15.星の数ほど嘘ついた


 湖が凍った。全面凍結ではなかったけれど、凍りやすい岸がある地区に立ち入り許可が出た。

 そうなると親方が工房からいなくなる。そして男達も落ち着かなくなる。そして、去年は訳がわからないカナが留守番をすることになった。

 その親方が母が整えた朝食のテーブルで、いつにない笑顔で子供である航に話しかける。

「どうだ。航。今日はおじさんと『ワカサギ釣り』に行かないか。やったことがないだろう」

「え。ワカサギ釣りが出来るんですか。行きたいです!」

「おまえ、運が良いぞ。湖が凍った時に来るだなんて」

 カナは呆れたため息を落とす。昨年も初めての冬を迎えたばかりで訳もわからず、男達はカナに火の番をさせて『今日は午前でおしまい』と笑って出掛けてしまった。後で聞けば『いつもの岸が凍ったから、ワカサギ釣りにでかけた』とのことだった。

 しかもその後、釣ってきたワカサギを調理させられたのもカナだった。天ぷらにして、工房メンバーで盛大な飲み会をした思い出がある。

 でも、とてもおいしかった。ワカサギは初めて。義兄さんがいたら凄く喜んだだろうな……と思ったほどの。


 そうしてカナはまた思いに囚われる――。

 義兄さんが、見合いをした若い女を、山口の家に住まわせている。


「ちょ、カナちゃん。こぼれる!」

 ティーポットを傾けている手がそのままになり、母のための紅茶がカップから溢れそうになっていた。

 手首を掴んで止めてくれた航が、カナの顔を覗き込む。

「カナちゃん。大丈夫? 俺がやるよ」

 背が伸びた航がさっと立ち上がり、カナからうまくティーポットを取り上げてしまう。

 並ぶともうカナとほぼ同じ背丈だった。しかも伏せた目が金子さんの眼差しにそっくりで……。

「カナちゃん座っていなよ。俺、これでも祖母ちゃんにお茶の入れ方を厳しく教わっているんだから」

 ティーポットを傾ける手つきも、昔、姉の遺影に焼香に来た金子さんの優雅な仕草を思い出させた。

 DNA鑑定の結果を聞くのも怖くて、カナは逃げるようにしてあの家を出てきた。でも、もう確信している。きっと航は金子さんの子供に違いない。

 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 昨年留守番をさせられたカナは、今年は先輩達に工房を任せ、親方と航と一緒に平野地区の湖岸へ向かう。母はさすがにこの極寒の外に長時間いるのは御免だと留守番になった。

 岸辺が凍るのは国道からみたことがあるが、今年は沖合まで結構凍っている。既に青やオレンジ色のコンパクトテントが湖面に並んでいた。

 親方も同様にコンパクトテントを設置し、すぐそばに椅子や釣り道具を置いて、縦長のドリルで氷に穴を開ける。とても手慣れたものだった。

「うわ。ほんとうにテレビでよく見ていたヤツだ」

 氷に開いた穴を覗く航の目が輝く。そんなところはまだ無邪気で、カナはホッとさせられる。

 防寒着でもこもこになった三人は、折りたたみ式のちいさな椅子に座り、短くて柔らかい竿を手にして親方に釣り方を教わる。

「餌はこれだ」

 『赤虫』という釣り餌を突き出され、カナは躊躇した。ほんとうに、くねくねした赤い虫!

