第5話 終日の鐘が鳴る



 今度は派手に目が覚めた。衝撃でドアを開けるほど勢いついて転び、なおかつ小柄とはいえ或亥の体が葉月の上へと降ってきた。葉月は思わず「ぐええ」とくぐもった悲鳴を上げた。


「何とか逃げられましたね。無事ですか」


「……そういうのはどいてから言おうぜ」


 まだ『繭』が渦巻く部屋の中で、転がった葉月は何とか立ち上がり、痛む体をさすりながら大きく息を落とした。『繭』は、何も変わっておらず、腐臭と濃度を深くしているだけだった。


「くそ……それにしても、どうやって逃げたっていうか、脱出? したんだ」


「単に僕の「楽園」を必要以上に大きくしただけです。本来「楽園」は人間の体に宿っているもの。その強弱をつけるには訓練が必要ですが、道具によって強弱をつけることも可能なんです」


 そういって、ポシェットから小さな砂時計を取り出してみせる。


「そうやって急激に僕の「楽園」を膨らませたことで、かえでさんの「楽園」内部は許容量オーバーを起こし、結果はじき出されたというわけです」


「聞いてると無茶苦茶だな……。で、どうやってあのシェルターからかえでを助けるんだ。あそこにいるんだろう」


「根っこが警戒に当たっていたということは、きっとそうでしょう」


「根っこが? 何で根っこがあると言い切れるんだ?」


「……。あまり、言いたくないのですが。この『黒繭化』に解除失敗した場合、『黒繭化』した方がどうなるかはご存じですか?」


 珍しく歯切れの悪い或亥は視線を『繭』に移し言う。


「……死ぬ、ってのは知ってる。でも、単に亡くなるってだけじゃなさそうだな」


「……これは、まだ研究が行われている中でも分かっていないことなのですが」


 或亥は『繭』の側まで近づき、腐臭など気にも留めず立ち止まり言った。


「枯れた花が咲きます」


「枯れた……花?」


 オウム返しに言って、葉月は小首をかしげる。


「咲くのに、枯れてるのか?」


「そこがまだ分からない部分で、奇妙なところなんです。でも、繭が溶け、『孵化』してしまうと、その人の体からは花が咲く。枯れた花が咲いて、それで『黒繭事件』は終わりです。最悪の形の終わり方です」


「……」


「ただ枯れた花からは、『繭』が吹き出すような腐臭や毒素は検出もされません。無害で、ドライフラワーのような。剥製、といってもいいかもしれないですね。それが「生える」んです」


「わけ、わかんねえ……」


 もう何度目かになるか分からないセリフだった。前髪を乱暴にかき上げ、葉月は重たい息を吐き出した。


「それが何かの答えなのか、まだ誰も分かっていません。ですが、「楽園」内部に根が張っているということは、「花」が生まれつつある、という可能性もあるということです」


「……!」


 がたりと、立ち上がろうとして葉月は体勢を崩し、床の上で尻餅をついた。膝に力が入らず、足は震えていた。


「情報がなかったですし、準備も甘かった。僕に少しだけ時間をください。ほんの30分……事務所へ戻って、道具や装備を調えてきます。その間、葉月さんには、ここでかえでさんを見ていてもらいたいのですが」


「……ほんとに、今度こそ何とかなるんだな」


 葉月の視線は険しい。焦りと困惑、それらが絡み合っていた。


「出来る限りを尽くします。出し惜しみはしません。今度こそ、終わりです」


「……分かった。じゃあとっとと行ってくれ。毒薬でも爆薬でも何でもいい。あのシェルターをぶっ飛ばせるものを持ってきてくれ」


 葉月の言葉に或亥は無言でうなずき、すぐさま部屋から姿を消した。とんとん、と短い足音が遠のいていく。


「……。何だか、面倒なことになったなあ、かえで」


 葉月は胸のポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつける。


「お前煙草嫌いって言ってたけど、もうこんなんだし、吸っててもいいだろ……」



□□□



「戻りました。早速始めましょうか」


「妙に遅かったな。30分ぎりぎりだったぞ」


「はい。時間がなくなったので、タクシーを使ってきました。経費として落としますので依頼料前借りで葉月さん出しておいてください」


「……はい?」


「運転手さん家の前で待ってますから」


「ふざけんなてめえ! 終わったらぶん殴ってやるからな!」


 涙目で二階に戻ってきた葉月はきちんと領収書を手にしており、或亥へたたきつけることを忘れなかった。


「くっそ……結構な料金払わせやがって……ここからあのボロビルまでそんな距離ねえだろ」


「まあ途中寄る場所があったもので。その分用意は万全です」


「寄り道ってお前……」


 或亥をにらみつけるが、或亥はぶ厚いコートにインナーにはミリタリージャケットと、腰に下げているのはポシェットだけでなく、色んなフォルダーやケースなどが備え付けられてある。


