第二章 『コト』は続いて

 美地にもらったおにぎりに感謝しながら、空也は署から解放された。想像していたほどではないけれど、やっぱり警察署の中は暗かった。なんだか、日の光が妙になつかしい。

昼時を少しすぎて、人通りはまずまずだった。包みを持った主婦や学生が行き交っている。石畳を擦る履物の音が賑やかだ。遠くの定食屋から焦げた味噌の香りが漂ってくる。

 空也は大きく伸びをした。

「あ~ 疲れた」

「はいはい、お疲れさんでした。他の仕事があったんで、詳しいことは聞けなかったんだけど、やっぱり何も見てなかったんだって?」

「何か見てたら、もっと早くにいろんな人に言いふらしてるって。部屋に通されたとたん寛次はいなくなっちゃうしさ―」 

「相手が知り合いだと調べが甘くなるからダメなんだってさ。そもそも、取り調べは俺の管轄外だし」

「狭い場所で知らない人に囲まれて緊張しっぱなしだったよ? 表現は変えてるけど、聞いてることは同じだしさー」  

 空也の愚痴は止まらなかった。

その日、その時なにがあったのか、同じことを何度も何度も説明するのはある意味軽い拷問だ。

「そりゃ腹も立つわな。同情するよ」

「でも、いくらなんでも……」

 まだ続きそうだった文句が、ぴたりと止まった。

「空也さん、寛次さん」

 二人に声をかけてきたのは、長い髪を肩までたらした少女だった。紅い着物に黒の袴、淡い紫のショールを肩にかけている。活発そうな笑顔を浮かべ、手には革のカバンを下げていた。華やかな格好でも嫌味がないのは、優しそうな顔が着物の雰囲気までやわらげているからだろう。

「真、真菜さん!」

 空也が慌てて礼をする。今までのぶっちょう面がおもしろいくらいに消えた。何か慌てているように、真菜からちょっと目をそらす。

「ど、どうしたんですか? こ、こんな時間に。学校は」

「ええ。今日は先生の都合で学校が早く終わりましたのよ。かわりに、家に帰ったらみっちり琴のおけいこです」

 少女は革のカバンを軽くかかげてみせた。中に楽譜でも入っているのだろう。

 真菜は寛次が引っ越してくる前からの友達だ。彼女が女学校に入ってから、顔を合わせる機会が減ってしまったけれど、今でもこうして時々話をする。

「相変わらず良家の子女らしく、習いごとと勉強で忙しそうだな」

 寛次が言った。

「これから、交流会があるんですよ。だからお師匠さん張り切っちゃって」

「交流会ってなんだ?」

「ああ。私のお師匠さん、明衣(めい)さんっていうんですけど、お嫁にいった姉さんがいるんです。その姉さんも嫁ぎ先でお琴を教えていて。お二人は年に一回、どちらかの家でお会いになるんです。一番の弟子を連れて。そこでお互い、弟子の腕を競わせるんですよ。それに、今年は私が選ばれて」

「へえ、すごいっすネ、お嬢さん」

「ふふ、ありがと寛次さん」

 照れくさそうに真菜は微笑んだ。

「おい、空也。ぼっとしてないでなんか言ってやれよ」

 寛次は気のきかない友達をつつく。

「いや、その、オメデトウゴザイマス」

 空也はおもしろいくらいに赤くなっていた。

「だめだこりゃ」

 真菜に気づかれないように寛次はため息をついた。

 空也は、はたから見てはっきりとわかるほど真菜に惚れている。それでも空也が告白できないのは、彼が臆病だからで、それに真菜が気づかないのは彼女が鈍感だからだ。

「そうだ、寛次さん。通り魔があったんですって?」

 真菜が顔を曇らせた。

「そうそう、すごかったぜ。前からばっさり」

 寛次は肩のあたりを手刀で叩いてみせた。

「下駄は片方脱げてたし、着物も裾が汚れてた。被害者もしばらくは逃げ回ってたみたいだが、追いつかれたようだな。たぶん、振り返ったところを斬られたんだろう。財布も盗まれてないし、今んとこ、怨恨の線も薄い。純粋に殺しを楽しんでる奴みたいだ」

