13.花はひとりでいきてゆく


 ひとりでいきてゆく。

 なにもかもを置いて。

 失敗作は割砕く約束。


 五年暮らした家を出て行くことにした。


 


 今後のことを義兄と話し合った。一晩でそれらは決まった。


 


ひとまず、小樽に戻ります。

そうか。わかった。俺から親方にも頼んでおく。

お願いいたします。


 


 話は奇妙なくらいに、とんとんと進んだ。まるで、用意されていたように。

 そう、少なくともカナには『最悪のことが起きた時』として、用意していた覚悟だった。


 


 再び北に向かうなど、嘘だった。

 小樽の親方に『義兄と決裂した』と告げ、小樽の工房には戻らなかった。

 カナはまったく違うところを目指していた。


 


 持っていた携帯を解約した。

 義兄が援助をするから残しておけといった銀行口座も解約した。

 義兄とのいっさいを断ち切り、カナはひとりで生きている。


 


 朝、目が覚めると白銀の世界だった。

 ついにこの季節が来たかと、カナはため息をついてベッドから起きあがる。

 ロッジ風の賃貸アパート、二階の角部屋。そこがいまのカナの住まいだった。


 いつも通りに着替え、雪支度をする。

 スキーウェアのパンツを穿いて、ダウンジャケットを羽織る。

 マフラーを巻き帽子を被り、カナは部屋を出る。徒歩で五分のところに工房がある。


 杉林に雪の小径。そこを歩くと、少ししたところに古いログハウスに、隣にはガラス工房がある。

 ログハウスの玄関周りで、豪快に雪かきをしている男がいる。


「親方。おはようございます」

「おう。今朝は冷えたな。やっぱ、積もりやがった」

「わたし、工房の前を雪かきしてきますね」

「俺が後でやる。男共も来るから、花南が無理することはない」

「いえ。慣れていますから。小樽の雪なんてもっと凄かったですよ。それに、朝の運動です」

 古いログハウスは雇い主である『芹沢親方』の自宅だった。

 懐かしいくらいに、主の自宅と工房が共にある。

 職人は四人。男三人で営んでいたところ、カナを雇ってくれることになった。

 これも偶然で、親方が作品展で急いでいたところ、職人のひとりが怪我をして不自由をしていた。ちょうど手伝えたことから、腕前を認めてもらえ、雇ってもらえることになった。


 工房の入り口にどっかりと積もった雪を、カナは大きな雪かきスコップでかきあげ、側にある杉林へと放る。

 スキーウェアなど、本当のところは要らない。外に出た時に氷点下の寒さを凌ぐためだけに着て、雪かきを始めるとすぐに汗をかくので最後にはダウンジャケットは脱いでしまう。

「うっわ。全部、花南がやったのか」

「おはようございます。一応、北国経験者ですからね」

 先輩職人がやってきた。工房の入り口を塞いでいた雪が、すべて林に山盛りになっているのを見て驚いている。

 ――花南。後でこっちに来い!

 親方がログハウスの玄関ドアを開けて、叫んでいる。

 来たばかりの先輩がすぐに、カナが持っている雪かきスコップを手に取った。

「親方のところへ早く行けよ。うーん、きっとアレのことだろ。焦っているのは親方のほうだな。聞き流しておけよ」

「はい……。では、お願いしますね」

 当初、男達はカナがどこから来てどうしてここに流れ着いたのかを、不審に思っているところがあった。

 しかし、芸は身を助けるとはよく言ったもので、カナのへこたれない男顔負けの職人っぷりに、徐々に心を許してくれるようになった。

 ――花南。おまえ、どこからきたんだよ。

 先輩職人達によく聞かれ、カナは『下関』と答える。わずかに実家とずれている場所だが、離れている訳でもない土地を口にする。芸大は広島、修行は小樽。もっと他の土地のガラスをやりたいと思い立ち、旅に出てここに流れ着いたことになっている。

