よるあるく

遠野遠

第1話

”お夕飯は近くのコンビニで買ってね。行くときはケータイ忘れないこと”


 小学校から帰宅した工藤智香くどうともかは、携帯電話にメッセージが入っていることに気づいた。お母さんからだった。

 今日も一人で夕飯を食べることになる。いまさら寂しいとは思わない。けれど、たとえばわたしが家のお財布からいくらか多めに抜いていたとしたら、お母さんはどんな顔をするだろう、と智香はいつも考える。


 時計を見るとまだ四時で、お腹はすいていなかった。冷蔵庫からリンゴジュースをとって、自分の部屋に入りランドセルと手提げを下ろし、コートをクローゼットにしまった。クローゼットの扉についた姿見に、おかっぱの少女が映って消えた。


 勉強机に座って、ランドセルから算数のプリントを取り出す。宿題は家から帰ってすぐにやることにしている。早くやっておかないと落ち着かないし、先生もそうするほうがいいと言っているからだ。すぐにやる気が起こらないという友達もたくさんいるが、智香はそうは思わない。自分はたぶん勉強がそんなに嫌いでないのだと、彼女は小学校高学年になって気がついた。

 学校では使えないお気に入りのシャープペンシルを机から取り出し、スピーカーからお気に入りの歌手の音楽を流す。お母さんには音楽を聴きながら勉強してはいけないと言われているが、ひとりの今は気にしない。


 算数のプリントは今日の授業の復習だったので、智香には難なく解けてしまった。続けて漢字練習を仕上げた後は、友達とメールしながら、図書室で借りた本を読むことにした。変人だがかっこいい探偵が、助手の女の子といっしょに事件を解決する話だった。現実にはありえないような事件が鮮やかに解決されていく不思議に、メールの返信もそぞろになるくらい、智香は夢中になった。


 時計を見ると六時半で、夕食を買いに行くことにした。小説の途中に、市の作文コンクールで入賞した記念にもらった栞を挟んだ。

 コートを羽織り携帯電話を首にかけ、いつものように食卓の財布から千円札を取って玄関を出た。外はもう暗く、冷たい秋風が智香を包んだ。


 五分ほど歩いて、智香は行き慣れたコンビニへたどり着いた。

 お店の外壁には、たくさんのポスターが貼ってある。お店で五百円以上買い物するとグッズが当たるくじが引けると宣伝するもの。男性アイドルグループのライブツアー情報が書かれたもの。クラスの男子がよく話している新作ゲームソフトの宣伝が書かれたもの。強盗致傷の指名手配犯の目撃情報を求めるもの。見慣れたそれらの横に新しいポスターが貼ってあることに気づいて智香は足を止めた。


 新しく公開される映画の宣伝ポスターだ。最近テレビでよく見る俳優男女が見つめあっている横に大きく、「この冬、あたらしい恋がはじまる」とキャッチコピーが書かれている。智香はその題名に聞き覚えがあった。

 お父さんとお母さんは映画の宣伝をする会社で働いていると智香は聞いていた。「あのポスターもあのCMも、お父さんとお母さんががんばって作ったのよ」と智香に教えてくれることがあった。智香に仕事の話をする二人は、とても楽しそうに見えた。


「工藤、映画好きなのか?」


 振り返ると、クラスメイトの水原彰一みずはらしょういちが、不思議そうな顔で立っていた。自転車をひいており、籠には使い込まれてのリュックが入っている。紺のダッフルコートにジーンズといういでたちで、動くとやわらかい髪がふわりと揺れた。


「ううん、そんなに。お母さんとお父さんが、映画のポスター作る仕事してるの。だから」

「へぇ、すげーじゃん!」


 彰一は目を丸くして驚く。

 彰一はいつもクラスの中心にいて、大きな手振りと誰にもわけ隔てない笑顔でみんなを惹きつける存在だった。ひかえめな智香は彰一をクラスの端から見ているにすぎなかったが、彼の太陽のような明るさはまぶしく思えた。


