神庭琵琶夢語

星 霄華

序章

序章・一

 遠くに見える伏虎ふっこ城下で秋祭りが催されたその日、数えで十の少女は、父親が作った革の手袋を届けるため、皮剥ぎ――皮革産業に従事する家が多い集落から町へ出ていた。


 品と引き換えに残りの代金をもらい、鷹匠の屋敷を辞した帰路は、どこもかしこも人だかりだ。誰も彼もがめかしこんでいる。露店には綺麗な簪や笄、巾着やびいどろ細工の煙管などが並んでいて、見ているだけで飽きない。祭り特有の空気は少女をすっかり飲み込んでしまっていて、こちらへおいでと誘惑するのだった。


 ちょっとだけでいい。覗いてみたい。そんな誘惑に駆られるも、少女は風呂敷に包んだ小判を抱えて、町の外へ無理やり足を向けた。寄り道をしないで帰ると、父と約束したのだ。帰りが遅くなれば、約束を破ったとばれてしまう。

 町の賑わいに未練を残しつつ、少女が近道をしようと、人気のない小道を歩いていたときだった。


「……ほう、皮剥ぎの嬢ちゃんか」


 笑み含みの男の声が頭上からかかり、彼女は足を止めた。見上げると、だらしのない身なりをした巨漢がにやにや笑いながら、少女を見下ろしていた。

 知らない人だ。けれど何故か、少女の身分を知っている。今までも何度か鷹匠の屋敷や城へ納品しに行っているから、どこかで見られたのかもしれない。皮剥ぎが住む集落から出てきたところや手に持つ品を見れば、すぐわかる。


 皮剥ぎにとって、職業を知られることは恐怖の入り口だ。言葉のとおりに牛馬の皮を剥ぎ、強烈な臭いがする薬を使って加工する皮剥ぎは、人々に忌まれる職業なのである。寄り道をするなと少女が父親にきつく言いつけられているのも、よからぬ輩にさらわれないようにというだけでなく、職業を知られることで侮蔑されることを防ぐためでもあった。


「こんな祭りの日にこんなところを一人か。親はどうした?」

「……」


 少女は無言で後ずさった。答えては駄目だと思った。


「警戒されてるなぁ」


 くつくつと男は笑う。その声さえも恐ろしく、少女は風呂敷を抱きしめてさらに後ろへ下がった。


「一人で歩くのは危険だろう。どれ、俺がついていってやろう」


 さあ家はどこだ、と男はにたりと笑う。少女は怖くなって、弾かれたように男から逃げ出した。

 が、さほど走らないうちに襟首を掴まれ、そのままぐいと持ち上げられた。


「やぁっ……!」


 少女はじたばたと暴れたが、男の腕はびくともしなかった。背後から男の太い腕がにゅっと伸びてきて、腕からもぎ取られようとする小判が指に腕に食い込む。けれど少女は痛みをこらえて風呂敷を抱え込んだ。小判を渡したくなかった。


「強情なガキだなあ。痛い思いしなきゃわかんねえかあ?」


 低い、どすの利いた声音は少女の心を凍てつかせた。おそろしくて体が震える。だが少女はそれでも小判を手放さなかった。これは父に渡すのだと、意地に近い思いだった。

 だが、所詮は子供の抵抗である。風呂敷を抱きしめる少女の腕の力が、不意に緩んだ。あ、と思ったときには、風呂敷は少女の腕をすり抜けている。


「よさないか!」


 風呂敷が地面に衝突したそのとき、幼くも凛々しい少年の声が、少女の耳に届いた。

 声がするほうにいたのは、声のとおり少年だった。歳は、少女よりいくつか上だろう。手に四角い棒を持っている。着ているものこそ平民のそれだが、まるで似合っていないと少女は思った。


「放してやれ。嫌がっているだろう」

「ほう、正義の味方気取りか」

「放してやれと言った」


 男がゆっくりと少年に向き直り、嘲るように言う。だが少年は怯むどころか、妙に威圧感のある声音で繰り返す。命じると形容したほうが正しいかもしれない。

 少女の背後――男の雰囲気が変わった。怒っている。怒りの気配が少女の肌を貫き、心まで侵す。

 男は少女を無造作にその場に落とし、少年に迫る。恐怖ですくむ少女は、それを見ていることしかできない。


「ガキのくせに調子に乗りやがって……礼儀ってもんを教えてやらぁっ!」


 言うや否や、男が少年に蹴りを放った。その先を予想し、少女は小さな悲鳴を上げる。

 しかし、そうはならなかった。少年は素早い動きで蹴りをかわすと、男の横腹を棒で突いた。さらに、拳を振り上げた男の手首を棒で打ちすえて反撃を封じ、ぴたりと喉首に棒先を突きつける。

