10.愛だって、嘘をつく


「この男の顔を、良く覚えておいてください」

 姉のさらなる強烈な秘密が、十年後に生きているカナと金子氏を動かそうとしている。

 卑しい顔つきで姉の肌を触っている男の横顔を、カナは目に焼き付ける。

 金子氏と同じような、みかけによらない大人しそうな黒髪の男。でもカナは、金子氏とこうして接してきたからなのか、本能的なのかわからないけれど、金子氏のように理知的な男ではないと感じた。おそらく金子氏のような『真性の性癖』の持ち主ではなく、それを利用した『快楽主義の男』。とても狡い男。このような性癖を持つものを利用して便乗をして刺激を楽しむ……そういう男。

 負けてはいけない。決して、義兄と甥っ子に近づけてはいけない。

 その思いひとつで、カナは落ち着きを取り戻す。改めて金子氏に尋ねる。

「素性は明かさない者同士だとは思いますが、この男のことは突き止められたのですか」

「いえ。ですが大方の予測はつけています。これから確認に行きます。ただ、向こうから僕に接触しようとしているので、この男も僕と美月の素性を粗方掴んだうえでの、接触だと思うのです」

 そもそも、金子氏はどうしてこの男が『自分を捜している』とわかったのだろう。

「ああ、あれですよ。僕のような性癖が集まる裏サイトがあるんです。僕と美月がそうであった時にはこのようなネットワークは確立されていなかったのですが、現在はとても便利ですよ」

 ああ、なるほど。と、カナも納得する。いまはそうして集まることができるらしい。そう思うと、安易に繋がれるネットワークがない中で、互いの性癖が合致した金子氏と姉の出会いは、とても運命的だと思ってしまう。運命でなければ、それこそ本能。最良の相手と感じ合った性的嗅覚の鋭さはとても動物的で、ネットなんてテクノロジーで繋がる安易さがとても安っぽく思える。

「そこで、彼が『○○年頃に接触したカップルと、もう一度プレイしたい』という捜索依頼板に書き込みをしていたんです。待ち合わせた場所、そして、美月の特徴、僕の特徴、プレイ内容がそっくりでした。間違いありません」

「そんなものがあるのですか……」

「ええ。ネット社会になってからは、なんでもありますよ。素性は明かさない。それっきり。そこで解散が決まりです。そうでなければ、信頼した者同士の愛好会を作るという手もあります。ですが、愛好会は愛好会で、安全である面もありますが『仲間割れ』や『裏切り』などに発展するリスクがあります。だから僕は単独行動をしています。そういう一度きりの約束で別れたけれど、気に入った相手や気に入ったプレイを容認してくれた者と再会したいという趣旨で置かれてる掲示板です」

 なんだか、カナは息苦しくなってきた。秘密のはずの関係が、実際は、そうしてネットという電波で散らばっている。姉の秘密が散らばり始めているのではないかと思うと胸が苦しい。

 そんな便利な世の中が、また秘密を動かそうとしていた。

「当初は知らぬふりをしておけばいいだろうと、放置していたんです。似ているだけで、あの日の僕たちのことだと限ったことでもないだろうし、もしそうでも突き止められないだろう……」

「でも、そこでこの男が何かを察してしまったというのですね」

 金子氏が、無念そうに頷いた。

「本当に申し訳ありません。若気の至りなどという安易な言葉は使いたくありませんが……。自身の信条を破ったと言うことは、結局のところ僕も美月と楽しみたかったということですから。そのしっぺ返しがやってきたんです、きっと」

 だが、過去を嘆いても仕方がない。これからだ。カナが気になるのはそこだ。

「これから、わたしはどうすれば良いのですか。金子さんの考えをお聞かせください」

 カナにも覚悟があることを示すと、金子氏の顔つきが、いつもの冷めたものに戻った。

「僕が調べたこの男の素性は、ほぼ確定していると思ってください。逆に、向こうの男は、美月が倉重観光グループの娘だと勘づいていると思います」

「どうして、それがわかったのですか?」

「依頼の書き込みから以後、一ヶ月経っても音沙汰がない場合は、管理側から書き込みを消される決まりになっています。その取り下げ間際に、彼の足掻きだったのでしょう。『絶対にこのサイトにいると思うけれど、知らぬふりをしてもこっちはわかっている。当てはつけた。近いうちに会いに行く。特に女、親父に迷惑をかけたくなければすぐに名乗れ』と……」