「よく、海外でそういう事件があるって聞きますけど、恐いですわ。なにか、手がかりみたいなものは見つかってますの?」 

「いや、それがぜんぜんないんだ。気味悪いくらいに。クソ、絶対犯人フン縛ってやる」

「あ、それで思い出した。そういえばこれ」

 寛次はあずかっていた鈴を取り出した。

「被害者が骨董品屋から買った物らしい。とくに手がかりになりそうな物はないし、一応、娘の親に返すことになった」

もう血が落としてあるからか、鈴は寛次の手の中できれいな音をたてた。汚れで今まで見えなかった、馬と牡丹の模様が浮かび上がっている。干支のお守りの意味もあるようだ。

「まあ、きれいな鈴。こんなものを持っていたんですから、まだお若い人だったのね。かわいそうに」

「そうだ、寛次。これ僕が持ってってあげるよ。忙しいでしょ、今」

「ああ。そうしてくれると助かるな。内緒だぞ。本当はこういうのって人に頼んじゃいけないんだ」

「大丈夫、誰にも言わないよ」

「ったく、こんとこ平和で人が殺されるなんて事件なかったからな。署内はもうてんやわんやなんだ。この休憩が終わったらまた走り回らないかん」

 少しうんざりしたようすで、寛次は鈴を空也に渡した。

「じゃあ、私はもう行ったほうがいいですね。『琴』の楽譜を持っていて、『事』がおきたら大変ですもの」

「言霊ってやつですね」

 似た物同士には、不思議な縁がある。昔からそう言われている。例えば、丑の刻参りは、ワラの束を人の形に似せ、釘を打つことで、人間に呪いをかけようとするものだし、双子は片方が怪我をすればもう片方も同じ場所に怪我をすることがあるという。

 言葉も、それと同じ。御節料理に混布を食べて『よろコブこと』を呼び込もうとしたり、病院が『死』に通じる『四』の部屋を避けるのも、その縁を人々が信じているからだ。

けれど、琴の譜を持っていただけで事件が起こるのでは人生やっていられない。

「まさか、そんなことがあるはずないじゃないですか。大丈夫ですよ」

 空也が笑ったときだった。

「寛次、おい寛次!」

 むこうから警官が走ってくる。なにやら、必死の形相だ。

「まさか」

 顔を見合わせた三人の言葉がきれいに重なった。

「まただ。また通り魔だ」

「ああ、やっぱり!」

 真菜が頭を抱えて悲鳴をあげた。

「たまたまですよ、たまたま」

 空也が苦笑した。そんな二人にかまわずに、警官は寛次に命じた。

「応援を呼んでくれ! 場所は三丁目五番、二のトの大路だ!」

「あいよ」

 寛次は警察署に駆け込んだ。

「行ってみましょう、真菜さん」

「え、ええ」

 場所はすぐにわかった。駆けつけた現場には道をさえぎるように縄が渡され、遺体の傍に近寄れないようになっていた。その線すれすれに野次馬が取り巻いている。そのせいで遠目にしか見られなかったが、死体にかけられた白い布の端がちらりと見えた。よく見ると、赤い小さな斑点がついている。

「いや、これで二人目。なんだか恐いわ」 

「だ、大丈夫ですよ。真菜さんは悪い奴に狙われるような女性じゃありません!」

 空也は慌てて手を振った。

「だったらいいんですけど」

 真菜はますます不安そうな顔になる。

「今夜出発なんです。ほら、交流会があるといったでしょう?」

「あ、あれ今日だったんですか」

「お師匠さんの妹さん、遠い所に住んでいるんです。陣巻(じんまき)町」

「陣巻町? 夜行で行かないと、昼につきませんよ。今回は、やめた方が」

「お師匠さんは通り魔くらいで会をやめるような人じゃないし。他の先生を呼んで、審判をしていただくから、いきなり取止めは……」

「じゃあ、僕が駅まで送ってあげますよ。あ、ああ、もちろんお金はいりません。僕が勝手にやることですから」

「まあ、それは悪いですわ。きちんとお金はらってもらいます。さあ、もうここを離れましょう」

 真菜はようやく微笑んだ。

 その場所から離れていく真菜に続いて、空也も犠牲者に背をむけた、そのとき。

なにか、冷たいものが空也の首筋をなでた。氷を皮膚すれすれまで近づけたような冷気。

空也はあわてて振り返る。そしてそのまま動きを止めた。

「どうしたんですか? 空也さん」

 真菜の呼びかけに気がついてはいるものの、空也に答える余裕はなかった。

 死体の上辺りに、ふわりと白いものが漂っていた。ちょうど、人間の魂が抜ける瞬間を描いた戯画のように。野次馬は気づいていないのか、相変わらず念仏を唱えたり、犯人の予想を続けたり、思い思いのことを続けている。

空也が二、三回瞬きしたときには、その霧のようなものはパッと広がり、空気の中に消えてしまった。

「空也さん?」

「いえ…… なんでもないです」

きっと、気のせいだろう。冷たいのも治ったし。空也は首を振ると、真菜のあとについていった。

 そういえば昨日、絹香というお客さんは、何か変な物を見たといっていた。そんなことを思いだす。

ちらりと見えた白い布が頭に浮ぶ。その下にあるモノを想像しかけて、空也はもう一度首を振った。そんなことをしていると、危うく人力車とぶつかりそうになった。

「あ、ああ、すいません」

 いけない、しっかりしよう。そう空也は誓ったけれど、その日は結局、あずかった鈴を返しに行くのを忘れてしまったのだった。

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