第3話 苦悩

「……、……ふう」

背中に冷たい汗をかいているのが分る。


 エリ子が亡くなってすでに二十数年経つ。

 しかし、いまだにこの時期になるとあの頃の夢を見る。そして、夢を見た直後には、冷たい汗をかきながら目が覚める。

 夢の中では、あのエリ子と過ごした三日間が、鮮明に甦ってくる。





 エリ子は交通事故で亡くなった。

 幼い子供が路上に飛び出したのを救おうとして、自身が犠牲になったのだ。誰が悪いとも言えない、不運な事故だった。

 私と石川町駅で別れ、最寄りの駅で降りた直後のことだったと言う。


 私の夢は、必ず知花からの電話で覚める。茫然自失となった私や、葬儀の時のご家族の悲痛な姿などはまったく出てこない。

 どれも同じように経験したことなのに、何故かエリ子に直結している場面だけが、甦るのだ。


 まだ4時過ぎだ。

 本格的に起きるまでには3時間ほどある。

 しかし、いつもこのあとに眠れた試しがない。


 



 ベットの隣には、妻が寝ている。

 妻は、私が冷や汗をかいて起きることを知らない。そして、エリ子のことも……。


 妻は私の過去を聞こうとはしない。妻自身が過去を聞かれたくないからだ。結婚して六年になるが、お互いの過去に言及したことは一度もない。だから、エリ子のことについては、妻が知るよしもないのだ。


 妻は、大学生になるまでは裕福な家庭に育ったらしい。しかし、父親が不況の煽りで事業に失敗し、一家離散の憂き目に遭っているそうだ。妻が私に言うのはここまでで、詳細に付いては触れて欲しくないようだ。


 過去に色々とあった割に、妻は快活な性格だ。私がどちらかと言うと寡黙でつまらない人間であるのとは対照的に、人付き合いを苦にせず社交的な面がある。容姿も年齢の割には若々しいし、私には過ぎた嫁だと言える。





「どうしたの……?」

「いや、何でもない。まだ4時だから寝ていて良いよ」

汗を拭うために身体を起こしたら、妻が起きてしまった。睡眠の深い妻が、私に反応して起きてしまうことは珍しい。

 昨晩、

「少し体調が悪い……」

と言っていたので、そのせいかもしれない。


 私はそっと寝室を出た。階下にある洗面所で、汗を拭く。そのままリビングのソファーに腰掛けると、真っ暗な中で物思いに耽った。





 エリ子が亡くなった後、私はしばらく何も手に付かなかった。寝ても覚めてもエリ子が亡くなった事実だけが私を責めたのだ。

「あの時、一緒に夕食を食べていれば……」

そんな後悔が、いつまでも脳裏を巡った。


 しかし、高校に入ってしばらくすると、それではいけないと思い至った。

 私はエリ子と約束をした。

「新しい夢を見つけ出す」

と……。

 エリ子との約束を果たせずに時間だけが過ぎてしまうことは、エリ子に対する私の裏切りのような気になったのだ。だから、部活にも入ったし、今まで以上に学業にも精を出した。

 ただ、サッカーのようなすべてを賭ける対象には、結局、巡り会わなかった。


 それでも、部活で始めたギターは今でも趣味の一つだ。高校、大学とバンドなんかも組んだりした。稚拙ながらもライブをしたこともある。

 しかし、演奏能力と将来のことを考えれば、これは趣味でしかなかった。残念だが、私にはプロを目指せるような技術も、万人をうならせるような感性もなかった。


 バンド活動をしていた割に学業を疎かにはしなかったのは、まだ自身に新しい夢が訪れる可能性を信じていたからだ。学業がどう夢に直結するのかは分らなかったが、とにかくやれることは何でもやりたかった。


 一応、大学は四年で卒業し、建設会社に就職した。学部が建築学部だったので、業種的にはそれしか選択肢がなかったとも言える。

 会社に勤めながら一級建築士を取得し、とりあえず収入面では不満のない生活をしていた。


 環境が変わったのは、就職してから五、六年が経ち、母が脳梗塞で倒れてからだ。

 それまで、家事と仕事を両立してくれていた母が、半身マヒ状態となり、介護が必要となった。

 父は家事の一切をやってこなかった人間だから、必然的に一人息子の私が家事と介護を担った。そのため、企業勤めが出来なくなり、出勤時間の融通が利く小さな設計事務所に転職した。

 今まで苦労をかけた母のためなので転職は致し方なかったが、これで私の職業的なステップアップは望めなくなった。





 妻と出逢ったのは、母の介護でだった。

 妻は介護士をしており、担当者として来ていたのだ。

 母も、

「とても気が利く介護士さんがいる……」

と、妻を気に入っていた。

 出逢った最初の頃は、私も単に良く気の利く人……、と言う認識だった。ただ、基本的に私と妻は入れ替わりで母の面倒を看る関係で、ほとんど会話もなく、介護の関係で知り合っただけであった。


