20.野生の花が咲いた夜

 ふたりは、旅に出る。

 瑠璃空がある村へ――。


 山口の家から、カナと耀平はそのまま『新山口駅』がある小郡へ向かい、新幹線に乗り込んだ。

 カナの隣に彼がいる。見上げると、しかめっ面で窓辺を過ぎる緑を見つめていた彼が、カナの視線に気がついて満ち足りた微笑みを見せてくれる。

 そこにある大きな手を。カナから握りしめる。

 そして大きな手が、今度はカナの小さな手を包み込んで離さない。

 じっと見つめあってばかり。富士の麓まで伸びているレールが、そのまま二人を遠くに連れて行く。

 ずっとずっと、家の秘密に縛られていたけれど、今度こそ、二度と絡まないように一緒にほどいて。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


「やっと到着か」

 激務に慣れているはずの義兄もさすがに、遠い旅路には参ったようだ。

 舞とヒロと、ひとしきり話してから、山口の家を出た。午後遅くに新幹線に乗ったので、山中湖に到着したのは夜遅く。

 新幹線を降りてからは、レンタカーでここまで来た。

 土地勘があるカナが運転をしてきたが、もう日付が変わろうとしている。

 ぐったりした様子で、義兄は準備をしてきた旅行用のバッグを後部座席から降ろした。

「お義母さんと航も、こんな遠くまで来たんだなあ」

「しかも雪の季節にね。バスで来たのよ」

「よくやったもんだな」

「お義兄さんのせいじゃない。舞さんとヒロの恋に協力していたと『本当のこと』言わないで、お義母さんと航を怒らせたまま、家出をさせたんでしょう」

 だが、義兄はもう。空を見上げていた。

 背が高い彼が、湖畔の空を見上げていると、彼でも小さく見えてしまう。厳つい顔が和らいでいるから? それとも肩の力を抜いた『耀平』という一人の男としてここに来たから? 義兄の背から、いつもの力みが消えているように見えた。

 まるで心を囚われた少年のように、無垢な眼差しで空を見上げている。その顔が……。凍っている湖畔で瑠璃空を見上げていた航と似ている。不思議だった。血が繋がっていなくても、やはり義兄は父親なのだとカナは思えた。

「これか。航に散々自慢された空は」

 白樺の雑木林で、柔らかい風の音がする。

 カナもスーツ姿の義兄に寄り添って、星空を見上げた。

「これがカナの瑠璃空」

 カナはそっと首を振る。

「違うよ。ここじゃだめ。湖畔に出ないと。航も夜の湖畔で見たの。疲れたから、今夜はもう」

「そうだな。もう休もう」

 そして義兄は、カナが車を停めた目の前にある古びたロッジ風のアパートを見上げた。

 こんなところに。二年もカナは……。そう思っていそうな眼差しを見せている。でもカナは微笑む。

「古いけれど、造りはとてもいいの。小さなワンルームだけれど、外国風でお洒落なのよ。ただ底冷えが凄くてね」

「そうか。ここで、ひとりで……」

「うん。でも、良かった。ひとりでいきてゆくことが、どんなことかわかった。そして、ひとりにならなくちゃわからないこともいっぱいあった」

 そして、カナは辿り着いた。隣にいる彼と一緒にここに。

 静かに階段をあがり、二人は角部屋へ向かう。

 鍵を開けたカナは、義兄を小さな部屋へと招き入れた。

 まだ春も浅い湖畔の夜は肌寒く、カナは灯りをつける前に暖房をつけた。

 そしてテーブルの上にある間接照明のライトだけをつける。

 深夜はそうしてほのかな灯りの中で、カナはスケッチをすることが多い。メディテーションをするカナの夜の過ごし方だった。

「夜の過ごし方も、変わっていないんだな」

 義兄も覚えていてくれた。そして、淡い灯りの中、それほど物がない部屋を義兄が見渡す。

「うん。なるほど。造りはしっかりしていて、昭和の良き頃に丁寧に作られたロッジだな」

「短期滞在向けに作られたみたい。静かで寂しい空気感はあるけれど、でも……そこが、流れ着いたわたしにはかえって良かったかな」

 寂しくはあったけれど、そうでなければ『秘密』がどうあるべきだったか考えられなかったとカナは思う。

 秘密のまま。嘘をついたまま。心苦しく彼を愛して、彼の望む愛に応えられないまま、擦り切れるように生きていくだけだったと思う。

 ひとりになって、寂しく思い、そしてその人達がそばにいてくれたことを思う。きっとカナは『そうしたい場所』を探していたら、この湖畔の静寂な空気にそれを見いだし居着いてしまったのだろう。