 鮮やかな手並みだ。意外な展開に、少女は目を丸くした。


「こっのガキがあ……! 皮剥ぎの金を盗って何が悪いってんだ!」

「!」


 男は開き直り、吼える。己の身分をさらされてしまった少女は、さっと顔を青ざめさせた。

 この少年は、自分が助けたのが皮剥ぎの娘だと知らなかったから助けたに違いないのだ。今までにも、少女の身分を知った途端に態度を豹変させた人はいた。この少年もきっとそうに違いないと、彼女は怯えた。

 だが少年は、突きつけた棒を下ろさなかった。さっきよりもきつい声音で、はっきりと言い放つ。


「だから何だ。皮剥ぎだろうと何だろうと、人ではないか。人を食らう鬼でも何でもない。人の金を盗むのは、藩法にも書かれた立派な罪だぞ」

「……!」


 少女は目を見開いた。

 今まで聞いたことのない言葉だった。皮剥ぎにも優しくしてくれる人はいても、誰もそんなことを中傷する者に言ってくれなかった。


「この場から去れ。それとも、自身番に連れて行かれたいか」


 そう脅す少年の眦はきりりと吊り上がっていて、言葉は冗談ではないと少女には思えた。棒を使って、男を手玉に取ってみせたのだ。きっとできるに違いない。

 男の顔が真っ赤になった。だが少年の本気を男も感じ取ったのだろう。わなわなと全身を震わせると、捨て台詞を残して走り去っていった。

 少女が小判を取り戻すことも忘れ、一部始終を呆然と見ていると、少年が近寄ってきた。膝をついて、彼女と目の高さを合わせる。


「そ……君、大丈夫か?」


 声をかけられ、ようやく少女は少年の顔に焦点を合わせた。

 心配そうな顔はやはり、少女が知る誰とも違う。なんというか上品で、とても賢そうだ。どこかの商家か武家の子なのだろうか。泥だらけになったり取っ組み合いをしていそうには見えない。


「その風呂敷は、君のものなのか?」


 何も考えずに少女が頷くと、少年は風呂敷を渡してくれた。手の中に重みを感じ、小判を守ったのだという実感が少女の胸に湧く。

 すると、全身を覆っていた緊張が一気に解けた。すうっと全身が重くなり、喉や目頭が熱くなる。少年の登場で失せていた恐怖が蘇ってきて、体が勝手に震え涙があふれてくる。それらを止めるという思考もなかった。


「もう大丈夫だ。もうあの男は行ってしまったよ。だから大丈夫だ」


 声を上げずに泣き出した少女の頭を、少年は撫でてくれる。そのたどたどしい手つきと声音の中の労わる響きに誘われるように、少女は彼の着物の袖にしがみつくようにして泣いた。




 祭りで賑わう漁村。人々が楽しげに通り過ぎていく通りへ繋がる小路に腰を下ろし、琵琶の撥を繰りながら、成長した少女――年頃の若い娘は在りし日の記憶を辿っていた。


 あの日、少年の着物の袖にしがみついていた手は、今も相変わらず荒れたまま。立ち居振る舞いもどんくさく、手のかかる庶民の娘であることは明らかだ。あの頃の娘を知る者なら、彼女だとすぐ納得するだろう。


 だが、彼女には一つ、あの頃とは大きな違いがあった。生涯消えることのない傷が身体に、そして心に刻まれている。


 遠い遠い記憶に思いを馳せる心に寄り添うように、音色と旋律もまた緩く、憂いと懐古の情を帯びていった。音色は若い娘の感情を正確に写して雄弁に語り、寄せては返す波の音が、手遊びの旋律の背景や合いの手となって際立たせる。


 甘く懐かしい音色と旋律に足を止める者はいなかったが、娘は構わなかった。ただ、思い出に引きずられて奏でているだけだ。誰かに聞かせるためのものではないのだから、むしろ誰も聞いていないほうが都合がいい。


 しかし、娘の夢想のひとときは長くは続かなかった。漁村が抱く、山と海に挟まれた社の神々は、弱い心を懐かしい夢で慰める孤独な旅人に哀れみをかけたのかもしれない。


「――――あんた、そんなにいい音を鳴らすのに、こんなところで何してるんだい?」


 無粋な来訪者の声が、娘を遠慮なく己の旋律と記憶から引きずり上げる。陶酔から我に返った娘は、その名残でよく働かない思考のまま、声がしたほうをのろのろと見上げた。

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