「親父に迷惑……? でもそれでは、ただ父親に性癖を知られたくなければ、名乗れとも聞こえますが」

「それなら、男の僕でもいいわけでしょう。『特に女』がとてもひっかかりました。女の方が握られては困る弱みがあると言いたげで、当時の待ち合わせ場所から、プレイ内容が似通っている点からも僕は危機感を持ちました」

 そして、金子氏はもう一度、その忌まわしい写真をカナに突きつけた。

「敢えて、この男の素性は花南さんにはお伝えしません」

「ど、どうしてですか。教えてくださらないと、こちらも対処の仕様がありません」

「本当は、今回もこんなことはいっさいお伝えせず、これまで通り『僕だけが持っていく秘密』として僕の一存でこの男のことは対処するつもりでした」

「では、どうして、この度はわたしを訪ねてきてくださったのですか」

「美月がもう死んでいるからです」

 ちょっとわからなくて、カナは首を傾げたが、金子氏が重そうにその先を告げた。

「この男は、美月が死んでいることを知りません。美月の素性を知って、でも目的の女がいないと知ったら、それ以上の『旨み』を見つけてしまうことでしょう」

「目的の姉がいなくて、諦めるのではなく、それ以上の旨み?」

「そうです。ご家族の危機です。当時一度会っただけでも『性悪だな』とは感じていました。その性悪なやり方で、美月が悦んでいたのもわかりました。そんな点では『気が合うふたり』だったかもしれません。ただ、美月は正気に戻ると『あの男はいいけど、危険だから二度と会いたくない』と言っていました。ですがこの男が美月の素性を知ったら、もしかすると……お父様の倉重社長や、夫であったお義兄様のところへ脅しに行くと思うんですよ。そんな匂いのある男です。僕が花南さんをお呼びしたのはそのためです。いきなりそんな男が訪ねてきたら動揺するだろうと思って、お知らせしました。ですがなにがあっても知らぬ存ぜぬことと貫き通してください。出来る限り、僕のところで足止めしますから」

 カナは慄然とする。その男が、父や義兄に、姉の秘密を携えて脅しに来たらなにもかもお終いだ。倉重の弱みで、食いつぶされる危険もあれば、父や義兄が心を痛める日々を迎えてしまう。

「いいですか。なにがあっても、知らぬ顔をするのですよ。この男が訪ねてきて、美月のことをネタに追求しても、絶対に間違いだ、知らないことだと押し通してください。このことで脅迫をされたら迷わず弁護士を雇ってください。ですが雇ったとしても、美月の秘密については嘘だ名誉毀損だと隠し通してください。最善の対処をお願いいたします。僕のことも、ストーカーまがいの男だったと、姉はそう言っていたと貫き通してください」

「でも、それでは、金子さんが……」

 こんなに自分を貶めてまで、倉重を守ってくれようとしているのに、彼はただ嫌な男だけで終わってしまう。

 しかし。金子氏が初めて、あの冷酷な目でカナを射ぬいた。

「美月を穢すことが出来るのは僕だけだ」

 その気迫に、カナは硬直し震え上がった。これがもしかすると、彼がひた隠しにしている本性の片鱗で、姉が陶酔した男の目?

「花南さん、これでお別れです。無関係の人間になると、僕と約束してください。お父様、お母様、お義兄様、そして……」

 金子氏がそこでらしくなく、かすかに睫毛を震わせた気がした……。

「甥御さんも、守ってください。お願いします」

 彼はそれだけいうと、卑猥な写真をビジネスバッグに手早く片づけてしまう。

 もしかすると、彼の子かもしれない。そうではないかもしれない。

 カナはなんとなく、見てしまったような気がした。『このような身に生まれてしまった以上、僕は僕の秘密をそつなく守っていく』と割り切ったように生きている彼。だけれどその胸に、義兄とおなじものを持ち続けてきたのかもしれないと――。

 僕が墓場まで持っていきます。

 今回だってカナを呼ばずとも、カナに新たな姉の秘密を明かさずとも、彼ひとりで出来たはず。金子氏がカナに本当に告げたかったのは、墓場に持っていく秘密を共に守り通す確認ではない。