 ええ、これにこんな餌つけるの……。釣りをする時は、いつも義兄が一緒で餌もつけてもらっていた。海釣りでも苦手な餌があるが、これまた淡水魚用の餌もカナには未知の生物に見える。

「お、航は手慣れているな」

「日本海がすぐ側なので、海釣りは父と良くしています」

 すると航は餌をつけたばかりの竿を、すぐカナに差し出してくれている。

「ほら、カナちゃん。釣り餌は苦手だもんな」

 彼が小学生の頃から、夏休みは海釣りに行くことが多かった。義兄と航と、そしてカナ。三人でひとつの家族のように出掛けて、一日中釣りをした。

 砂場に三人でパラソルを立てて、レジャーシートにはお弁当や水筒にクーラーボックス。お弁当は、カナが作った『ぶきっちょなお弁当』とお祖母ちゃんが作ってくれた『ちゃんとしたお弁当』が二つあるのも恒例。

 『カナちゃんのお弁当がだんだんマシになってきた』という航のひと言も恒例だった。

 燦々とした太陽、ラフな恰好で長い投げ竿を片手に黙々と沖合に糸を飛ばすお父さんと、お父さんの真似っこで意地になって頑張る息子。そして、ぶきっちょで全然釣れない叔母さん。

 叔母さんは釣り餌が苦手で、いつも義兄であるお父さんにつけてもらっていた。

 それが当たり前のようにわかっている子が、今日はすぐ目の前にいる。

「ありがとう。航」

「カナちゃんたら、相変わらずだな。ガラス以外は、めちゃくちゃ無頓着だもんな。あ、料理はめっちゃうまくなったけどさ」

 もうもう、相変わらず生意気な口を利くなあとカナは面食らった。そしてついに黙ってみていた親方が笑い出した。

「あはは。やっぱりそうだったか。コイツ、めちゃくちゃお嬢様だよな」

「うーん。それを言われると俺もボンボンになっちゃうのかな。でも、そうなってしまう家なんです。だから……父は……。叔母を自由にさせたんだと思っています」

「大人みたいなこと言うな。航は」

 親方もやっと『この少年はちょっと変わっている』と感じたのか、甥っ子をちょっと不思議そうに見た。

「父が言うんです。もし、この家に男がいなければ、叔母はガラスを辞めて結婚という道を強いられることになっただろう――って。俺もそう思います。父は自ら倉重の仕事を望んで婿入りしたわけですし、俺も跡を継ぐのは嫌だと思っていません。父のように自分なりの起業に挑戦したいと思っています」

 カナは頭がクラクラしてきた。少し会わない間に、なんて大人びたことをスラスラと言えるようになっていることかと。

 しかしそんな航が、子供だけでは思いつかないことを言いだした。

「家は父と俺が守っていきます。だから叔母には自由にガラスを続けて欲しいと思っています。父もよく言うんです。カナが吹き竿を持ってガラスを吹く姿は勇ましく、仕上がったガラスは極上で、すぐに人の目にとまり売れてしまう。そんな惹きつけるものがガラスから放たれている。そうでなければ自家工房など起業しなかったとも言っていました。俺も同じです。小さい頃から叔母がガラスを吹く姿を見てきて、自慢でした。俺も父親もそんな叔母がいちばん好きなんです。それに父曰く、叔母は不器用すぎるのだそうです。義妹の目はガラスしか映ってない。器用に生きていける訳がない。夫になる男は、変わり者の妻に困り果てるに決まっている。だから……父は、叔母には、倉重にも囚われず、……たぶん、自分のことも囚われずに、無になってガラスを続けて欲しい。それがカナらしく生きられる道だからって……言っていました」

 


 航の声が止まり、湖は静か。

 だけれど、微かに氷の音が聞こえてくる。

 パリン、ピキンと。小さな音が。

 その音が聞こえるほど――。鎮まった空気の中に、ずっしりと留まる言葉。

 甥っ子が持ってきた義兄の言葉に、カナは打ちのめされている。

 


 居場所がわかっても、どうして義兄さんがカナに関わらなかったのか。

 初めてわかった気がする。


 


 ――わたしを、家からも、自分からも、『自由』にして? ガラスがあってこそのカナだからと手放してくれたの?