 やがて。親方の接し方から先輩達も察したのか『花南には事情がある』と思ってくれるようになり、そっとしてくれるようになった。


 ログハウスへ向かおうとすると、先輩が工房から向こうに見える景色を見て、白い息を吐く。

「今年は凍りそうだな」

「去年は凍らなかったので、見てみたいです。こんな大きな湖が凍ってしまうなんて」

「でかいけれど、富士五湖の中ではいちばん浅い湖だからな」

 杉林の小径の向こう、カナの目の前には下まで雪で真っ白に覆われた富士山、そして山中湖。

 標高1000メートル。ここは北海道と気候がほぼ同じ。富士五湖の中で一番大きい湖、そして一番高い場所にある湖。

 北国経験者としてもどこか懐かしく、この高原での生活はすぐに馴染むことが出来た。


 芹沢親方の自宅であるログハウスのドアを開けると、大きなストーブの上にあるケトルが湯気をもうもうと吹いていて、部屋はすっかり暖かくなっていた。

「仕事の前に話がある。そこに座れ」

「はい」

 大きなリビングに、ダイニングテーブル。この家のリビングは職人達の憩いの場で、休憩部屋でもあった。たまに職人四人で夕食を囲むこともある。

 珈琲を淹れてくれた親方が、カナがいつも座る席に珈琲カップを置いてくれる。

 そこにカナは神妙な面持ちで腰をかけた。

 もう彼がカナになにを言いたいのか判っているので、それを思うと気が重い。

「俺がいいたいことはなにか、判っている顔だな」

 浅黒い肌に厳つい顔が義兄を思い出させる。でも見た目はまったく異なって、熊のようにがっしりした体格の朴訥とした親方という雰囲気の男性だった。どうも年齢まで義兄と近いようで、離婚後はここでひとり暮らしをしているとのこと。

「花南考案の土産物『富士まりも 小さな水鉢』。あれホテル街や別荘地の雑貨屋でよく売れているそうだ。おまえの小物はどれも売れると評判で、依頼も相次いでいる。だが、どうだ。そろそろ小物ばかりではなく、創作をしてみないか。おまえのセンスがそのままではもったいない」

「まだ……それは……」

「ほんとうに、なにがおまえを立ち止まらせているんだ。ここで雇う時に約束をしただろう。二年の間に自作制作が出来ないなら辞めてもらうと」

「わかっています」

 このやり取りはもう一年半続いている。

 そうして親方がカナを瀬戸際に追いつめて、『本当にあるべきカナ』に戻そうとしているのだともわかっている。

「いいんだぞ。ここを辞めて、また別の工房に移る旅に出る。それとも小樽に戻るのか。それを繰り返せばいいだろう。様々な土地のガラスを見る旅もいいだろう。俺も憧れるからな」

 容認しているような口ぶりでありながら、実はそんな生き方をして、ただ日々を費やしている女への嫌味でもあった。おまえには『こんなガラスを造りたい』という信念はないのか。ただ流れ者になって、腐れていくのかと暗に含めている。

 ほんとうはそれが嫌なのだろう? だったら『本気』を出せと毎回せっつかれる。

 この工房で落ち着いて良い女ではない。親方は雇った当初からそれを踏まえた接し方に一貫していた。『いつか返す女』、その気持ちで置いてくれているのだと。

「雪が溶け、夏の観光シーズンが来れば、花南が来て二年か」

 珈琲カップを傾けていた親方が、ふと呟いた。

「まあ。悪くはないけどな。おまえ、料理もうまいしな」

 カナはただ黙っていた。でも親方は続ける。

「倉重観光グループ社長の次女、倉重花南。倉重ガラス工房社長の義妹で、義兄が経営していたガラス工房で、作家もののガラス製品を主に制作していた……のに……。惜しいな、おまえ……」

 親方はいつのまにかカナのことを調べたらしく、とっくにそこまで突き止められていた。それから他の職人達に『誰だって事情があるだろう。放っておけ』と、カナをそっとしてくれる環境を整えてくれるようになった。

 痛感している。結局、いまのカナの生活は『親方の温情なしでは生きていられなかったもの』であるのだと。うんと痛感している。感謝している。事情を察してカナを自由にしてくれた小樽の親方共々、恩人だった。