「っち……その気合いの入れように免じてやるよ」


「どうも。では早速向かいましょう。今度が最後の突入になります。僕らが大丈夫でも、かえでさんの『繭』が保たない」


 『繭』は自身を纏う黒い糸をほつれさせ、腐らせていた。ぼとり、ぼとりと『繭』から肉片を思わせる塊が地面に落ち、腐臭をまき散らしていた。


「ッち、分かった。さっきと同じ要領でいいんだな」


「はい、僕にしっかりつかまっていてください」


 『繭』はまるでこちらを迎え入れるかのように大きく開き、崩壊しつつあった。それに、或亥は一歩大きく踏み出し、飛び込んだ。


 同時に、ヘドロの海に飛び込んだような、薄汚れ濁った濁流が視界を一気に汚していく。上下感覚を失わせるような激流が体を揺さぶり、立っているのか流されているのかも分からなくなる。


 ドシン、と大きな壁にぶつかった。それが地面だと要するに数秒かかった。葉月は何とか身を起こし、側に立つ或亥の後ろ姿を見てとりあえず安堵の息をつく。


 が、それもつかの間だった。


「なんだ、こりゃ」


 きらきらと光る反射光が視界一面を締めている。立ち上がり、周囲を見渡した。


「お花畑……ですかね」


 或亥の声には余裕が消えていた。腰に下げたフォルダーからいくつもの瓶を取り出し、指先に挟んで周りに警戒の念を飛ばす。


 花、であった。鏡で出来た花弁を保つ花が咲き乱れ、ぎらぎらと薄暗い空の下でも光を反射し、まるで万華鏡の中にでも迷い込んだような錯覚を覚える。

 花の背丈は膝下ぐらいまであり、形は百合に似ていた。大きく開いた花びらが、別の花びらを映し出し、また別の花びらを移し込んでいた。


「これって……どういう状況だ? まずいんじゃねえのか?」


 お花畑、と或亥の言葉では生ぬるかった。葉月は「花の群」という印象を受け、おびただしく広がる鏡の花を見渡し、狼狽の色を隠しきれないでいた。


「ええ、まずいですね。……さっき襲ってきた根っこが花の開花を防御するためだとしたら、もう襲ってこない様子を見ると、目的は達成された……つまり、かえでさんの身にも、花が咲く」


「……冗談じゃねえ! どうするんだ!」


「あのシェルターに突っ込みます。そこに閉じこもったかえでさんの魂がいるはずです。あとは、直談判ですね……そこからは葉月さんの出番です」


 鈍色に輝く花畑の奥に、ドーム状のシェルターがある。或亥と葉月は無言で同時に走り出した。

 バリン! と鏡の花を踏み砕き、強引に花畑を突破していく。花畑から直接こちらの動きを阻止するような様子は見られなかった。鏡の花を蹴散らしながら、或亥たちは一直線にシェルターへと向かった。


 そしてたどり着いたシェルターの周りには花が咲いていなかった。葉月は弾む息を抑えながら、真っ白な壁のシェルターを見上げていた。


「着いたはいいけどよ……入り口はどこだよ」


「ないでしょうね。今は要するに「殻に閉じこもっている」状態ですから。葉月さん、離れていてください」


 或亥はそう言うと、ポシェットの中から小さな砂時計を取り出す。たまっていた砂時計を逆さにし、砂が落ちるたびに色が赤く光り加速していく。


「お、おいおい、何だそりゃ」


「簡単に言うと爆弾です。シェルターをこじ開けます」


 砂時計がやがて全ての砂を下に落としたとき、輝きは目を痛くさせる程の光量を生んだ。


「葉月さん、離れていてください!」


 或亥は葉月の返事を聞く前に砂時計をシェルターめがけて放り投げた。

 放物線を描いて輝いくそれがシェルターの白い表面にこつん、と当たった瞬間、空気が火を噴いた。ドシン、と重たい音が腹の底を引っ張り、鼓膜を叩き衝撃で体中がしびれた。葉月は思わず尻餅をつく。


