願いを叶えるボタン

 とあるマンションの一室、小綺麗な部屋の片隅に、俺は寝転がっていた。


 今は平日の午後三時。普段なら大学か、バイトか、はたまたどこかで遊んでいるような時間帯だ。

 それなのにこんな昼間から俺が部屋に籠っているのにはわけがあった。というのも俺はつい二日前にインフルエンザにかかり、医者に数日間の外出禁止を言い渡されたからだ。


 無論、そんな言いつけは守らなくてもよかった。ただの風邪だったと言えばそれで通るし、わざわざそんな嘘を暴こうという奴はまずいないだろう。

 ただまあ、講義は出席停止扱いで欠席にならないし、バイトだって無理に呼び出されはしない。おまけに彼女がいつもの三倍くらい俺に優しくしてくれるとあって、俺は素直にその言いつけに従っていた。

 ただ一つ困ったことがあった。それは彼女が俺の身を案ずるあまりに、徹底的に俺を外出させないようにしていたのだ。一体どういう手口なのかは知らないが、こっそり俺が外出しようものなら、その日の夜にこれでもかと説教を食らうのだ。

 説教自体は聞き流していればいいのだが、体の弱い彼女は本気で怒らせると具合が悪くなって倒れてしまう。そうなれば今度は俺が看病する側に回らなくてはいけない。そんな面倒はごめんなので、俺はおとなしく部屋に引きこもっていた。



 とはいえ、暇なものは暇だった。

 インフルエンザも三日目となれば、大抵症状は治まっていて熱も結構引いていたりする。だから俺は今朝からずっとスマホをいじっていた。

 ソシャゲをやったり、SNSを覗いてみたり、無料の漫画を読み漁ったり。だがそれももう飽きたので、俺は適当にネットでいろいろと見て回ったりしていた。

「お? なんだこれ」

 そんな俺の目に留まったのは、一つの奇妙なサイトだった。

「願いをかなえるボタン……?」

 それは、あからさまに怪しそうな雰囲気を漂わせていた。普段なら触れもせずにスルーするような、そういう感じの奴だった。

 だけど、暇を持て余していた俺は、興味本位でそのサイトに入ってみた。何か面白ければそれでいいし、つまらなかったら引き返せばいい。詐欺っぽかったらスクショでも取ってSNSに晒してみよう。そんな気持ちだった。


 現れたページは、真っ黒な背景の中に赤や黄の文字が浮かんだ、少々不気味なデザインをしていた。それらの文字を流し読みしながらスワイプしていくと、

「お、あった」

 丸くて黄色いボタンが画面に現れた。

「どれどれ……このボタンはあなたの願いを叶えます、か」

 いかにも胡散臭かった。しかし、それは想定の範囲内だった。

 試しに押してみようかと指を動かしたその時、俺はボタンの下の注意書きに気付いた。


 注意! 願いを思い浮かべながら押さないと効果がありません!


「……まじかよ」

 願い、なんて言われても、正直なところ何も思いつかなかった。

 自分で言うのも何だけどルックスはいいし、頭も悪いとは思ってない。金だって親が必要以上に送ってくるから必要性を感じないし、尽くしてくれる可愛い彼女だっている。運動神経もいいし、背もまあまああるし……他に何かいるかと言われれば、何もないような気さえした。

「意味ねえし戻るかぁ」

 そう呟きながら適当に画面をスクロールさせていく。それは別段意味の無い行為だったが、画面下からはもう一つのボタンが現れた。

 またかと思ったが、よく見るとそれはさっきのとは文言が異なっていた。

「このボタンは誰かの願いを叶えます、だと?」

 ボタンの下の黄色い文字は、そう書かれていた。



 冷静に考えると、それは意味のない行為かもしれなかった。自分以外の誰かと言ったって、今や地球には七十億人もの人がいる。そのうちの誰かの願いがどこかで叶ったとしても、俺がそれを知ることはないだろう。

 それ以前に、こんなサイトのボタンごときが魔法のランプみたいに人の願いを叶えるわけがない。

 けれど、俺はボタンを押してみることにした。特に深い理由があるわけではないが、こんな何不自由なく生きているんだから、少しくらい誰かにそれを還元してやってもいいんじゃないかと思えた。


 俺は賽銭箱に小銭を投げ込む時のような軽い気持ちで、ボタンを押した。それは何の意味もない、ただの願掛けのようなものだと思っていた。


 しかし、ボタンを押すと同時にスマホの画面は切り替わった。白一色の背景に、黒い文字の一文が書いてあった。


 今から10秒後に誰かの願いが叶えられます。


 その数字はきっかり一秒ごとに小さくなっていく。俺は意味もなく息を飲んでその時を待った。

 そして数字が0になった瞬間、新たな文字が出現した。


 願いが叶えられます。


 よく見ると、『この』の二文字は何らかのリンクになっているようで、そこだけ青色になっていた。迷わず押すと、ザザッというノイズが流れ始め、直後に声が聞こえた。それはどこかで聞いたような、けれど誰か分からない声だった。

 その声はこう呟いた。


『死なねえかな、あいつ』


 悪趣味なイタズラだと思った俺は、せっかくの自分の気持ちを踏みにじられたように感じた。そして、悪態の一つでもついてやろうと口を開いた。だが、声が出なかった。

 声だけではない。息が吐けなくなっていた。慌てて今度は吸い込んでみようとするが、こちらも駄目。

 窓に手をかけて引き開けた。拳で胸を叩いてみた。喉に指を突っ込んでみた。体を折り曲げて何かを吐き出そうとした。

 だがどれも駄目だった。このままでは死んでしまう。


 刻一刻と迫るタイムリミットにパニックになりながらも、俺は必死で救急に電話をかけようとスマホを手に取った。そして電話をかけようとして、はたと俺の手が止まった。

(あれ、救急は110番だっけ、それとも119番だっけ?)

 そう悩んだ瞬間に、俺の意識はふわりと遠のいた。




 部屋に横たわった男の手の中で、白い画面を映したスマホは煌々と光っていた。そこには新たに三つ目の文が現れていた。そこにはこう書かれていた。


 願いは叶えられました。

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