 それでも、雇ってくれる時も、親方とは一悶着あった。

 わけのわからない流れ者の女が『雇おうと思うから、ひとまず履歴書を出せ』と言われて、『書けることしか書かなかった』ところで、もう親方は呆れていた。

 ――『なんの事情がある。全てでなくとも構わない。俺にも工房と職人を守る義務がある。腕前は認めた。素性と事情を教えてくれ。俺だけの胸に納めておくから』と。

 その時カナは、こう告げた。

 ――『警察の世話になった経緯があり、家族とは縁を切っている』と。

 それを聞いた時の親方の驚き顔と戸惑い狼狽えた眼差し。観光地であるここには余所者が入ってくることは珍しくはなかったようだが、地元村民の親方にとって初めての種の流れ者だったのだろう。

 それで不採用となるなら、それでもいいと思っていた。

 ――『前科か』

 ――『違います。が、近しい人が実家の事情に関わって亡くなりました。その人を止めることが出来たのは、わたしだけだったことに後から気がつきました。もっと違うやり方があったはずなのに……。だから、わたし自身は同じだと思っています』

 ――『実家は……』

 これだけは親方には正直に告げた。

 ――『山口県の豊浦です。家族が経営してくれた工房で五年ほどやらせてもらいました』

 ――『その……事件……? が、原因で家族とは……』

 ――『はい』


 芹沢親方の工房に来て一年半。金春色の日々は、もう遠い日になった。

 あの家に娘はいない。父が望んだ娘はいない。

 そのかわりに、立派な跡継ぎ婿と、跡取り孫の男二人がいる。

 義兄と男と女になったばかりに、女として別れることになって、義妹としても娘としてもそこにはいられなくなった。

 いればいいだろうと親は案じてくれたと思う。でも、義兄さんとは一緒にいられないから出て行くと言えば、もしかすると止めはしなかったのではないかとも娘のカナは思っている。義兄が出て行くということは、いま家族にはいちばん困ることなのだから。


 どうあっても倉重を守ってくれる者が、あの家では一番必要な人間。それなら、家業を支えることなど出来ない役立たずの娘が出て行くのがいいだろう。

 仮面を被りきれずに家を飛び出し逝去した姉、ただひとり勝手に秘密を抱えどうにもできなかった妹。

 姉妹は共に家を飛び出してしまった。父が望むのは、家に残って家を守ってくれる者が最善であるに違いない。

 そしてカナも、そんな実家であって欲しいと思っている。父が守ってきたものを、義兄が必死で守ってきたものが、母を助け甥っ子を助けるものであり続けて欲しい。

 なにも出来なかった娘二人は、そんな家を捨てたのだ、姉妹揃って捨てた。


 家を出てすぐに小樽の親方に連絡をして、義兄と決裂した話をすると、親方も無理に連れ戻される際に協力してしまったことを気にしていたのか、今回は花南に協力してくれることになった。

 ――他の工房を探します。落ち着いたら連絡します。義兄には、ひとりでなんとかやっているから安心するよう伝えてください。と、お願いした。


 山梨県 南都留郡 山中湖村。

 ここに流れ着いたのは、夏の観光シーズンが終わり、富士が初冠雪をした頃だった。


 『雇う条件』として、親方が最後に出した条件があった。

 ――『いまここで、俺の目の前で、母親にだけは連絡しろ』だった。

 カナも母のことだけは案じていた。あと少しで、お気に入りの婿と娘が結婚してくれると安心していたのに。

 母にはなにも言わずに出てきてしまった。義兄が『ひとまず人員が足りなくなった小樽に貸すとでも言っておく』とその場しのぎの言い訳を用意してくれたが、『貸す期限』が長すぎれば母にも分かってしまうから、その時は娘としての言い訳を考えておけとも言われていた。