 ――守ってください。甥御さんを。

 カナが呼ばれたのは、このひとことに尽きるのではないかと思った。カナに託したかったのだろう。『父親かもしれない気持ち』を。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 当然、帰りの新幹線では重い気持ちの帰路になる。

 山陽新幹線はトンネルも多く、緑の清々しい景色が現れては、すぐに暗闇に連れ戻される。その繰り返し。

 カナもおなじだった。ぐうっと唸りそうになるほど頭を垂れ、徐々に闇に沈み込む。


 金子氏との別れは、あの部屋だった。もう帰ってください。と冷たく言われた。

 彼から会いたいと訪ねてきたのに、追い出されるような別れだった。でも、カナには金子氏の気持ちがどうしてか通じてしまう。

 二度と会わない覚悟だったのに、会わずにいられないことが起きてしまった。『巻き込みたくない。もう美月は生きていない。だから僕だけでなんとかすればいい。美月の家族にも黙っていれば済むこと』、きっと最初はそう思っていたはず。『僕がなんとかします。でも、そうでなくなった時の心構えをお願いします』――そう言いたいのだろう。それは『航』を守るため。


「覚悟、か」


 重い帰り道。カナはやっと義兄を浮かべることができた。

 そして泣いた。誰の子供か判らない男児を、息子と信じて育ててきた義兄のことを。

 それを見て見ぬふりをしてきた非道い義妹だと、泣いた。

 それでも航は倉重の子。このまま、金子氏と共にカナは罪を背負う覚悟をする。改めて、その覚悟を決める。


「にいさん、義兄さん。ごめんなさい」


 なにも知らない方がいい。そのほうが、きっと幸せ。


 誰かにすがって泣きたい。すがりたい男の人だっている。

 でもすがれない。いちばん抱きしめて欲しい人が、いちばんそれを望んではいけない人だった。


 覚悟しよう。もともと、そう思って、実家を出て行ったのだから。

 この五年。ただ気怠く、ひたすら曖昧だったもどかしい関係でも、望んではいけない人に愛されて幸せだった。

 もうそれだけで。

 カナのカラダの奥に、咲くはずもなかった花を咲かせてくれた。それだけで。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 それから暫く。改めての覚悟を決めたカナは、何事もなかった顔で過ごしていた。

 『ほたる祭』を迎え、義兄と甥っ子と一緒に、いつもどおりの穏やかな休日を楽しんだ。

 ――カナちゃんと一緒に暮らせるかもしれないんだ。楽しみだな!

 まだ無邪気さを残す甥っ子の可愛い声。それを耳にしてまた罪の意識が生まれても、覚悟をしたカナは若叔母の笑顔で家族の時間を大事にした。


 緑溢れる西の京も夏を迎える。盆地というところまで京都とそっくりで、西の京も夏の蒸し暑さはかなりのものだった。

 そこで灼熱の火に向かってガラスを吹くのだから、流れ出る汗の量は計り知れない。うっかり水分補給を忘れないよう、相棒のヒロと声を掛け合って体調管理をする。

「なんだ。一分でもいたくないなここは」

 黒いジャケットを小脇に抱えたスーツ姿の義兄が、工場(こうば)に現れた。

 汗びっしょりでガラスを吹いているカナと、サポートをしているヒロを見て、義兄はげんなりとした顔。そんな自分も一気に汗が噴いたのか、薄いハンカチを片手に首元を拭いている。

「だ、だめだ。悪い。家に避難する。ああ、カナ。俺に構わなくていいからな」

 慣れていない者は、ほんとうに一分だっていられない季節だった。そんな社長を見てヒロが笑ったので、カナも一緒に微笑んでしまった。

「これ、吹き終わったら行ってこいよ」

「いいよ。夕方まで遊ばせておけば。来るたびに社長さんのご機嫌取りなんて、ごめんよ」

「おまえってほんと冷たい女だな。俺とつきあっている時は、もうちょっと素直だったし可愛げがあったぞ。なんか義兄さんのことになると、妙に不機嫌になってさ。俺さあ、おまえと兄貴のもどかしい付き合いを見ているとさ、男として社長が可哀想に見える時があるんだよなあー」

「若かったんでしょ、可愛いわたしってヤツは。いまは微塵もなくて結構。ポンテ、持ってきて」

「はいはい、わかったよ」

 カナが不機嫌な言い方をすると、そこでヒロもいつもやめてくれる。

 吹き竿の先で形成したグラスを切り離すための『くびれ』を作る。底になるのはいまてっぺんになっているところ。そこをパドルで底になる形に整え、ヒロが持ってきた『ポンテ竿』を付ける。

