第2章_第24話_閉じた蓋


「不穏な噂?」

 役場内、白い廊下の角で、茜は龍巳と身を寄せ合っていた。今日も風は身を刺すように冷たい。年中冷涼なこの都市に、さらに肺を凍らす冬がやってくる。だが、茜は今も小さな体躯を蝕んでいるであろう寒さを意にも介さず、と言った調子で龍巳の顔をまっすぐ見上げ、元々吊りがちの眉根を寄せた。龍巳は沈鬱な表情で足元を見ている。

「ああ……前回の作戦で僕ら警備隊は、配給品以外の武器を持っていることと、ノ風という傭兵が味方についていることを明かしてしまった。逃げられてしまった人々の中でそれを言って回る人間がいてもおかしくない。そして流れたのが、政府の持つ警備隊は圧政の前触れだという噂なのさ」

「その噂を止めるための黒百合隊、だったんだがなあ……」

 茜は政府に呼び出されて先の作戦について報告をしてきた。野良についてトラと名乗る人物に負傷を与えた以外、何の成果もないことについてたっぷりと絞られた後退室すれば、茜と同じくぐったりとした龍巳がいたという流れである。

 茜はふ、と軽く息を吐いた。何かを覚悟した人間の硬い色彩が目の奥に煌めく。

「龍さん。俺は奴隷街に行って、俺たちを襲った一団がどこから来たのか調査してくる。そんな噂が流れちゃあ、俺たちが吊られるのもすぐだろう。その前に、真実をこの目で確かめたいんだ」

 黒百合隊は元々スケープゴート。贖罪の肩代わりをするためだけに飼われてきた生贄だ。野に放されるだけではもちろん済まず、政府の犬として手足のように働いてきた面々は、犯罪者として民衆の前で首を吊られる。茜には元々その覚悟はできていた。が。

「茜くん」龍巳の声が潤んだ。「僕の采配が悪いばかりに、違う。君を死なせやしない。逃げよう。皆も連れて五人で逃げるんだ」

「色男が動揺しちゃ台無しだぜ、龍さん。早合点しないでくれよ」

 茜はにこりと笑った。余計な力の入っていない綺麗な笑みだった。

「俺あ諦めは結構悪いんだぜ。泥水啜って這い蹲ってでも生き延びてやる。それに、こんなところであいつらに死んでほしくない」

 その声色があまりにきっぱりとしていたので、龍巳は目元をこすりながらも顔を上げた。恐る恐る口を開く。

「奴隷街で調査をするのかい? でも、諜報要員の樒くんは、まだ……」

 眉を下げた龍巳に、茜は半身を背けて、わざとらしくおほん。と咳払いした。少し不器用に片目を瞑ってみせる。

「そうだな、まだ切った髪に似合う服装を選びあぐねてるかもしれない」

 そして、龍巳の顔がようやく喜色に彩られたのだった。


 調査を始めて三日が経った。今日も今日とて、茜は雪白を連れて奴隷街に来ている。

 そも、奴隷街というのは通称である。政府結成以前、人が多いことからよく子供が捨てられ、人買いが現れたエリア。政府が立ち上げられ、子供を産むには政府への申請が必要になり、捨て子は警備隊が運営する孤児院で育てられるようになったのだが。事実あのビルの中、集められた男女は、『トラ』いわく政府の奴隷……らしい。そう言われたことを茜は政府に報告しなかった。思うように踊らされている感はあるが、元々信用していなかった政府への不信感はさらに増している。不確定要素を増やしたくはなかった。

 人が多いエリア、という括りでわかるように、奴隷街は広大だ。また、身分が割れないよう下手な聞き込みが出来ず、調査は難航していた。

 歩きながら茜は悩んでいた。というのも、このまま歩くと彩の画廊に辿り着くのである。彩は元々奴隷だった。当時のことを聞けば、調査のとっかかりになるかもしれない。だが、あの宝物のような少女を、血生臭い事情に茜は巻き込みたくないのだ。

 余計な音が漏れないよう、ガスマスク越しに呼んだ名前はほとんど吐息だった。だが、路地に回れば遥か後方を歩かせていた雪白はきちんとそばに来る。フードの隙間からさらさらと漏れる白髪に彩られたかんばせの怜悧さが、茜の頭の隅を冷やすようだった。

「どうしました」

「彩に聞き込みをしたい」

「すればいいでしょう」

「辛い記憶を思い起こさせることになる」

 雪白はそこで一呼吸置いた。何かが詰まったような沈黙だった。

「私はお前に従います」

「あのなあ」

 それでは聞いた意味がない、と言おうとして、気付いた。二人の契約は『茜が雪白の手綱を取る』『雪白は茜の力になる』『雪白が鬼でないと証明する』。そしてもう一つ、茜が正しさを失った時、雪白の手で茜を葬り去ること。その雪白が茜に従うと断言した今は、茜のことを雪白が百パーセント信じているということだ。茜は……足元が抜け落ちるような感覚を味わった。隠し事は星の数だけ。今も都合の悪いことを心の奥底にしまい込んでいる。……覚悟は、したはずだ。それに、着いて来てくれるこの青年に、出来る限り誠実でいたかった。茜は一つ決心をすると、口元だけで笑み、路地を一歩出た。