 カナが家から解放されるということは、家を守ろうと縛っていた『秘密』から解きはなたれることを意味している。

 義兄だけじゃない。姉から大きな秘密を預けられた妹としても自由になる。

 もうその秘密は、おまえのものじゃない。この家のものだ。おまえがひとりで握りしめていたものを手放して。その手でガラスを吹け――。


 


 おまえのために、自由にするんだ。もう俺の傍にいなくてもいい。秘密で傷ついただろう俺を案じなくても良い。俺は航と生きていける。だから……。義兄だったばかりに、おまえを縛ったから、もう義妹でなくても情愛がなくなってもいい。寂しい兄貴のことは、もう気にはせずに。自由にカナらしく。


 


 ピキン、パリンと歪む氷の音色と一緒に、そんな義兄さんの声がカナには聞こえてしまった。

 


 でも。目の前にあるのは、今日も静かに佇む雪富士だけ。そして、カナの目の端には、じっとカナを見据えている親方の怖い顔。

「おまえの家の男達は覚悟が出来ているんだな。小さなおまえを支える覚悟がな」

 なにもしないカナを、ただ日々を費やして前を見失ったカナを、それでも『俺達が家のことは支えるから、おまえは自由にしていて良い。それでいい』と……。

 義兄さんはこの一年半で、最低限『妹』という関係以外はまったく我関せずの男になってしまった。その代わり『妹』が自由に生きてくれるように、家に戻って家に縛られなくて済むように『今度こそ兄らしく生きていく』。それが義兄さんが別れてから見つけた生き方――。

「おまえの『生きていく』はなんなんだ。兄貴はそれを待っているんじゃないか」

 熱い目頭を閉じ、カナは俯いた。

 この湖畔の工房に来てから親方がずっとカナに言いたかったことが、そっくり義兄が願っていたことになるようだった。

「あっ、俺の、もう引いている!」

「よっし。航、慌てるな。そのままそっと引き上げろ」

 小さな竿から垂れている長い糸を甥っ子がたぐり寄せると、氷の穴から小さな銀色の魚がちょこんと現れた。

「ちっせえ。うわ、でも釣れた!」

「これを今夜は腹一杯食いたいなら、もっともっと釣らねえとな」

 『マジで?』と航がおののいていたが、なにか思いついたのか、慌ててダウンジャケットのポケットから携帯電話を取りだした。

「カナちゃん、撮って」

「はいはい」

 スマートフォンを渡され、釣れたばかりのワカサギと釣り竿を手にして氷の上で笑っている甥っ子を撮影した。

「富士山も入れてくれた?」

「もちろん」

「よし。父さんに送ろう」

 ドキリとした。いま、カナが過ごしている世界が義兄さんに届けられるんだと思うと、どう感じるのだろうかと。

 航がいまどきの子らしく手際よく画像を送ると、すぐに返信の着信音が航の手元から響いた。久しぶりに感じた義兄の気配。やっぱりカナはドキドキしてしまう。久しぶりに『これだから、義兄さんはずるい』と思ってしまった。

「父さんからだ。――なんて羨ましいことをしているんだ。富士山もでっかいなあ。だってさ。えっと、それから……。カナは……大丈夫……かって……」

 叔母の顔色を航が窺っている。『カナちゃん、結婚を知って哀しそうだったよ』。今朝方、甥っ子がそう伝えていたから、義兄もそれを知って案じてくれているのかもしれない。結婚する父が、まだ叔母を案じている。そんな時だけ大人の世界を理解できなくて困っている子供の目で航が見ている。

「元気よ、そう伝えて」

「うん。わかった」

「さあ。私も、いっぱい釣ろう。バケツいっぱい釣らないとご馳走にならないんですよね、親方」

 久しぶりの義兄さんの気配と言葉。そしてわたしからの言葉が、一年半振りに義兄さんに届く。ずっと封じ込めていた彼へのときめきが、こんなに鮮やかに瞬時に蘇るものだったのかと、いまカナは密かに熱くなっている。