 『ポンテ』とはイタリア語で『橋渡し』という意味。吹き竿から、ポンテ竿へと作成中のガラスが渡るからついた名だと聞く。ポンテ竿に作成中のガラスを接着したら、吹き竿と繋がっている部分、先ほど作っておいた『くびれ』の部分で切り離す。これでポンテ竿への移動が終わる。今度はこの切り離したところがてっぺんになり、グラスなら飲み口になる部分。

 今日は、夏らしくストライプのグラスを作っている。ヒロとデザイン企画をした。

 ストライプは棒状の色ガラスを並べて作る。ヒロと二人で息を合わせ、熱いガラスを細長く伸ばして『棒ガラス』を作成。何色も作る。

 冷えたガラス棒を切り、好きな色をモザイクのように並べる。ここで夏らしい青や緑、黄色などの棒ガラスを並べ、電気炉で過熱。ここで溶解したガラス棒がくっつきあい、一枚のシートのようになる。そのストライプ模様のシートになったガラスを取りだし、熱で柔らかいうちに吹き竿の先にくるりと巻いて、これでグラスの模様になる。

 色合いはヒロと遊びのように選び、図案と設計図を作成。遊び感覚と楽しみながらも、一般受けするような色柄を模索した。青の他に、ピンク系、オレンジ系、緑系と設計してみる。

 夕方になって、冷却用の炉に幾つものグラスを入れ、本日の仕事は終了。

「今度はマーブルにしてみないか」

「マーブルなら秋でもいいんじゃないかな」

「お、いいな。それからさ。こういう棒状のモビールとかもよくねえ?」

 ヒロがさっとスケッチをして、カナに見せた。『うん、夏らしくていいね』とカナも微笑む。

 カナも閃いた。

「いまどきなら、サンキャッチャー風のほうがいいんじゃないの」

 ヒロが描いたスケッチの隣に、カナもさっとスケッチをした。

「おー、売れそう。さっそく社長に企画を出してみようぜ」

「うん。そうだね」

 広島から帰ってきても、カナはそつなく仕事を続けていた。

 何事もなかった顔で生きてゆかねばならない。家族が傷つかないよう……。金子氏に託されたように、守っていかねばならない。その『守る』が、知らないふりで嘘をつきつづけるということ……。

 そこに罪を覚えても、カナはそうして生きてゆく。金子氏と一緒に完全に葬るまで、嘘をつく。その覚悟を決めたばかり。その為なら、非道い嘘も厭わない。

 『お疲れ様』。ヒロと別れ、カナは義兄が待つ母屋に戻ろうとする。

 工場から勝手口へと向かう飛び石を渡っている時、カナは暮れなずむ空をふと見上げた。

 当然だけれど、金子氏とはあれっきり。どうなったのだろう。音沙汰がないということは、いや、あの厭らしい横顔で姉に触っていた男が現れないということは、なんとかなったということなのだろうか。それとも――。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 いい風――。

 工場から、自宅へ戻りリビングに入った途端、その風がカナを迎えてくれる。

 蔓バラが盛りで、窓辺で赤にピンク、そして白色の可憐な小花が夕の風に揺れている。

 緑と花の、微かな匂い。そして夕の優しい風の中、ダイニングテーブルでは、いつもの厳つい顔の義兄さんが仕事と向き合っていた。

 もう薄暗くなってきたというのに、ノートパソコンのモニターの光だけが手元を照らす状態で、とても集中していたようだった。

 広いダイニングテーブルに書類をいっぱい広げて、画面にならぶエクセル表の数字とにらめっこをしている横顔が、やっぱり怖い。眉間に深く皺を寄せて、ああそろそろ息抜きをしたほうがいいというあの顔。