 小樽の工房にもいないと知ったら、母がどれほど心配するか。カナも気になっていた。

 観念し、カナは親方の目の前で、豊浦にいる母に二ヶ月ぶりに連絡をした。


『カナ! 貴女いまどこにいるの! 耀平さんが探しているわよ』

『お母さん。ごめんね。小樽は義兄さんが知っている工房だから……、いたくなかったの。いま、知らない工房にいる』

『いま、どこにいるの! 言いなさい!』

『北海道ではない……寒いところよ。心配しないで。なにかあったら小樽の親方に伝言して。わたし、ガラスでまだ頑張っているから』

『カナ。耀平さんと喧嘩でもしたの? 耀平さんは貴女を自由にしてあげたとか言っているのよ。貴女、耀平さんを愛していたんじゃないの?』

 ――愛しているよ。一緒に暮らすつもりだったよ。嘘をつきながらでも、一緒に。でもね……、お母さん。嘘よりも真実の方が辛くて重い。わたしも義兄さんも重かったの―― そう気ままに言えたら、どんなに良いか。

 そんな黙っているカナから、芹沢親方が電話の受話器を取り上げてしまう。

『倉重のお母様ですか。初めまして、工房の責任者をしている芹沢(せりざわ)と申します。大丈夫です。花南さんはこちらで預かります。時間が必要なのかもしれません。私の連絡先をお教えしますから、なにかあればそこに』

 勝手なことをされ『どうして居る場所が判ってしまうことをするのですか!』と、カナは憤慨した。

 親方が母に教えた電話番号は、市外局番で場所が判ってしまう家電ではなく彼の携帯番号だったが、『芹沢』という名字はこの辺りの土地に多いもので、調べたらすぐに判ってしまう。義兄がそれを知ったらすぐに突き止めてしまうと案じたからだった。

 だが熊の威圧感と大人の男の迫力で、カナは押し切られる。

『実家でなにがあったか知らないが、いかにもお嬢様だってことはわかった。母親と連絡が取れる。これが雇う最低条件だ』

『もう三十過ぎた大人です。ひとりでいきていけます』

 その時、親方が眼を大きく開き、恐ろしい眼光を放ってカナに言いきった。

『ひとりで生きていこうと本気で思ってる人間は大人ではない。そんなのおまえの我が侭に決まっている。自分がひとりになればそれでいいと本気で思っているのか。相当、甘やかされてきたようだな』

 自分でも感じていたが、やはり花南という次女は社会経験が浅く、どこまでも家族に守られてきたのだと――。こうして家族以外の人間にバッサリと言われたのは、これが初めてかもしれなかった。

 なのに……。なんだろう。カナの心に、この時になって『やっと息が出来た気がする』という妙な感触があったのは? 言われてショックよりも『やっと言ってくれる人が現れた』気分だった。

 この工房にいる間に、どうしてこのようなことになったのか頭を冷やして考えろ。そう言われ、カナは雇ってもらえることになった。

 親方の元には、月に一度、母から連絡が入ることになった。

 カナも山口から持ち出してきた貯金が底をついたところで、これ以上の旅は望めない状態にあったので、ここで踏ん張って自立するしかなかった。

 本当に義兄さんが現れたら、考えよう。ここを逃げるかどうか。

 しかし。そんなことに怯えた自分が愚かだった。

 母から『どこにカナが居着いたか』もう聞かされているだろうに。義兄が姿を現すことはなかった。


 思い上がりも甚だしい。

 義兄さんが迎えに来てしまうだろうと思っていたことが。

 義兄さんが『自由にする』と言って、カナは『では出て行きます』と答を出したのだから。

 義妹がどこでなにをしているか、家族として案じてはしても、もう女としては取り戻すものではなくなってしまったのだ。


 


 愚かだった。ほんとうに、愚かな花。


 


 この愚かさが、義兄を苦しめた。


 


どうして俺に相談してくれなかった。

そんなふうに守られても、俺はちっとも有り難くは思わない。

おまえの兄貴でもあるんだぞ。家族なんだぞ。

倉重を守るというなら、どうして秘密の相棒を金子ではなく俺にと思ってくれなかった。


 


 別れの晩、義兄の声が蘇る。


 


俺の苦しみがなにかわかるか? おまえとは兄妹でもなくて、家族でもなくて、一番に頼ってくれる男ではなかったということだ。結局、おまえは俺を傷つけた血の繋がりがある姉を守っていただけだ。姉が選んだその男も死を持って、倉重を守ってくれたということだ。俺は、俺は、なんだったんだ。カナ!