「いまはとても落ち着くところになっているから大丈夫」

 もう意地っ張りの強がりでもなんでもない。ここの暮らしはもう、カナにとっては日常で当たり前で、カナだけのものになっている。

「そんなことは、許さない」

 義兄の声が静かに震えていた。見上げた顔も強ばっている。

「カナ」

 雑木林の隙間から、僅かに湖が見える窓辺。そこで義兄に抱きしめられた。

「兄さん」

「ここにずっといるつもりなのか」

 まだそんなこと、考えてもいなかった。帰るのか、ここを出て行くのか、残るのか。ただカナはアナタに会いに行ける自分に戻れたと思って、ただアナタに愛していると伝えたくて、そして花南が湖畔で見たものをアナタにも見て欲しいと思って連れてくるだけで精一杯だった。

「そんな、まだ考えてない」

 正直に言った分、義兄にはショックだったようで、いつになく長い両腕がきつくカナを抱き寄せる。

「駄目だ。帰ってこい」

「に、兄さん」

「いい加減、いつまでも独り寝は寂しい。カナの肌がいい……」

 カナの黒いジャケットを肩から滑らせ、すっと脱がされる。ノースリーブの白いワンピースの背が、今度は露わになった。

 昨日、そうされたように。義兄はまたジッパーを降ろし、開いた背に手を滑り込ませる。

「この部屋も、おまえも、よく知っている匂いのままだ」

 ルームフレグランスも、カナが愛用してきたトワレに似た匂いを使っている。ミュゲ、鈴蘭の匂い。

 カナの首筋に鼻先と唇をそっと這わせながら、義兄がその匂いを確かめている。

 熱いガラス工場こうばで汗をかくと、この匂いがたちこめる。その瞬間、カナの気持ち、テンションがあがる。おへそのちょっと上と脇の下、ほんの少ししかつけていないのに、身体から蒸発するほどにその匂いがする。それだけ、いまガラスに向き合っているのだと実感できる。ささやかな習慣だった。

 その匂いが夕に、ほんのり肌に残っているのも好きだった。物作りをやりきった後の匂い。そしてほのかに、自分がそれでも女性であるのだと、職人としてのスイッチが切れる。

 義兄はその匂いをよく知っている男だった。ヒロも側で上気するトワレの空気を感じ取っていただろうけれど、それは嗅覚だけ。義兄は違う。嗅ぐだけじゃない、彼はその味も知っている。森の花の匂いと、義妹の汗が混じり合ったものを。

 だから、それを確かめるかのように、カナの首筋の匂いを義兄が確かめている。

 男の熱い唇が肌に触れるのは本当に久しぶりで、カナはつい呻いてしまう。

「カナ。変わっていないな」

 そのまま長い腕がカナの膝を持ち上げ、抱き上げてしまう。

 カナはびっくりして、彼の首に抱きついた。

 思わずでも抱きついてきた義妹を見て、義兄はなんだか嬉しそうだった。

 なのにその顔が、真剣な時に見せる眉間に皺を寄せた厳つい顔に変わってしまう。

 壁際にくっつけている狭いベッドに、カナは降ろさ寝かされた。

 ひとまずのベッドでも、お気に入りのカバーを見つけてかけている。暖かい風合いの北欧模様のベッドカバー。その上に置かれたと思ったら、義兄がすぐに真上に覆い被さってきた。

 一人住まい用の安いベッドが、それだけでギシッと軋む。

 カナの胸元に、新橋色のネクタイが垂れ落ちてきて、義兄がそれを片手で緩めた。

 カナもそこに触れ、カナがネクタイを静かにほどく。それがカナの『抱いて』の意思表示。それを確かめた義兄は、自分でネクタイをほどくのをやめ、カナの頬を包み込むとすぐに唇にキスをしてくれる。