 平然としたふりをして、カナもワカサギを釣り続けた。

 思い出してきた。そうして溢れる気持ちを削ぎ落とし、でもそれを宇宙の下で弾かせるよう散らして、またかき集めてそれをガラスにして変えてきたことを。

 カナの目はもう、真っ白な雪富士だけを見据えていた。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 親方。一度、アパートに戻ります。


 ワカサギ釣りを堪能して満足した様子の甥っ子を確かめ、カナは急く心を抑えながら親方に申し出た。

「すぐにスケッチしたいものが浮かんだので、描く道具をこちらに持ってきたいんです」

「ああ、いいぞ」

 親方が、いつもと違う顔でカナの目を覗き込んでいる。

「顔つきが変わったな。そんな顔もできるのか」

 『行ってこい』――と、親方は大きな手でカナの背を叩き、送り出してくれた。

 杉の小径を抜け、同じ国道沿いにあるロッジ風のアパートへとカナは急ぐ。

 雑木林に囲まれた静かなアパートに戻り、カナは冷えた部屋に入る。

 質素な部屋だった。だがリゾート的に作られたのか、部屋は古い板張りの床で洋風の間取りになっている。昭和のアンティークな洋風の部屋には、ひとまずのベッドにテーブルしかない。そのテーブルにはスケッチブックと色鉛筆、カラーコンテ。そして撮りためた写真の束。

 それらをカナはザッとテーブルにばらまいた。暖房もつけず、カナは防寒着のままの姿で椅子に座り、いままで撮影した写真を次から次へと眺めた。全て眺めて、もう一度何枚もある写真を同じように繰り返し見つめる。

 四季がはっきりとしている湖畔と富士。一年半、春夏秋冬、その時その時を撮ってきた。中でも、冬と夏の富士はどちらも印象的だった。

 いまと同じ、雪に覆われた富士山。山梨の富士は間近に見えるので迫力がある。日本の象徴であるよく見る優雅な富士とは少し異なる姿を見せる。標高1000メートル、既に富士の山肌に立って、さらに富士を見上げているのだから、雄々しく険しい表情を見せることが多い。

 冬は厳しい寒さに見舞われるが、空気が一番澄んでいる時期で、富士山が姿を現すのは夏より冬の方が多い。

 逆に夏は時折、雲や靄に包まれ、まったく姿を見せてくれないことが多い。霧も多く、すぐに目の前が真っ白になる。つまり空に見える雲と同じ高さにいることになるので、曇るということは霧に包まれるに等しかった。山の気候は移り変わりが激しいというものも体感できる。霧が一気に湖畔を真っ白にしたかと思うと、突然に大粒の雨が降り頭のすぐ上で雷鳴が轟き、すぐ目の前に稲妻が走るという恐ろしい山の嵐が襲来する。なのに数時間もするとあっという間に晴れ渡り、茜に染まる赤富士が艶やかに夕に微笑む。

 冬の夜は孤高の姿で宵闇に潜むだけの富士も、夏の夜は人々を受け入れた光で彩られる。

 山小屋の灯りで縁取られた富士が、暗闇に浮かび上がる。登山道も、夜登山をする人々の灯りで、頂上まで金色の道になり煌めく。

 そして、満天の星。宇宙(そら)が近い湖畔は、紺碧のプラネタリウム。望遠鏡なんていらない。湖畔にいるだけで、幾億もの星が覆う。ひと晩に流星が何本も現れる。

 霊峰が潜む夏の湖畔、そこで見たこともない星空を見たカナが思ったことは、『この星の数ほど嘘をついてきた』だった。

 たくさん、たくさん、心とは裏腹のことを口にしてきた。カナにとっての『たくさん』は、それに尽きる。嘘ばかり、あの人と暮らそうとした覚悟だって、覚悟といいながら『愛している人に嘘をつく覚悟』だった。