 その関係が進展をみせたのは、母が仲介に入ったからだ。

「美佐子さん、ウチの健太郎と付き合ってみない……?」

と、しつこく仕事に来る度に口説いたのだと言う。

 私はまったく知らなかったが、妻が後に教えてくれた。

 本来なら規則違反だったそうだが、母があまりにもしつこかったのと、私の頼りない介護の仕方が心配で、徐々に親近感が湧き出したのだそうだ。


 その母は、私達が入籍してすぐに、二度目の脳梗塞で亡くなった。まるで私が身を固めるのを見届けるかのように……。

 

 そして、父も後を追うように、ガンで亡くなった。

 妻がいなければ、今頃私は天涯孤独な身の上だ。

 母には感謝してもしきれない。





 学業や仕事、介護に追われても、私の中には常にエリ子の記憶があった。


 エリ子が亡くなってから十年は、命日の度に墓参りをした。

 エリ子の墓には、必ず新しい白いカサブランカが供えてあり、いつも綺麗に掃除をしてあった。ご家族もエリ子の存在が風化していないからか、何年経っても墓の佇まいは変わらなかった。


 十年で墓参りを止めたのは、十回忌の法要に呼ばれ、エリ子の母から、

「あなたはまだ若いのだから、エリ子のことは忘れて自分の人生を生きて欲しい……」

と言われたからだ。

 私が命日に墓参りしていることは誰にも報せていなかったが、何故かエリ子の母は知っていたようだ。


 十回忌の法要には、エリ子のご家族と親族一同が顔を揃えていた。十回忌を区切りに、これ以後は内輪で法要を続けていく……、とエリ子の母は言っていた。


 法要の最中、幼稚園に通っているような年頃の女の子が、飽きて泣き出してしまった。どうも、エリ子のお兄さんの子らしいが、とても活発な子で、座っているのに耐えられなかったようだ。

 子供の泣く姿を見て、自身が歳をとったことを思い知らされた。泣いている女の子がこれから思春期を迎え、いかなる青春を過ごすのかに思いをはせると、羨ましさとともに微笑ましさを覚えた。





 エリ子のことが心に残っていたせいか、私にはその他の恋愛経験がない。バンド活動をしていた頃には、異性からのアプローチもあったりはしたが、私自身にその気がなく、付き合うには至らなかった。

 私が恋愛に消極的だったのは、恋愛をすることが怖かったからだ。気持ちの絶頂から突き落とされる感覚は、いつまでも忘れることは出来ない。


 それに、若い頃は度々エリ子の夢を見た。

 何年経っても、瑞々しい記憶が甦っていたので、いつまで経ってもエリ子への気持ちは冷めることがなかった。


 私のエリ子に対する気持ちは、いつからか恋愛の記憶から信仰に近いものになっていた。決して私の手には届かない存在であるのに、犯すべかざる聖域として私の心の中に存在していたのだ。

 当時の私には、エリ子は夢そのものだった。次の夢が訪れるまで、その夢は覚めることがなかった。





 私がエリ子の夢をあまり見なくなったのは、母の介護と仕事で睡眠がまともにとれなくなったからだ。

 特に、設計事務所に転職してからは、家に仕事を持ち帰ってすることが増え、介護の合間に仕事をする日々が続いた。

 睡眠は平均して3時間くらい……。

 身体も気持ちもギリギリのところで私は耐えていたと思う。

 それだけに、先のことを考える余裕はなかった。

 自身に訪れると信じていた新しい夢も、諦めに近い気持ちで考えないようにしていた。


 母は、そんな私を心配していたようだ。だから、妻に無理を言ったのだろう。

 夢を諦めた私は、気持ちにポッカリ穴が空いていたようで、妻の存在を自然に受け入れることが出来た。皮肉なことに、多忙な日々がエリ子を忘れさせ、そのために妻を受け入れられたのだ。


 しかし、私が次の夢を見つけたかと言うと、そうではない。

 ただ、夢を諦めていた多忙な日々が、両親の他界によって終わったとは言える。そして、私は再び次の夢を求めだした。





 次の夢……。

 それは、妻との間に子を授かることだ。

 仕事にも、趣味にも、私はすでに夢を持つことは出来ない。だが、子育てなら夢として価するし、私にはそれしか残されていないように思ったのだった。





 とりとめもなく思いを巡らしていたら、窓の外が明るくなってきた。時計を見ると、6時を回っている。


 そろそろ妻が起きてくる頃だ。妻は今も介護の仕事を続けている。





 私が子作りに積極的になったことは、妻にも相談の上だった。両親を相次いで亡くした寂しさもあったので、とにかく新しい家族が欲しかったのだ。

 妻も私の提案に賛成してくれた。ただ、

「仕事は続けたい……」

とは言っていた。


 私の薄給では生活が心許ないので、妻には仕事を続けてもらいたかった。なにより、介護の仕事は妻の天職だと思っていたし……。妻は妻で、一つの夢を実現している。私がそれを妨げるつもりは毛頭無い。