「カナ、花南……」

 懐かしい呼び方に、カナは泣きそうになる目を閉じて、でも彼と一緒にキスを重ねる。

 キスだけでもう、この人のところに戻ってこれられたんだと歓喜に震えてしまい、ネクタイをほどく指に力が入らない……。

 なのに、優しい始まりの挨拶をしてくれた義兄さんが、義妹の許しを得たからか。急に手荒になる。

「に、兄さん……」

 瞬く間に素肌にされる。強引に手荒に――。そして裸になった義妹に襲うように男の重い身体がのしかかり、カナの耳元に、そんな時だけズルイ優しいキスをする。

 あの時に似ていた。小樽から無理矢理連れ戻されて、おまえを抱くと強引にベッド放り込まれ、抵抗するカナを男の力で強引に脱がして、この人はカナを征服した。身体だけじゃない、心も。

 元々この人に憧れていたのだから、ほんとうにズルイ人だと思った。抵抗したのは、好きなだけならまだしも『女』になったら愛しすぎて苦しくなることがわかっていたから。抵抗をやめたのは、そう、こんなふうに……厳つい人のくちづけが甘いと感じてしまったから。そうしたらもう抜け出せない。

 でも、今はもう違う。

 裸にされたカナは、まだネクタイにワイシャツ姿の彼の首に腕をまわして、彼の耳元にもキスをした。それだけじゃない、柔らかい耳たぶに甘噛みもした。

 彼の耳も熱い。息も、そして手も、肌も熱くなっている。

 彼以上に、愛している男に急激に求められたカナの肌も熱くなっている。

 暖房がまだ行き渡っていないのに、カナはもううっすらと肌に汗を滲ませている。熱愛ですっかり柔らかくなった肌から、さらに鈴蘭の匂いがたちこめている。

「……よかった、まだ、俺のこと……」

 あの時のままに、兄の手と口だけで感じてしまう女のまま。彼もカナがどう感じるかをよく覚えてくれている。

 なにも失っていないと思った。アナタの手の熱さも、指の感触も、男の皮膚の匂いもなにもかも、わたしも忘れていない! 覚えている!

 やっぱりこの人には敵わないんだ――。カナはそう思いながら、花開く奈落に甘い蜜に絡め取られるように、いとも簡単に堕ちていく。

 夜に密やかな匂いを放って、静かに花開く月見草。カナの脳裏に、夏夜しかみられないはずのあの花が咲いた……。

 彼も言った。

「カ、カナ……。かわっていないな。ほんとうに、そのままだ」

「あ、当たり前じゃない。あたりまえ……でしょう……」

「ずっと、ずっと、俺のもののままだったんだな」

 離れている間の二年、自分から迎えにも行かなかった二年、義妹に男が出来ているかもしれないと思ってくれていたのだろうか。

 当たり前じゃない。義兄さんのことばかり、考えていたよ。

 もう声にするのも難しくて、カナは小さく呻くだけ。


 


 熱いひとときはあっという間だった。

 狭いベッドで寄せ合って抱き合う。

 彼は、もう優しい。

 柔らかにカナを抱き、汗ばんでいるカナの黒髪を大きな手でかき分け、上気している頬に静かにキスを落としてくれる。

 そうしてずっとカナの顔を、じっと見つめている。

「もう女は懲り懲りだ。だから、カナが最後だ」

 カナが、彼を好きになってしまったあの笑顔を見せてくれている。

 カナの瞳から、涙が一気に溢れてしまった。

「ほ、ほんとうは……、ずっと兄さんのこと、好きだったの。妹だから駄目だって思うこといっぱいあったの。好きだから、辛かった。ここでも、ずっと義兄さんのことばかり想っていたよ。ほんとうに、ずっとずっと……耀平兄さんのこと、いちばん……」

 最初に彼にときめいた時の少女みたいになって、カナは泣いた。

「わかった。わかった、カナ。そんな泣くな」

 彼の腕枕で、やっとひと息ついて、カナは目を閉じた。

 落ち着いたカナを、義兄は窺うように覗き込んでいる。

「おまえ。嫌がらなかったな……」

 一瞬、なんのことだろう――と、カナは首を傾げた。

「前はあんなに、子供は要らないといっていたのに」

 避妊をしなかった。カナはもうピルなど続けてはいないし、義兄もその準備をしようとしなかった。

 確かめることが、今夜は無粋とばかりに、ふたりはそのまま求めあった。

 そうね――。カナは小さく頷いた。

「航だけが、義兄さんの子であればいいと思っていたから。逆に、義兄さんの子ではなかったらどうなるのかと怖かった。子供だけじゃないの。ずうっとあのままが良かったの。秘密を知られないまま、義兄さんとわたしと、航。あの時の楽しいままでよかったから、それ以上は望んだらいけないと思っていた」