 あんなに嬉しそうだったあの人を泣かした。哀しませた。十九歳の頃から、あの人についてきた嘘が、カナにとっては『たくさんの事実』でもあった。

 湖畔に揺れる『待宵草』。高原の待宵草は、小ぶりで可憐だった。なよなよとした月色の花びらと、微かに香るオレンジのような匂い。月見草とも呼ばれる宵を待つ花は、本当に日没になると花開き、日の出が来ると花がしぼんでしまう。それが湖岸にたくさん揺れていた。

 『平地で見られる月見草とは違って、かよわい月見草ですね』と親方にいうと、彼が『愛らしく見えて、こいつらは、雑草と同じで案外強いんだよ』と教えてくれた。

 満天の星の下、湖岸で夜になるとひっそりと花開き、ひとしれず匂いを漂わせ、朝になると隠れてしまう。そんな花に惹かれ、翌日の夜、カナはスケッチをしたいと夜の湖岸に足を運んだ。

 紺碧の星ドームに、ガラスのような湖面。湖岸に咲く月のような花。その世界に静かに入り込み夢中にスケッチをして写真に収めた。

 今日まで。カナはただ初めて一緒に暮らす湖畔と富士を感じるだけで、それがどう自分を変えてくれているのか、または慰めてくれているのかわからなかった。いつか、この日がわたしを支えてくれるだろう漠然と確信していても、それはすぐにはカナの中で同化はせず、カナの中には溶け込むことはないだろう。だって、ここは流れ着いた土地で、カナにガラスを吹かせていた『花いっぱいの庭』ではない――。

 そう思っていた。でも。義兄があの庭から離れて、ひとりで生きてきたなら――。カナはどうだった? この湖畔でひとり生きてきた自分を示すなら、どう示す?

 山口の工房で常に携えていた『砂がガラスになる。人がガラスにする。なにをガラスにする。それら全てが理になる』という感覚が、カナに蘇ってくる。

「星の数ほど嘘をついた女が湖面にいる。嘘をいっぱいついた。秘密を握っていた手をやっと開いた。開いた手から秘密がこぼれて……。散らばっていく……」

 暖房もつけず、カナはずっと独り言を呟きながら、スケッチをする。

 平皿、大鉢、花瓶、ボード。様々な器を描き、どうすればこの溢れてきた感覚を表してくれるのか模索する。

 そしてそれらを器にぶつけるんじゃない。削ぎ落として、『理』になるまで粉砕する。自然に還るように粉々になるまで。細かくなったそれらを、溶解炉で液体にして、吹き竿で吹いてまったく異なるものに変える。

 しんしんと雪が降り始めたことも気がつかず。カナは耽る夜、夕食のことも忘れて、スケッチを続けた。


 


 ひとりでいきてゆく。

 まずは、それから。

 その後、ひとりでもいい、ふたりでもいい、さんにんでもいい。

 そして、やはり、ひとりでもいい。

 でも、まずは『ひとりのわたし』になって、それから、誰かと出会おう。

 秘密に挟まれたアナタとの愛は終わった。

 家のしがらみが絡んでいたアナタとの日々も終わった。

 秘密もない、家もない。姉もいない。お義兄さん達もいない。アナタもいない。

 カナはひとりで湖畔にいる。

 群青に塗り込められた夜に、孤高の霊峰が繰り広げ、みせつけてくれた『理』の中心にいる――。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 翌朝、カナはスケッチを持って工房へ向かう。


 ワカサギ釣りから帰ってきて、すぐにアパートに戻って、それきり工房には戻らなかった。

 工房の勤務もしなければならなかったはずなのに、『ワカサギ釣りの日』として大目に見てもらえたのか、または親方がその気になったカナを知ってそっとしておいてくれたのか、誰も呼びに来なかった。

