星団(6/9)

日曜日の終わりくらいは仕事から逃れたい笠井にとって、ゴルフ場での現地解散はありがたかった。翌日から、また重い一週間が始まるのだ。会社の領収書まかせの贅沢な夕食よりも、ワンコインのコンビニ飯の方がずっといい。


中途半端な疲労感が睡眠を拒み、その晩、笠井はシングルベッドで寝返りを繰り返した。

10センチほど開けた窓から秋の風が潜り込み、レースのカーテンをわずかに膨らませている。

時計のデジタル表示が日付を変えたところで上半身を起こし、テレビのスイッチを入れた。


薄暗がりの部屋に、乳白色の光が斜めに伸びる。

壁向こうの隣人を気遣い、音声を消したあとで画面を切り替えていき、スポーツニュースのチャンネルで手を止めた。

高校野球の映像だ。

季節外れのフィールドは、国体のワンシーンだった。霧雨を受けたスコアボードを背景に、サヨナラ勝ちした球児たちが抱き合っている。

画面は保険会社のコマーシャルになり、字幕スーパーが企業のメッセージを短く伝えた。

リモコンを掛け布団の上に放り、笠井は俊敏な動きで、クローゼットの扉を開け、ハンガーに下がったコートやスーツを両手でかき分ける。そして、床に置いた段ボール箱を取り出した。

すぐさま、十字に貼ったガムテープを剥がし、変色した新聞の束を除けると、VHSのビデオテープが姿を現した。

収納したのは、妻子と別れて一人暮らしを始めたときでも、結婚したときでもなく、笠井が実家を出たときだ。

ひとつひとつの背にはそれぞれの録画内容が記されていたが、七本並んだ真ん中に、唯一ラベルの貼られていない「それ」があった。

目的のビデオを手にして、笠井はふっと息をつく。

そうして、テレビ下にあるDVDプレーヤー兼用のビデオデッキにテープを挿し込んだ。

音のない空間に機械の作動を知らせるモーター音が流れる。深い眠りから仕方なく目を覚ました感じの緩慢な動きだ。

少しだけ巻き戻してから再生ボタンを押すと、瞬時に映像が生まれ出た。

縦縞のユニフォームが、マウンドで額の汗を拭っている。

磁気テープがテレビ画面に送り出したものは、紛れもなく20年前の笠井幸司だった。真新しいテープに録画されたためか、ノイズもなく、たったいま記録したばかりの番組と見紛うほど鮮明だった。

地方局のカメラは、バッターボックスに立つ相手打者を捉え、画面の片隅にテロップが表れる。

九回表。0対0。ツーアウト、ランナー三塁。

ボリュームを少しだけ開けると、アナウンサーの抑揚ある実況が笠井の耳に届いた。

初めて見る映像の初めて聞く音声は、高校野球全国選手権大会・地区予選決勝――高校三年の笠井幸司にとって、最後の夏、最後の試合だった。

プレートを外した自分が、半袖のアンダーシャツから日焼けした右腕をしならせて、三塁に牽制球を投げる。

たった一枚の甲子園への切符を目指し、息詰まる投手戦がクライマックスを迎えていた。

映像を戻さなくても、笠井は記録されている一秒一秒を昨日の出来事みたいに覚えている。

フォアボールのランナーを、相手チームはふたつの送りバントで三塁に進めた。この試合で、初めてサードベースまで走者を許した18歳の笠井は、マウンド上で明らかに動揺していた。ランナーをホームに返してしまえば、九回裏の攻撃で追いつくしかない。

ツーボール・ツーストライク。

マスク越しの東のサインにうなずき、笠井が変化球を投じた。

時速130キロの縦に曲がるカーブがベースの手前でワンバウンドする。バックネット裏に転がっていくボールを追いかける東の背中。スタンドの悲鳴と歓声。

ランナーのホームインを見ずに、笠井は早送りボタンを押し、15分ほど時間を飛ばしたところで、もう一度、「再生」を選んだ。

九回裏。1対0。ワンアウト、ランナー一塁。

カメラは、ショート強襲の内野安打で頭から滑り込んだ東のユニフォームを映し、筋書きのないドラマを楽しむように四番バッターの姿をなめた。

緊張に表情を失った笠井がテレビ画面いっぱいに現れる。

20年の時間差を経て、青年の笠井と大人の笠井の鼓動がシンクロしていく。

セットポジションに変え、投球動作に入ろうとする相手エースを制して、笠井がアンパイアに「タイム」を要求した。それから、サードベース側に振り返り、ベンチを見る。

視線の先には、父親であり、監督である、笠井巌がいた。


「監督が……お前のオヤジさんが送ったサインは『思いきり振れ』だったんだぜ。送りバントのサインじゃない。右手で左胸を二度叩いてから、帽子のつばに人差し指、だ」


カメラはベンチを映すことなく、同じアングルでバッターボックスの背番号1を見つめ、サインの確認を終えてから打席に戻るまでの動作を追いかけた。

ピッチャーの足が上がった瞬間、天に突き立てていたバットが水平に倒れた。

それは、笠井幸司の野球人生において、最初で最後の送りバントの構えだった。



(7/9へ続く)

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