第7話 激おこ

 土曜日の忙しさは半端じゃない。平日よりも一、五倍のお客様が押し寄せランチでは行列になる。十一時半のオープンで店が一気に満員になり、その後三回転同じ数のお客様が押し寄せる。


 仕込みもそれに備えてはいるがやはり足らないネタが出てくる。それによって新人は各階や別館に走らされて取りに行き、陸上選手のような階段ダッシュをして太ももがパンパンになる。営業終盤になると魚の取り合いになった。


「若芽とツマが足りない。少し分けて! 」

「白身五貫分でいいから急ぎで持ってきて! 」

「穴子の焼いたところ余ってない? 落としちゃった」

「うちの新人が帰ってこない。そっちで遊んでいないか? 」


 内線の電話は鳴り止まずあまりの忙しさに思わず電話線を切りたい衝動にかられる。そのまま休憩時間をオーバーしてノンストップで夜の営業準備に入る。休憩時間は外の自販機で飲む缶ジュース一杯分のブレイクタイムだけだ。


 そのまま夜も殺人的な忙しさが続き、ようやく営業が終わりに近づくと残った魚をまとめ始める。大きいタッパに入っている物は小さなタッパに移し替えて大量の洗い物が地下に流れてくる。エレベータは上下に休みなく稼働して人も物を動き回る。


 ひと段落ついたら週に一度の下水掃除だ。床下の扉を開けるとモンスターの口の中のような深緑色の発酵したヘドロが渦巻まき悪臭で涙が出てくる。新人は毎年うっかりこの中に落ちて下半身を浸水させて服をダメにしてしまうのは恒例の行事だった。強力洗剤で床も擦り、跳ね返ってくる汚水で足はベチョベチョだ。


 各階の古い冷蔵庫の掃除も行い、中の物を全て取り出しスポンジで洗うのだが、低い位置にあり所々錆付いていて非常に洗いにくい。初めて掃除する時はコツがいるので先輩に手本を見せてもらう。


「いいか。こうやって棚を外してから洗ってホースで水を流すんだ」


 丁寧に教えてくれる。時刻は深夜に近く板前はとっくに帰っており二人きりだ。思わず気が緩んであくびが出た。


「眠いのか? 」


 しまった!先輩は無言になり明らかにイラついている。しかし当時の私は気が使えない甘ちゃんだったので


「そうっすね〜」


 悪びれもせずにそう言った。わざわざこの時間まで先輩は残って指導してくれているのにこの態度である。掃除が終わってから


「ちょっとお前下に来て」


 静かに言われた。何だろう? 飲みにでも連れて行ってくれるのかな? 馬鹿面でエレベーターに乗る。先輩はずっと俯いている。扉が開き胸ぐらを掴まれて先輩に詰め寄られ、背後の冷蔵庫に背中を叩きつけられた。


「何だよ、お前さっきの態度は? あれが人に物を教わる態度か? あっ?」

「すいません......」


 事態をようやく把握した私は謝るが先輩の怒りは収まらない。土曜日の殺人的な忙しさで気が立ち、疲れているのは理解していたはずなのに。


 先輩は盛りのついた発情期の野良猫のように目を釣り上げ顔を真っ赤にしていた。息が荒く獲物を前にした猛禽類のようでもある。


「お前マジでふざけんなよ! 何考えてんだよ、こらっ〜〜〜! 」


 先輩は仕込み台に置いてあった綺麗に片付けたタッパ類を力任せになぎ倒した。モノが床に叩きつけられる音が仕込み場に響き渡り、私の買ったばかりの出刃包丁も吹っ飛んだ。包丁の切っ先が折れていた。


「ああ......」心の中で嘆いて先輩の様子を見ると若干落ち着いていた。私が包丁を買いに行ったことは知っていたので罪悪感を感じたのだろうか? そのまま無言で帰ってしまった。


 業務用冷蔵庫の駆動音だけがやけにはっきり聞こえる。私はしばらくそのまま立ち尽くしてから、のろのろと散乱した物を片付ける。それ以来私は人の顔色と空気を読むことを覚え始めた。発言する前はよく考えて相手がどう思うのかシミュレーションする癖がついた。結果的にそれは接客業としては悪いことではなかった。


 休み明け、真っ先に出勤してきた先輩に謝った。


「何が? 」


 いつものとぼけた先輩の態度だ。怒った後はネチネチと尾を引かないカラッとした性格の人物だった。社会人になり人から直接あれほどの怒りをぶつけられたのは初めてだった。


 私は包丁の切っ先を失い、一つの教訓を得ることができた。

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