第2話 衛生管理

 飲食店の従業員は定期的に検便の検査をする。風邪をひき咳をする者には冷ややかな視線が注がれ仕込みの際はマスク着用の義務があった。下っ端が体調を崩すと露骨に嫌な顔をされる。


「俺にうつすなよ。離れて仕事してくれ」

「今すぐ病院に行って注射してもらってこいよ」

「体調管理も仕事のうちだ」

「変なものでも食ったか? 」


 結構ネチネチ言われるが自分が風邪を引いたときはしれっとマスクをつけて仕事をしている。中には二日酔いを隠すために偽装する者もいた。隣に立つと臭ってくるのでバレバレだ。上司なんてそんなものだ。誰だって苦しいときはある。


 事情を理解している後輩が風邪を引いたときは演技がオスカー受賞クラスだった。マスクをつけて顔を赤らめて、息が荒く苦しそうにしながら涙目で訴える。


「すい、ません、病院、行ったんですけど、熱が、下がらなくて、俺、どうすれば、いいですか......」


 壁際にもたれ掛かりながら比較的店が暇な時に、特に優しい先輩に質問するのも賢い。私は唸った。お前、出勤するときはピンピンしてたよね? この後輩はスムーズに休みを取ることができた。これが馬鹿正直に頼むと先輩に捕まり小言を言われる羽目になる。日頃の人間関係も大事だ。実際、病原菌を持っていて従業員にうつされたら終わりである。ノロウィルス等の食中毒などもってのほかではある。


 抜き打ちで保健所の方が店にやってきて冷蔵庫の取っ手や水道の蛇口付近を綿棒で擦り細菌の検査にやってくる。私が新人の時に白い帽子、マスク、白衣にネクタイ、手袋をした物々しい集団が仕込み場に乗り込んできた。


「はい、そのまま動かないで。あなたの手の平の細菌を調べさせてくださいね」


 私は素直に手も洗わずに採取させてしまった。直前に汚れた熊笹をスポンジで掃除をしていた手だった。後日店に検査結果が届いた。


 〇〇さんの手 黄色ブドウ球菌検出


 同期全員爆笑だった。あきれた先輩に言われる。


「お前なんで手を洗わなかったの? 人間の手なんて普段はバイ菌だらけなんだから。普通は検査の前に丁寧に手を洗って検査をパスするんだぞ」


 知らんがな。私は保健所の方に言われるがまま検査に応じただけなのに。検査の結果は掲示板に張り出されて私は店の行く先々でいじられた。ホールのお姉さん方も笑っている。


 私はしばらくあだ名が「黄色おうしょく」になり精神が暗黒時代に突入した。グレようかと思ったが社会人でそれをするとクビになるので堪えた。


 それ以来私は病的に手を洗うようになった。誰が見ていなくても手を手首まで洗剤をつけて時間をかけて洗い、手の皮がフニャフニャになるほどだった。


 次回の保健所細菌検査に立候補して、細菌の数を極限にまで減らしてパスし汚名を返上した。実際にハイターで手を消毒するほどだった。


「こんなに細菌の数値が低いのもおかしいですが......」


 保健所職員から小言を言われる。知ったことではない。とにかく私は勝利した。今となってはいい思い出だが当時は相当悩んだものだ。


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