河口を過ぎたところでジョージさんはスピードを上げた。

 ガソリンのにおい、潮のにおい、船乗りのシガーのにおい。それが私の通勤のにおいだ。もしも私が『ホワイトカラー』だったなら、満員電車の汗臭いにおいだったのだろう。そう思うと、この時間も悪くはない。乗り心地は最悪だが。

 しばらくすると、沖のほうへ出ていき、霧が立ち込め始めた。水平線に浮かぶ白い大きな壁がどんどんと近づいてくる。

 後ろを振り返るとかなり離れたのだろう、ロンドンの街並みが人差し指で測れるぐらいにはどんどん小さく見えてくる。

「お嬢ちゃん、毎度ありがとうな。ところで、ロンリポップはどうかね?」

 船乗りはへへっと笑い、白い棒付き飴を私に見せた。

 私は眉をひそめた。

「味は?」

「ミルキーですなぁ。しかし、なめているとどんどん苦くなりますぜ?なにしろ、中身はなんとびっくりグリーン・ティですからなぁ」

「誰からだ?」

 霧で笑い顔は見えなくなった。

「高級そうなバッジをしていましたぜ、あの黒靴の老人」

 貴族か官僚か・・・。

「ありがとう」

 そういうと霧から抜け、あたりが鮮明に見えるようになった。

 ボロボロの漁船はボロボロの木の船になり、先端にあったライトはカンテラになっていた。

 モダンなそのロンドンから時間が遡ったように、汚い船乗りの背後には時計塔と、とんがった屋根を持つ大きな建物が見えてきた。

 もっと変わったのは船乗りの姿だった。

 汚らしい服装はしておらず、腰まで伸びる赤い髪の毛と、鼈甲べっこうの眼鏡。修道服に似ても似つかないロングコートを羽織り、首にはアミュレットとして使っているロザリオをぶら下げていた。

 彼の名はジェイソン。私の部下だ。

「もっとましな変装はないのか? 私が怪しまれるだろう」

「へへっ、サーセン。美女が変な中年のおじさんと一緒にいるのはなんかやっぱおかしいっすかね」

「おかしい」

「へぃ」

 顔はかなりの美形で、黙っていればセクシーな女性と間違うぐらいにはいいのだが…。

「ヒューゴは?」

「ジジイなら先ほど、部長室に行きやしたぜ。隊長が来る前に、客のほうがかえっちまったので」

「そうか、ありがとう」

 ヒューゴとは、私の職場の部長だ。4か月前に60歳を超えてきたのだが、顔も体も、頭の回転も衰えることはない。いわば化け物のような存在だ。

「そろそろ尻尾が二つ生えるんじゃないのか?」

「知らないっすよ。ただ、まぁ。なんていいましょうか、死神が寄り付かないっていいましょうか、うーむ」

 そういって彼はあごを触って悩むしぐさをした。

「人間じゃなかったりします?あの人」

「人間やめてるな、たしかに」

「ですよねー」

 彼はへへっと笑った。

「ほら、着きましたぜ。隊長」

 孤島の端に、小さな船着き場があった。

 もちろん、木の桟橋で作られたものでカンテラが煌々と道を標してくれている。いわば幻想的だ。

「よっと」

 私は少しジャンプして桟橋へと飛び乗った。

 それに続いてジェイソンのやつも、重そうなコートをもろともせず、ぴょんと桟橋へとのった。

「レディファーストぐらいさせてくださいよ」

「やだ」

 私は即答し、右の『黄色のツインテール』をいじった。

「あ、そうだ。今日のニュース見ました?」

「いいやまだだ」

 私たちは歩き出し、大きな時計塔へと向かった。

「見たほうがいいですよー」

 彼はニコッと笑った。

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