 それはせっかく会いに来てくれた母も航も同様で、あの雑木林に囲まれた静かすぎるロッジアパートで集中してるままにしてくれていたようだった。


「おはようございます」

 ログハウスを訪ねると、母がいそいそと朝食の支度をしているところだった。

 そして親方は大きなストーブがあるリビングソファーで、珈琲カップ片手に新聞を読んでいるところだった。

「おはようございます。昨日は、帰ったきり戻らなくて申し訳ありませんでした」

 新聞に隠れていた大きな顔が現れる。テーブルに新聞をたたんだ親方が、無言でカナのスケッチへと手を差し出した。

「お願いいたします」

「どれ」

 一晩、思いついたままに描いたものを、素のまま持ってきた。

 彼の表情が険しくなる。

「うん……。やはり風景的にきたか」

 そしてすぐに突き返される。

「駄目だ。いまはまだ『生』すぎる」

「生……ですか」

 抽象的に聞こえるが、カナには直ぐに通じた。『作り手の気持ちがありありと漂っている』という意味でもあり、または『風景をそのまま切り取っただけだ』という意味でもある。

「皿に湖、ボウルに星空。よく見かけるものだ。趣味ならいいが、展示会で競作に出すものではない」

「わかりました。練り直します。ありがとうございます」

 工房主の親方は上司にあたる。こんなにきっぱり言われるのも久しぶりだった。

 でも。と、カナは思い出している。義兄さんとは感覚がとても合っていた。理屈ではない感覚。『これを使いたい、買いたい、そばに置きたいと思わせるものを造れ』が、義兄さんのモットーだった。それがカナには通じた。あの家にある全てのものがそうだった。義兄さんが気に入るものは、わたしも気に入る。義兄さんが売れると言えば、すぐに売れ。売れないと言えば、いつまでも店舗に置かれている。工房主であった義兄さんの気持ちに寄り添うようにして作成してきた。そこには、義兄さんではなく『倉重ガラス工房社長』という経営者のコンセプトを映していた。

 では、ここではどのようなコンセプトで作るべきか。

「うちはおまえの実家のように資金が豊富ではない。まず、縮小版の試作品を作ってみて感覚を掴んでみるか」

「では、あの。この雰囲気で突き詰めてよろしいでしょうか」

 ふうと大きな息を吐いて、親方がソファーからのっそりと立ち上がる。

「いいだろう。相棒はどうする」

 これも決めていた。

「勝俣さんでお願いします。本当は親方に……と言いたいところですが、親方の腕前を頼ってしまいそうです。勝俣さんは、学生時代から一緒にやってきた実家工房の相棒と感覚が似ています」

「わかった。勝俣も出展作のスケジュールがあるから調整する。まずはスタンダードな皿サイズの試作品を今週中に提出しろ」

「わかりました」

 頭の中では既に吹き竿を手にし、瑠璃色になる酸化コバルトと空色になる酸化銅との配分を思い描いてブローをしている自分の姿がイメージできていた。


 


 ひとりで咲いてから、実を結ぶ。

 この湖畔にいる花が見た世界を造りだそうと決めた。

 星の数ほどついた嘘さえも、包み隠さず素材にして。

 なにもかもがあってこその空を、ガラス一枚にしてみせる。


 それが出来上がったら……。

 会いに行こう。

 最後にもう一度だけ、お義兄さんに会いに行こう。

 それが最後。ただ会いに行って、まだ話していないことを伝えて……。

 そして。わたしの、天の邪鬼じゃないわたしの、気持ち。それを最後に伝えて終わりにしよう。

 あとは義兄さんが今度こそ、そばにいる女性と幸せになれるよう、義妹として祈っていきていく。

 その日から、アナタの本物の妹になる。


 


 でも会う前に、花南はガラスで生きていけることを伝えたい。

 西の京に向かうのは、それからだ。


 


「勝俣さん、よろしくお願いいたします」

「おう。やっとやる気になったか」


 その日の午後。カナは吹き竿を片手に、湖畔に来て初めての創作に取り組む。


 雪に覆われているのに、熱気が揺れる工房。母と航も、久しぶりに目にする炎に向かうカナを遠くから見守っていた。


 

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