「工藤はこんな時間に一人で何してんだ?」

「夕ご飯を買いに来たの」

「夕ごはん? 自分で用意しなきゃいけないのか?」

「うん。お母さんもお父さんも帰りが遅いときがけっこうあって。そういうときはコンビニで買うの」

「えっ、たいへんなんだな!」


 あまり話したことがないのに、自然と言葉が流れ出る。夜に学校の外で会うという特別がそうさせるのか、彰一の屈託のなさがそうさせるのか。智香には不思議だった。


「水原くんは、どこ行くの?」

「オレはちょっと、学校に」


 くすぐったそうに言う。訊いてほしいのかな、と智香は思った。


「なんでこんな時間に? 忘れ物?」

「いや、心霊調査に来たんだ」


 誇らしげに言う。


「工藤は夜の学校にヒトダマが出るって噂、知らねーか?」

「聞いたことないけど……」

「マジか。男子の間じゃ有名なんだけどな。それを見るために、今から学校に潜入するんだ」

「ひとりで?」

「そう。噂があるってだけで、誰も確認したやついねえからな。オレが一番乗りになってやるんだ」


 智香は自分の好奇心が疼くのを感じた。


「それ……おもしろそうだね」

「だろ? そうだ、もし暇だったら、工藤もいっしょに来るか?」

「え、いいの?」

「おう。一人より二人のほうが楽しいじゃん」

「でも、それだとクラスで一番乗りになれないよ」

「あー、まあ、二人で一番ってことで。楽しけりゃいいんだよ!」


 彰一の気安さが心を押してくる。

 クラスメイト二人と夜の学校に忍び込む。それは恐れ多いけれど、とてもわくわくすることだった。


「どうする?」


 彰一が笑って問いかける。

 お母さんの顔が一瞬脳裏に浮かんだ。工藤智香は毎日自分で勉強して、自分で夕ご飯を食べる、真面目な良い子。みんなそう思っている。

 けれど、今日はちょっと違うんだ。


「わたしも行く!」


 輝く目で、智香は言った。


   *


 コンビニを通り過ぎようとするとき、店の前にたたずんでいる智香に、彰一は思わず声をかけていた。

 気づかないふりで通り過ぎてもよかった。けれど、ぽつねんとポスターを見上げる彼女には、放っておけない何かがあった。

 いっしょに行くかと誘うと、彼女は目を輝かせてついてきて、彰一は驚いた。


 工藤智香は、物静かで、真面目で頭の良い女子だった。先生はクラスの多くが解けない問題が出ると、彼女に答えさせることがよくあった。智香は休み時間は仲の良い女子と話していることもあったけれど、一人じっと本を読んでいることもあった。

 クラスの片隅で、派手ではないが落ち着いてたしかな輝きを放つ智香は月明かりに似ていた。彰一にとってなんとなく気になる女子だった。

 けれど、やんちゃな女子ならともかく、物静かでどこかミステリアスな智香に下手に話しかけると目立つ。変な噂が立って彼女に迷惑をかけそうで、誰とでも打ち解ける彰一ですら、話すきっかけがつかめずにいた。

 

 コンビニで智香は、迷わずメロンパンと暖かいココアを買って出た。「晩メシ、それだけでいいのか?」と訊くと、「うん。歩きながら食べられるほうがいいでしょ」と返ってきた。