「げっほ……お前、虫も殺さないような顔してやることえげつないな」


「褒め言葉として受け取ります。……よし、突破口は出来ました」


 砂埃と風圧で見えなかったシェルターの正面に、大きな穴が空いていた。だが、その穴はきらきらと光る鏡の花びらを吸い寄せ始める。


「修復している……? 葉月さん、突っ込みますよ!」


「ッ畜生! こうなったらとことん行くぜ!」


 或亥に続き、シェルター内部に転がり込んだ。

 内部はほの暗く、幾筋もの太い幹が血管のように張り巡らされ、外の鏡の花畑とは憂っ手違い、鬱屈した曇り空のような暗澹たる薄暗さが空間内を支配していた。


「かえでは……この中にいるんだろ!?」


「そのはずですが……」


 周囲を観察しようとする或亥は咄嗟に飛び退いた。太く、脈打つ血管のような管がしなりを作って或亥のいた場所を打ち払いに来た。


「くそ、ここでも……!」


 或亥はフォルダーに手を伸ばしかけたが、シェルターは人間の深層心理の内側。派手に傷をつけるようなことは出来ない。体に障害を残したり、最悪死に至ることもある。


「かえで! いるんだろ! 返事をしてくれ!」


 葉月が大声で呼びかける。それに、どくんどくんと鼓動を鳴らす血流の音が更に強くなった。管を巻く血管がうねり、ゆっくりとこちらを品定めするように鎌首をもたげ、やがて一番太い血管がシェルター内部の中央に現れる。


「かえで……! 俺だ、はづ……」


 一歩前に出た葉月に、一本の管が伸びて葉月の腹部に直撃する。鈍い音を伴ったその衝撃は葉月から言葉をなくし、膝を折って意識を奪ってしまった。


「……。かえでさん、いらっしゃるんですね」


 太く脈打つ管を見上げ、或亥は慎重に声をかける。いつでも動き出せるよう、膝は軽く曲げ、リラックスさせる。


 管から、一枚の花弁が割って這い出てきた。鏡で出来たそれは次々に姿を現し、花の形を成した。その中央、人の形をした「何か」が滑り気を帯びて顔から肩を出し、上半身をだした。


 その「何か」はかろうじて「人型」と認識出来る程度で、性別も顔の形も判断出来ないほど、ぬかるみの塊となっていた。

 それが、口を開く。


「彼を、責めないで」


 声は、人間のものではなかった。合成音に近いいくつもの周波数が重なり合った音だった。


「……それは何故か、聞かせてください。『繭』に閉じこもった理由……実は、もう僕には見当がついています」


 ぼとり、と鏡の花弁の一つが落ちた。宙を落ちる間は輝きを保っていた花びらは、地面に落ちる頃にはヘドロと化し、粘り気を帯びた腐食した「何か」になっていた。


「それでもなお、「そんなことを言う」のですか?」


「……幸せじゃなくても、いい」


 シェルターの天井が崩れ始めた。瓦解した壁は地面にぶつかると液状化し、腐臭をまき散らした。


「星が泣いている……私のことなら、気に病まないで」


 既に「かえで」と思われる人型からは顔の輪郭が溶けてなくなっていた。ただ、落ちくぼんだ眼球があった場所からは、赤い粘り気のあるものが流れ落ちていた。


「どうか、彼を、責めないで」


 開いた口の下あごが溶け落ち、鏡の花弁も崩れだした。

 或亥はそれに無言で返すと、意識を失っている葉月を肩に担ぎ、崩落する「シェルター」を走った。

 シェルター内部に張り巡らされていた管も内部から灰色の液体をはき出し、鎖落ちていく。走り込んだすぐ手前に、崩れ落ちた管の塊が落ち、或亥は舌打ちしてそれを飛び越え出口へと急いだ。


 外へ出ても、花に残る腐臭は消えなかった。外で咲く鏡の花は、しおれ、うつむき、朽ちていった。


 鏡の世界が終わる。ゴーン、ゴーン、と、どこかで鐘が鳴る音が聞こえた。


「……『黒繭』の解除、失敗……か」


 つぶやいて、或亥は砂時計を取り出すと、脱出のためそれを地面にたたきつけた。




続く


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