 だから、子作りについては、お互いの仕事の負担にならない程度で……、と当初から決めていた。お互いに無理をしなくても、いずれは授かるのではないかと言う、期待感もあったから。

 しかし、その考え方は甘かった。

 私達夫婦には、入籍してから今まで、六年も経つのに子供が授かる気配もなかった。




「私、不妊症なのかなあ……?」

妻がそんなことを言い出したのは、入籍して二年目のことだった。

 妻と私は同い年……。当時34歳であったが、そろそろ高齢出産と呼ばれる時期に差し掛かる頃であった。それだけに、二人とも少し焦りだしていたのもある。


 私達も一応は子を授かる努力はした。

 排卵日を計算し、毎月、その頃に体調を合わせ、極力夜を共にしたのだ。しかし、二年間で一度も妻は妊娠しなかった。

 二人で、インターネットで妊娠しやすくなるにはどうするかなども調べたし、本なども色々と読みあさった。やれることは概ねやってきたし……。それでも妊娠する徴候すらなかった。

 妻は毎月、生理が来るとがっかりしたような顔で、それを私に報告した。

「無理しないって決めたんだから……」

と、私は何度も妻を慰めたが、彼女は納得していないようだった。

 不妊症の疑いを抱いたのは、そんな積み重ねの結果だった。


 病院で検査をした結果、妻の身体は正常だと言うことが分った。

 妻は、検査をしてから結果が出るまで、憂鬱だったそうだ。

 しかし、身体はいたって健康……。

 問題があるのは、私の方ではないかと言う可能性が高くなった。


 妻の結果を受け、私も検査をした。私の生殖機能に問題があるかどうかなど考えたこともなかったが、私もそれしか可能性がないと思ったから……。

 しかし、私の精子の質、量ともに異常はなかった。量は標準よりやや少なめだが、異常と言うほどではないらしい。


 二人の検査の結果を看て、私達は途方に暮れてしまった。

 身体に異常がないと言うことは、完全に確率的な問題に過ぎないと言うことだからだ。

 排卵日前後の性交によって妊娠する確率は、約80%程度と言われている。つまり、5回に4回は妊娠しておかしくないはずなのだ。それを、20回近くも外してきていると言うのは、ちょっと考えられないほどのレアケースだ。


 二人の検査結果以後も、私達夫婦の努力は続けられた。

 かぼちゃやニンジンが身体に良いと言われればそれを食べ、極力ストレスを溜めないことが大事だと言われれば癒しの効果を狙って旅行などにも行ったりした。

 もう手段がないと思えば神頼みにもなり、安産祈願の御祓いなどもしてみた。

 しかし、結果は無情であった。

 現在、38歳の私達には、残されている時間もあまり多くはない。最近では、

「仕事を辞めようかしら……」

と、まで、妻は言い出している。


 二人で努力をしている内に、子作りは目標であり夢になった。しかし、私達の夢がいつ実現するかについては、何の保証もありはしなかった。





「美佐子……、そろそろ起きた方が良いね」

「……、……」

妻はなかなか起きてこなかった。もう7時近い。そろそろ起きないと、妻が仕事に遅れてしまう。


 私が妻を起こすことなんて、今までにないことだ。

 朝が弱めなのは常に私の方……。だから、起こしてもらうことはあっても起こしたことはほとんどない。

 それに、妻は体調を崩したこともなかった。普段から介護先に迷惑を掛けてはいけないからと、風邪や感染症の類には極力気を遣っているからだ。机やパソコンにかじりついている私とは違って、妻の仕事は身体を使う仕事でもある。

「健康でいることも職務上の責任なのよ」

と、彼女は常々言い、実践しているのだ。





「少し良くなったら、病院に行っておいで……」

私はそう言い残して家を出た。


 妻は風邪をひいたようで、軽く咳き込み、少し熱もあった。

「身体がだるいの……」

と、辛そうに言うから、今日は仕事を休むように勧めた。

 妻の仕事先に電話したら、代わりの人を手配してくれると言う。


 朝食を食べるついでに、妻へはパン粥を作った。

 作ったと言っても、食パンを細切れにして牛乳に浸し、蜂蜜を少しかけて電子レンジで温めただけだが……。

 妻は、これを母によく作っていた。体調が悪く口が不味い時でも、これなら食べられるから……、と言って。





 駅に向かう道すがら、私は小さくあくびをした。

 エリ子の夢から覚め、それから寝られなかった分、少し眠い。

 しかし、一日はまだ始まったばかり……。

 今日も一日、積み上がった仕事を片付けることにしよう……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る