「彼女を巻き込みたくない。ぎりぎりまで二人で探索しよう」

 向かう先が、定まった。雪白はまた目立たないよう雑踏に紛れる。

 あいも変わらず画廊は繁盛している。人だかりの中心、茜を見つけた少女の顔がパッと輝いた。

「アカ……シンヤ! 来てくれたんだね」

 そして走り寄ってくる。随分懐かれたものだと茜は思った。生来のお節介で様々な騒動に首を突っ込んでいるが、普通に感謝されたのは初めてかもしれない。

「近くに来たんで寄った。その後どうだい?」

「うん、何事もないよ。あの変な人も来てないし。……夜も、最近は落ち着いてるの」

「そうか」

 茜の目が余りに暖かく細められるので彩は目を奪われた。恥ずかしくなって俯く。(アカネは、優しい)

 初めて出会った時も、ヒステリーを起こした自分に真剣に謝ってくれた。次に会った時は、困っているところを手を差し伸べてくれた。彼だけでなく、サトウと名乗った青年も、オトネと名乗った少女も、自分を気遣い、助けてくれたのだが、やはりアカネは自分にとって特別、なのかもしれない。と、彩は思った。

 だが、彩にとって特別な人間はもう一人いた。

「絵描きさん、仲良いんだ? ソコノヒトと」

 猫の仮面を付け、色素の薄い髪を短く刈り込んだ青年が地面にしゃがみこみ、自分をあざとく見上げている。彩は思わずくすくす笑ってしまった。この青年はおそらく自分よりもずっと大人なのに、時々こういう子供のようなことをする。

「うん。紹介するね、この人は」

「新哉でしょ。一応知り合い」

「えっ。そうなの、イヅル」

 茜は顎を引く。この人間には油断ができない、なんとなくそんな気がしていた。彼は出流。以前彩が恐慌状態に陥っていた際、茜を遮るように現れた、情報屋の青年だ。

「そーそ、この間出会ってね」

 いつ出会ったのかは言わない心算らしい。茜は黙って頷いた。彩が出流に向ける目はひどく好意的だ。では以前自分達の前に現れた意味は、彩のためなのだろうか。

「出会ったばかりだがな。あんたも随分、彩と仲がいいみたいだが」

「オレも出会ったばかり。話し仲間ってとこ? まあ仲良くさせていただいてるよ。どう? 欲しい情報、ある? これでも中々名うてなんだ」

「結構だ。自分で調べたいもんで」

 茜は、この情報屋相手だと、どうしてこうもつんけんしてしまうのかわからなかった。自分のペースが保てない。言葉が思考の前に出てくる。いけない、と茜は大きく息を吸う。警戒は悪くない。が、表に出すものではない。

「シンヤ、調べ物してるの?」

 しまった、と思いながら不承不承頷く。彩は下手くそに口角を上げた。何を、とは聞かれなかった。

「それなら、ツムギに聞くといいよ。この辺だと一番裕福で、政府のギルドにも入ってないから。ほら、共有はされたくないでしょう?」

 少女の親切をありがたく思いながら、茜も薄い笑みで受けた。

「じゃあその人を訪ねてみるかな」

 勿論嘘である。隣で出流が「そりゃないんじゃない?」と不満げに首を傾げた。

 そして彩の元を発ったのだが、何故か出流が着いてきていた。

「あんた、暇なのか? それとも誰かに俺の情報を仕入れるよう言われたのか」

 今度は明確に険のある言い方をした。黒百合隊の存在に勘付いているとしたら、茜はこの青年を、始末しなくてはならない。刺すような目を向けられた出流はヒュウ、と口笛を吹いて茶化した。茜の肩は益々硬くなる。

「どっちも違う。あんたが気になってる」

「は?」

 拍子抜けして茜は聞き返した。気になっているという言葉の軽やかさは、この場には似つかわしくないような。

「えぇと、旦那。俺あ男だぜ」

「色恋じゃなくてね。——絵描きさんが悲鳴を上げた時、オレは何が起こるか知ってたんだ。下手に近づけないこともさ」

 その声は噛みしめるようだった。茜は、出流にも一言では言い表せない事情があることを直感した。そして、彩をどんなに想っているかも。

「だからせめて、顔見知りのよしみで、そこに近付く不貞の輩を……まあ、察して。アレしてたところに、あんたらがきた。あまりに真剣に心配するもんだからさあ、思わず通しちゃったってわけ。そしたらどうだ、彼女は落ち着いた。ああ、申し訳ないけど覗かせてもらってたよ」