 自転車を引きながら二人並んで歩いた。智香は小さな口でメロンパンを頬張っている。


「工藤んちは、ええと、なんだ、共働きってやつなのか」

「そうだよ。二人とも忙しいんだって」

「きょうだいとかは?」

「いない」

「へー。オレはひとりで晩飯食ったこと、ないんだよな」

「いいなあ。うらやましい」

「そうか? オレはそういうの、やってみたい」

「え、どうして?」

「いいじゃん、自分で食べたいものだけ選べて。うち、食べ物残したらすげえ怒られるからさ、嫌いなものも我慢して食べなきゃいけないんだぜ。うざいったらねえよ」


 智香を気遣うつもりもあったが、彰一の本音でもあった。


「そういう言い方は、その、しないほうがいいんじゃないかな」

「……工藤、おまえ、やっぱいい子だな。見た目通りだ」

「えっ、そう?」

「めずらしいっつーか、おもしろいっつーか」

「それ、ほめてる?」

「さあな」

「え、ちょっと、どういうこと?」

「まあ、深く考えんなよ」


 彰一は笑って受け流す。困る工藤を見るのは珍しくて、少しおもしろい。


「しかし今夜出てくるのも大変だったんだぜ。学校に忍び込むのがバレたら、どれだけ説教されるか」

「心配されてるってことじゃない? いいことだよ」

「そうかぁー?」

「うん。うらやましい」


 それから今日の授業の話、数日前の学芸会での出来事などをつらつら話していると、校門が見えてきた。

 毎日嫌というほど見ている校舎だが、夜はぞっとするほど静かで真っ暗で、まったく別の建物に変わったように思えた。


「夜の学校って、特別な感じがするね」


 校門の前に自転車を停めていると、校舎を見上げていた智香が、ぽつりと言った。


「昼間は中に人がたくさんいるから、建物も起きてる。けど、夜は建物も眠ってる。そんな感じがする」

「工藤は、怖いとか思わないのか?」

「ううん。知らない建物になったみたいで、わくわくする」

「そう、か」

「水原くんは、怖いの?」

「えっ、いや、そんなわけねえじゃん!」


 見透かすような大きな目に彰一はたじろいだ。威勢よく来たものの、いざ夜の校舎を目にすると少し怖気づいていた。一人で行っていたらそのまま家に帰ったかもしれない。二人で来て助かったとすら思っていたが、それは智香に悟られたくなかった。


「そういえば、どうやって入るの? 玄関も窓も、全部鍵かかってるよね」

「まかせろ、手を打ってあるんだ。東棟の非常口に行こう。さあ」


 彰一が指し示す。智香がきょとんとした顔をする。


「あれ、わたしが先なの?」

「い、いや違うぞ。もちろんオレが先に行くに決まってるじゃんか」


 あわてて先に出ると、智香が叫んだ。


「あっ、ヒトダマ!」


 智香が叫ぶ。見上げると、三階の一番端の教室の窓に、小さい橙の明かりが一つ、ぼんやりと浮かんでいた。あれは六年三組の教室だ。


「うわ、ほんとに、出た……うわわわ……」


 背筋がぞわぞわして、踵を返して走り去ろうとしたそのとき、


「水原くん、行こ! 早く正体を確かめなきゃ!」


 智香が手を取り駆け出したので、彰一は危うく転びそうになった。



   *


 東棟の非常口前にたどり着く。ここまでくると街灯もない。彰一はリュックから懐中電灯を取り出した。明るくなってほっとしたのも束の間、今度は照らすたびにあたりがちらほら見えて、怖いものが急に目に飛び込んでこないか不安になった。


「でも、非常口もやっぱり鍵がかかってるよね?」

「こいつで開けるんだよ」


 彰一はポケットから針金を取り出すと、智香の目がきらめいた。


「すごい! ドラマとかで、よくあるやり方だね」

「そう、非常口の扉だけは、ピッキングができる鍵穴なんだぜ」


 彰一は得意になったが、


「でもこれ、犯罪なんじゃ……」


 とすぐに智香の眉が曇った。


「今さら何言ってんだよ。ヒトダマの正体、確かめなくていいのか」

「確かめたい!」

「なら行くぞ」


 自分の部屋の鍵で練習してきてはいたが、何度も挑戦してやっと開いたときにはほっとした。ここで入れない、なんてことになったら格好悪い。

 扉を開けると、濃い闇が広がっていた。廊下はどこまでも伸びているように見えた。入口に立ちあちこち照らしてみると、壁に突然自分の顔が浮かび上がって彰一は悲鳴を上げそうになった。よく見ると手洗い場の鏡に、自分の顔が映っていただけだった。

 彰一は、智香に廊下の先を指し示した。


「ほ、ほら、行くぞ」

「あれ、やっぱりわたしが先頭?」


 ……やっぱりそんなわけにはいかないよな。

 彰一は生唾を吞み込んで、一歩を踏み出した。

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