 


 違うよ、違う。本当に義兄さんが傷つく姿を見たくなかったの。こんなふうに心が砕けて、静かなお義兄さんが荒れ狂うような苦しみに悶えないように守ろうと思っただけなのよ!

 でも、それはカナの勝手な想い。押しつけがましい想いは心の中で叫ぶだけで、彼には伝えられなかった。

 カナも思った。もしかすると本当に、義兄さんの言うとおり。カナの独りよがりで、義兄さんに心を開いていればこんなことにならなかったのかもしれない。どんなに非道い秘密でも、義兄さんと話し合っていれば、もっと早くに少しずつでも癒していける時間を積み重ねられたのかもしれない。

 全ては――。カナが『ひとりでやろう』としたことが、こんなことを招いている。

 言い訳や弁明も、もう出てこない。


 アナタをいちばんに頼りたかった。

 でも、それがアナタを傷つけることだと思ったから、秘密にして隠してきた。

 愛している義兄さんのための想いが、逆に義兄さんを苦しめていることにも、この晩に気がつく。


 


そして俺も馬鹿だ。まだ学生だった若い義妹が必死に守ってくれていることも分からずに、おまえにその重みを背負わせて、勝手に俺のものにした。俺を目の前にして、おまえがその秘密の重みを毎日携えて、俺に素っ気なくしたりしたのも……おまえが、ほんとうは……。


 静かな男の人が、まるで血を吐くような痛々しい声で吐露し続ける。


俺はただ……。航とおまえと、家族らしく寄り添っていければそれでいいと思っていた。おまえは知らないだろうが、おまえがいるだけで、航が子供らしくはしゃいだりして、それだけで父親の俺も嫌なことを忘れられた。おまえが帰ってくることを息子と心待ちにしていた。血の繋がりのない俺と航を繋げてくれていたのは、やはり航と血の繋がりがある叔母のおまえだった。だが、姉の夫だった男が妹も望むだなんて許されないと躊躇していた。臆病な俺を後押ししたのは航だった。『カナちゃんを連れて帰ってきて』と……。航のためだけじゃない。俺が、花南という女と毎日を過ごしたかったんだ。それだけで良かった。


 『勝手に俺のものにした』時の、義兄の本心を初めて聞いて、カナは驚く。あまりにも強引だったけれど、本当に女として望まれていたことも、そして義兄が男としてあまりにも不器用な気持ちを隠していたことも初めて、いま初めて知る。


 


 そんな全てをうちに秘めていただろう義兄は、普段は無口でお喋りではない兄さんから、それまでの想いが一気に流れ出す。


 


航のことは、息子ではないと判明しても、とっくに父親として育てていく覚悟は出来ていた。

血の繋がりもないし、妻の不貞で生まれた子供だと判っても、航が生まれた日の愛おしささえ忘れなければやっていけると思っていた。

なによりも、母親も父親も放ってしまった子供だ。俺しかいないだろ。俺だけが航を育てられる人間だ。その誇りさえあれば、一生父親としてやっていけると思っていた。

あとは、俺の傍で俺を生かしてくれる女……花南が欲しかった。姉のように器用に生きられるような妹じゃないとわかっていた。

自由気ままで、人にあわせて生きるような大人にはならない、俺のようなビジネスマンが望む社交能力に長けた理想的な妻にはならない女だとわかっていた。

でも俺はそんな自由気ままで、風変わりな感性を持っているおまえが好きだった。俺達のような仕事の掟に縛られて生きている男には、その感性は新鮮で、掟という枠もなく生きているおまえの感覚に触れた時、なにもかもから解きはなたれる自由を感じた。

なによりも、俺は……おまえが勇ましく長い吹き竿を持って、どんなしがらみも削ぎ落としてガラスを吹く姿にいつも惹かれていた。

美月が初めて、ガラスを吹くおまえを見せてくれた時、こんな妹が出来るのかと嬉しくなった。

美月は良くできた妻で自慢の嫁だった。一時でも幸せな夫婦生活があったことは感謝している。でもそうじゃない。見合い結婚をして妻を失い、妻とは愛し合えず、息子とは血の繋がりもなかった。そんな俺の……


 