 それでもカナはそっとして、ベッドルームに入った。

 仕事が終わったらまずは、湿った下着とシャツを着替えることにしている。

 汗の匂い。でも少しだけ気休めでつけているトワレの匂いも混ざっている。シャツを脱ぐ時にふわりと香る瞬間、とても癒される。カナの女としてのささやかな楽しみだった。

 インナーにしているタンクトップを脱ごうとしていたら、ドアが開いた。

「終わったのか」

 そっとしておいた義兄だったが、ちゃんとカナの帰宅に気がついていた。

「うん。夏向けのグラスをたくさん作ったから、帰る前に見ていって」

「わかった」

 柔らかいレースカーテンが茜に染まり、ベッドルームも優しく光彩を落としていく。

「冷蔵庫になにかあったかな。義兄さん、お刺身にする? 鰹のタタキとかどう」

 義兄の目の前でも、カナは堂々と着替えられるから、そのままキャミソールを脱ごうとした。

 だが、そのキャミソールをまくり上げたところで、ひやっとしたものがカナの肌に触れた。

「いいな。鰹」

 義兄が傍まで来て、カナの後ろから腰に抱きついていた。

 いい風にあたっていただろう義兄さんの手は冷えていて、工場でほてりっぱなしだったカナの肌には、とても心地よかった。

 いつもなら……。その手を除けて、カナは天の邪鬼になる。『着替えられないでしょう』と義兄を払ってツンとする。生意気な義妹は、そうして天の邪鬼にして、優しく接してくれようとする義兄を無碍にしてきた。

 溺れたらいけないから。義兄さんを期待させたらいけないから。最後の最後に踏みとどまれるところで踏みとどまって『決定的』にはしない。そう、結婚とか、一緒に暮らすとか。とにかく『曖昧に濁して続ける』ということが、これまでカナにとっての最善の方法だった。

 でも。今日は、その心地よい義兄の手に、カナはそっと自分の熱い手を乗せた。

「すぐ、買いに行ってくるからね。待っていて」

「わかった」

 まだ汗は引いていないのに、義兄はパリッとしているワイシャツ姿でカナの腰に腕を回したまま、背中にもぴったりと抱きついてくる。

「義兄さん、シャツが汚れちゃう」

 いつも言うじゃない。工場から上がったばかりのわたしは汗まみれなんだから、義兄さんの綺麗にしているネクタイとかシャツに汗染みがついちゃうって……。でも、彼はいつだって『それでもいい』と言って、カナを抱きしめてくれる。

 今日は素直に、彼の手を受け入れる。天の邪鬼と言われる義妹ではなかった。

「義兄さんの手、とても気持ちいい」

「そうだな。カナの身体は、炉の火でほてっている」

 優しく背中から抱きしめてくれながら、義兄はカナの耳元にキスをしてくれる。それだけでカナは吐息を落とした。

「冷まして、わたしのカラダ。この冷たい手で、冷まして」

 ひんやりとしている彼の手を、カナから肌へと誘う。大きな義兄の手が、カナの手に代わってキャミソールをめくりあげた。

 肌を這う男の手はすぐに、しっとりと汗ばんでいるカナの肌に吸いつく。

 背中から抱きついていた義兄が、強引にカナと向き合うようにしたかと思ったら、そのまま荒っぽくクローゼットに背を押し付けた。

 めくられたキャミソールの下で肌が露わになり、ふんわりとした茜に染まる。そんな中、義兄がゆっくりとカナの肩先にキスをする。

 そこだけ甘やかに痺れ、カナは泣いた。カナの好きな、お兄さんの愛撫。

 手は冷たいのに、男の舌先はねっとりと熱い。結局、カナの頬は熱くほてってしまう。

「さ、冷ましてって、言ったのに……。義兄さんの口、熱いじゃない」

「無茶を言う。冷たいのは手だけだ」

「じゃ、じゃあ……氷を舐めてきて」

 また義兄が『はあ?』と困った顔になる。なにを言い出すかわからない義妹の、奇妙な要求に。

 そんな彼が困った顔をしているのを、カナは悪戯っぽく笑いながら、自分からキャミソールを脱いでベッドへと放る。その後も、自分から服を脱いだ。カーゴパンツのボタンを外して、ショーツと一緒に脱ぎ去って、乳房を隠しているランジェリーも取り去った。