「おまえの気持ちも知らないで。俺も、俺さえ黙っていれば、家族が幸せになれると勘違いをしていた」

 狭いベッドで寄せ合っているまま、義兄がさらにカナを強く素肌の胸元に抱きしめる。

「同じだよ。兄さん……。わたしも、黙っていればなにも知らなければ、義兄さんは幸せだと思っていたの。それしか方法はないと思っていた。でも、ここにきて違うんだってやっと間違いに気がついた」

 そう。秘密を知られるということは、家族を傷つけることだった。でも、恐れず、勇気を出して告げていたら、そこから修復が出来たはず。もっと早くから傷を癒すことが出来たかもしれない。

 それがカナの過ち。そして義兄も。

「おまえを責めて、出て行かせるようなことをした時は頭に血が上っていたが。どうして義妹のおまえが、いや……五年も一緒に暮らした花南が、いつまでも俺に素っ気なく冷たいのか、拒み続けるのか。俺はその気持ちに後から気がついた」

 そして、決して知られてはいけないと懸命だった時のカナの気持ち……。

「おまえを自由にしてやったなんて、俺はほんとうにおまえに甘えていた。違ったんだな。カナ……、おまえは美月という跡取り娘の妻を亡くした婿養子の俺が『妹と結婚さえしなければ、籍を抜けていつだって自由になれる』と、そして、航が俺の子供ではなかったと知れた時に、俺がいつでも出て行けるようにと思って頑なに拒んでいたんだな」

 そうだった。いつかそんなことが起きるかもしれない。その時に、航と家族三人で幸せの絶頂にいたら、揃って奈落の底に突き落とされる。そんな最悪のことを避けるために、『お願い。このままで続いて欲しい』と、カナはあの家で曖昧な関係に甘んじ続けていた。そして願っていた。

 でも、駄目だった。

「馬鹿だな。美月がいなくなっても、航が俺の子供ではなくても。航の父親という覚悟を決めた時から、倉重の姓で生きていく覚悟も出来ていた。独身のままでいいと思っていた。おまえの兄貴でいれば、ずっと側にいられる。それだけでいいと……」

 なにもかも同じだった。抜け道などなかった秘密の暮らしと寄り添っていた重い哀しみを思い出し、カナはまた泣いた。

 ずっと丘から聞こえてくるカリヨンの鐘が、寂しく聞こえた。懺悔という言葉が、その度にうっすらと浮かんで消えていった。

「ごめんな、カナ。あの家にいられるようにしてあげられなくて、悪かった。俺は……どうしようもない男だな。姉の美月の時は満足させてあげられる夫になれず、妹の花南には独り身になった俺の傍にいてもらうことばかり望んで、ずっと若いおまえが小さな心で学生時代から俺を想ってくれていたことの意味もわからず……」

 どうしようもない男だ――。いつも威厳に満ち足りている兄さんが、そんな時に、遠慮するようにカナを身体から離し、起きあがってしまう。

 カナの目の前に、背を丸め項垂れている裸の男がいる。髪をかき上げて、憂う横顔にカナはついに――。意を決して起きあがる。

 綺麗な皮膚の背に、カナはそっと手を当てる。

「耀平兄さん、違うよ。姉さんは、義兄さんのことを女としてどうしても愛せない人だっただけ」

「だから。金子の方が良かったなら、どうしてその男を夫にと望まなかったんだ。調べたんだ。どんな男か。職歴はまばらだったけれど、岡山の格式ある料亭の次男坊だった。家柄も学歴もある。俺なんかよりずっと倉重の婿に見合っている」