 最後の別れの会話だけが、いまでも鮮烈に思い出される。

 最後のにいさんの言葉と哀しい目だけがいまでもくっきりはっきりと思い出される。

「おまえは、俺の……」

 あの義兄さんの黒い目から、一筋だけ……。涙がこぼれていた。

「……本物の出会いだった」

「に、にいさん……」

「恋はすぐに終わるって、本当なんだな」

 母が言っていたとおり。義兄の男としての恋愛は、花南のところにあったという初めての告白だった。

 でも。もう遅い。砕け散ってしまったから、もう……。

 


「天の邪鬼をされるたびに、おまえが可愛かったし、俺も楽しかった」


 そして義兄も、カナとまったく同じ覚悟を決めていた。


「もう一緒には暮らせない。昨日のようにはおまえを抱けない。……なんだろうな。おまえを、金子という男に獲られていたようなこんな気分……おかしいな……」


 

 この時になって、初めてカナの胸を貫くものがあった。

 ずっと裏切っていたのは、カナだったのだと。結局、カナは秘密という重要性について守ってくれる男は、義兄ではなく金子氏を選んでいたことになる。それは義兄を傷つけないためでもあったけれど、彼を信じるならば、もっと早く相談をするべきだったのかもしれないと初めてその重要性を苦く噛みしめた。


 


 もう戻れない。


 


 富士、山中湖にたどり着き一年半。いま花南はここにいる。


 再度、芹沢親方に念を押される。

「来月には雪が溶ける。あっという間に夏になる。俺は本気だぞ。追い出す覚悟もあるぞ」

「わかりました」

「今年の展示会に出展してもらうからな」

 少し間を置き、カナは頷いた。


 無垢になれない。ガラスをやっていることがたまに自分を苦しめる。

 作家としてなにかを造ろうとすると、どうしても義兄さんを思い出してしまう。

 義兄の工房での活動が、如何に自分の価値を引き出してくれていたか。……ヒロや義兄に、または本店の職人達に、如何に倉重のお嬢様として支えてもらっていたことか。

 馬鹿だけれど、今になって痛切に感じてる。

 標高1000メートル、富士五湖。静かで壮大な山は、神々しい荘厳さを極寒に閉ざして、人々を近づけさせない。いまのカナを罰するには、ちょうど良すぎる険しさだった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 湖に幾億もの星が映る。満天を映す湖面は宇宙(そら)のガラス。宵闇に潜む富士もくっきりと捉えている。

 雄大な自然の移り変わりが、日々、カナをときめかせている。

 経験したことがない自然現象が毎日のように起きて、カナは思うままにスケッチをしたり、写真に収めたりしていた。


 快晴、しかし風強し。くっきりと青空に映える富士の山肌が、雪でけぶる。白いベールがなびいているような、荒々しくも清々しい姿を見せてくれた日。

 


 母が訪ねてきた。

 


 昼休み。午前中にどっかり積もった雪を林へと投げている時だった。

「カナ!」

 空耳かと思ったがそうではなく、雪でけぶる冬富士を背後に母が手を振っている。

 いつも着物姿の母も、さすがに極寒の土地と心得て上品なコート姿で歩いている。

「カナ! ああ、ほんとうに遠かったわ!」

「お、お母さん!? ど、どうして」

 湖畔の国道から工房へと入ってくる杉林の小径を、不慣れな足取りで歩いている姿が本当に目の前にあってびっくりさせられる。

 しかも、その背後に男がいた。

 母より背が高く、年寄りの頼りない歩きをいちいち気にしている男性が……。

「お祖母ちゃん、気をつけて。もっとゆっくり歩こうよ」

 カナは息を呑む。彼にもなにも言わずに出てきてしまい、約束を破ったことを心苦しく思っていた。

 なのに彼が手を振った。

「カナちゃん、来ちゃった! お祖母ちゃんと来ちゃったよ」

 でも、カナはすぐに笑顔になれなかった。

 別れた時はまだ小学校を卒業したばかりで、子供だった。

 あれから一年半……。すっかり背丈が伸びており、なによりもカナを驚かせたのは、大人へと変化しはじめている彼の顔。

 甥っ子『航』の顔つきが、あきらかに『金子さん』を思わせるものだった。

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