「……俺ああんたを誤解していたのかもしれないな。悪い」

「警戒心は武器だよ。正しく扱うべき。だから、あそこまで人に入れ込めるあんたが気になった。見ないで欲しい領域ならすぐ立ち去るから、しばらく側にいさせてくれない?」

 茜は頭を縦に振った。どこか人混みに紛れた雪白にも同行者の存在は伝わったことだろう。彼は耳が至極いい。

「子供に用があるの?」

 興味深そうに聞いた出流を、茜は素気無く「まあな」という一言であしらった。実際探しているのは子供がいそうな道角ばかりだ。で、用があるのはその保護者である。子供から人買いに繋がることを茜は期待していた。そして人買いを辿って行けば、あの悪夢のような集団を育て上げた人間に出会えるはずである。ところが、流石に政府が禁止しただけある。大っぴらにそれらしき関係性を匂わせているものは、街頭にいなかった。

 と、「どけよ!」と言う大声が道中に響き渡った。それだけなら珍しくもないが、今特筆すべきであるのは、その声がひどく幼いことだった。茜と出流はなんだなんだ、と声の方に近づく。すでに野次馬が円を作っていた。

「だめだ!」

 もう一つの声もまた、幼かった。茜が首を伸ばせば、十を越えたかといった子供二人が、十に満たない、座り込んだ子供を前に言い合っていた。

「この食べ物はこの子のものだろ! 食べ物は、自分で集めるんだぞ!」

「ばっかじゃねえの。どけっ」

 体の大きい子供が、パンを持つ座り込んだ子供を庇うように立つ小さな子供に襲いかかった。野次馬の間で歓声が上がる。もっとやれ。いいぞ坊主。やっつけちまえ。そんな言葉が飛び交う。組んず解れつの合間に、庇われていた子供は脱兎のごとく逃げ出していき、取っ組み合いは一方的な展開になる。体の小さな子供は明らかに喧嘩慣れしていなかった。最後に腹いせのように腹を何度も蹴り、体の大きな子供は毒づきながら去っていった。騒ぎの収束に、野次馬も四散する。

 茜は咳き込んで呻く子供に近付いた。しゃがみこみ、「立てるか?」と聞く。頷いて顔を上げた子供は、大きな目を潤ませた少年だった。歳は十二といったところか。ついてこいといえば素直についてくる。簡易共同井戸まできた茜は、ひどい擦過傷になった少年の腕や脚を洗い、茜のケープでよく拭いてやった。少年の丸い頭に引き込まれるように、ぽんと手を置いた。自然と言葉が出てくる。

「誰も助けてくれなかったろ。人を助けるっていうのはそういうことだ。だから強くなれよ」

「兄貴、優しいね」

 少年の第一声はそれだった。兄貴? と茜は目を剥いた。

「うん。俺今、兄貴が兄貴だったらいいなって思ってさ。兄貴って呼んでいい? 俺はミノル。木の実の実で実だよ」

 茜としては、苦笑しかない。まさか今だけのことで家族認定されてしまうとは。

「この人は優しいかは知らないけど、確実に巻き込まれたがりだよ」

 横から出流が口を出す。心当たりしかない茜は苦笑を深めた。

「この人は? 兄貴」

 兄貴で確定してしまった。もう特に訂正もせず、茜は答える。

「知り合いの情報屋だよ」

 それを聞いた瞬間、実の大きな目がくるんっと煌めいた。出流のケープにしがみついてぶんぶんと揺さぶる。猫の面が振り子のように揺れる様は少し愉快だった。

「情報屋さんなら俺の姉ちゃんのこと知ってる? トオルっていうんだ。透明って書いて透って読むの」

「流石にー、それだけじゃー、分からないかなー。もっとないー? あと揺さぶんないで」

 実の手がピタッと止まる。

「透姉ちゃんは……十八だ。生きてたら。一歳の時、向こうの……昔は八百屋だったところに冬、父ちゃんが捨てた」

「お手上げ。死んだと思うよ」

 その瞬間、茜の視界全てから、色が失われた。

 覚悟はしただろう? 問いかけてくるのは、これは……ああ、他でもない茜の声だ。覚悟、したんだよね? 問いかけてくるのも。これも、茜の声だ。でも、ああでも。

 閉じた蓋が開いてしまう。自分が自分で無くなる。だって。だって死んでない。

『お前はね、大事そうに……食料と、金貨に囲まれて、お包みの中で泣いていたんだ。八百屋の前で雪の中、死にたくないって泣いていた』

 狭い小屋の中、愛おしそうに読み上げる声が蘇る。

 それは、『透姉ちゃん』は——他でもない茜自身なのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る