 初めて、金子氏の正体を詳しく知った気がして、カナは驚いた。料亭の子息。だから……、食べ物を食べる時の所作に、ちょっとした仕草に品格があったのだと納得した。

 でも、義兄さんのその予測に苦しみは間違っている。

 カナは裸のまま、義兄の素肌にそっと抱きつく。肌と肌の温かみを感じながら……。

「兄さんは、わたしを縛りたいと思ったことある?」

「……ある。あの家から出したくなかった」

 そっちの縛るを連想するのなら、もう答は分かったようなものだとカナは小さく笑う。

「その縛るじゃなくて。わたしの肌にカラダに、縄を食い込ませて縛りあげるの。肌が少し痛く感じる程度のロウソクで『おまえはこれが好きだな』と窘(たしな)める顔で見下して辱めたりして」

 さすがに義兄が『はあ?』と振り返った。いつものあの困った顔。また義妹が変な要求をする。おまえ、ついにそこまで行ったのか――と言わんばかりの、微かに怒りを滲ませている強ばった顔。

「カナ、おまえ……、本当はそんな趣味があったのか」

「わたしはいたってノーマル。わたしじゃないよ、お姉さんが」

 はっとしたかと思うと、耀平兄が驚愕の表情に凍りつき青ざめた。

「そんな愛し方、望まれても義兄さんはできなかったでしょう。金子さんはそれが出来たの。そういう男の人だった。そして姉さんはそんな女だった。特に金子さんはその性の快楽を守るような生き方をしていたから、安定も結婚も望めない人だった。だから義兄さんは、夫として父親として、そして婿殿として、姉さんは人生のパートナーとして望んでいた、望まれていたのよ。でも……」

 いつかの哀しみがまた襲ってきて、また涙が溢れてくる。

「おまえ、それ……知っていたのか」

 カナは呻くように『うん』と頷いた。

「広島の下宿に、縄とかロウソクで傷めた身体で駆け込んできた時に……」

「お義父さんとお義母さんは……!」

「知らないに決まっているじゃない。そんな姉さんの正体なんか、誰にも言えなかった!」

 最後の秘密をカナは吐露する。

 義兄がすぐにカナをきつく抱き寄せた。

「それか。それが……全てだったのか」

 カナの黒髪を撫でながら、今度は義兄さんの声が震えている。

「そうか。そうだったのか……。それで、美月は……」

 夫との穏やかなセックスに苛ついていた妻。仮面を被って清楚なお嬢様を装っていた妻。そんな女ではなかった。生真面目な婿殿が、誠実に愛するだけでは彼女は満たされない女だった。だから最後、夫に抱かれた夜に姉は空虚を爆発させて飛び出していった。そして金子さんのところへ行ってしまった。それが真相としていちばん近い。

「だから……。兄さんは、男として気に病まないで欲しい。ただ生きている世界が違っただけ。そしてお姉さんは家に縛られていたから、隠して生きていくしかなかった」

 でも、カナはその人に頭を下げて謝った。

「貴方の人生に、わたしたち姉妹は重いものを背負わせてしまった。もっと違う生き方が、兄さんなら出来ただろうに。本当に、ごめんなさい」

 姉の分も、姉の秘密を必死で隠したことも、金子氏との密会も。なにもかも。航がいなければ、もっと違う家庭で生きていただろうに。

 でも、彼はいつにない優しい眼差しでカナの黒髪を撫で微笑んでいる。

「どうして。倉重の男でなければ、花南の兄貴にもなれなかったし、……」

 口ごもった義兄が気恥ずかしそうに顔を反らした。

「おまえ以外の女なんて、もう……。花南じゃないと面白くない。花南がいい」

「顔を見て言ってよ。もうズルイよ」

 振り向いたかと思うと、あの真剣な時のしかめっ面で抱きつかれる。そのまま、またシーツの上に押し倒された。

 またカナの肌の上に、熱く湿った男の皮膚が重なる。カナも彼の背に抱きついて、今度はカナからキスをした。

「カナ、帰ってこい。来月、また迎えに来る」

 何度も唇を愛撫する合間、いつもの命令をするような強い口調で言われる。

 でもカナは答えなかった。それだけ、湖畔の工房には長く居すぎたとカナは初めて切実に感じたから。


 


 夜明け。カナは裸で抱き合って眠っていた義兄の腕からそっと抜け出す。

 ひとりシャワーを浴びて、静かに身支度をした。

 そろそろ親方が、焼き戻し炉の火を入れる頃。

 群青の星空に、夜明けの紫苑が滲み始める。少しずつ消えていく小さな星々。

 茜の水面が揺れる湖の国道を歩いて、カナはいつものラフな服装で工房を目指す。

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