「カナ」

 自分から潔く裸になった義妹を、義兄が熱っぽい眼差しで見下ろしている。

 その裸のまま、彼に抱きついた。ワイシャツ姿の厳つい顔をしている男にカナは、強く抱きつく。

「汗がひいたら、今度は寒くなるの。冷えてくるの……」

 『だから、にいさん。熱くして』――と、今度は逆の要望をする。もう義兄は呆れた顔をしていた。

「ほんとに面白い義妹だな、おまえは」

 彼もいつも通りのカナだと確かめて、カナの頬を包むと、よく知っているキスをしてくれる。

 チュッと優しく唇をついばむキスをして、またチュッと今度はカナの舌先を吸ってくれる。

 ……いつものキスなのに。カナの目に小さな熱い粒がこぼれた。こうしてわたしをずっとずっと慈しんできてくれた、わたしのお兄さん。愛してくれていること、わかっているのに、随分と冷たくしてきた。そしてこれからは……、もっと非道い義妹になる。

「にいさん、お義兄さん。わたし、いいよ」

 裸でカナは、ワイシャツの彼に抱きつく。きつく自分から彼に抱きついて、しがみついた。

 マリンノートの匂いがする彼の胸元も汗ばんでいる。そこに頬を埋めて、すり寄せてカナは言う。

「いいよ。わたし、耀平兄さんと一緒に暮らす」

「カナ、ほんとうか」

「うん。航とお義兄さんと、一緒に暮らしていく」

 言葉ではそう言っておいて、カナの心は彼に懺悔をしている。

 そうだよ、義兄さん。一緒に暮らして、嘘をつき続けるのわたし。大事な真実を隠して、アナタを裏切り続けるのわたし。変な男がアナタと航に近づかないよう、その為ならなんでもする。嘘もつく、裏切りも平気でする。赦してなんて、もう言わない。わたしも金子さんのようにひとりで葬る。

「カナ、やっと……。おまえ。やっと……」

「耀平兄さん、痛い」

 義兄はそのまま裸のカナを抱きしめるだけで、ベッドで睦み合うことなど忘れてしまったみたいだった。

 カナ、カナと、茜が消える部屋で、裸の女をただただ抱きしめてばかりいた。

 夜を報せるカリヨンの鐘が聞こえ、カナはそっと涙を流す。決して、嬉し涙ではなかった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 素直じゃない義妹が、天の邪鬼な義妹が、やっと素直に義兄を愛してくれた一夜。

 義兄は今朝も幸せそうな顔で目覚め、カナを離してくれなかった。厳つい男が優しい顔になる時、カナの心が痛む。それでも『これでいいんだ』と、カナは決めた覚悟を胸に言い聞かせた。

 今度こそ、本当に知られてはいけない秘密だった。

 姉の裏切りは、ひとりの男と快楽を貪ったことではなく、複数の男との裏切りだった。そしてその直後、姉が妊娠。もしかすると義兄は、誰ともわからない男の子供を息子と信じて生きているかもしれない。

 こんな非道い秘密は、決して知られてはいけない。


 義兄さんの傍にいて守ろう。航の傍にいて守ろう。

 偽りの誓いをする罪の重さに恐れていたけれど、それも覚悟が出来た。大嘘つきの義妹と断罪される日がやってきても、この道を行こう。


 


 月に叢雲、花に風。

 よいことには、とかく邪魔が入りやすいもの。


 


 月の姉は幸せな結婚生活の最中に、叢雲に隠されそれっきり。

 そして花の妹も。偽りを秘めていても、愛しい男と暮らすと決めて咲いたその時、


 ――風が吹く。


 


 義兄とのとりとめない愛欲からやっとのことで抜け起き、遅い朝食の準備をしていると、玄関のチャイムが鳴った。

 玄関を開けると、スーツ姿の堅実そうな男性が二人。どちらも知らない男性だった。『どちら様ですか』と尋ねると、彼等は揃ってジャケットの内ポケットから黒い手帳を取りだし、カナに向けて金バッジを提示した。

 刑事だった。

「倉重花南さんですね」

 年配の男性が硬い面持ちで尋ねたことに、カナも素直に頷いた。

 その刑事が、一枚の写真をカナに見せる。カナは顔色を変えそうになったが、必死に堪え平静を装った。

 だが、心臓は激しく脈を打ち始める。その写真に写っていたのは、金子氏だったから。

 でも予想外だった。もし、何かが起きるなら、男が脅迫をしにやってくることばかり予測していたから。どうして警察が?

「金子 忍さんです。十日ほど前に、男に刺されましてね」

「え……」

「意識不明の重体だったのですが、今朝、息を引き取りました」

 カナには無理だった。驚きを隠して、平然とした顔など出来なかった。

「金子さんを、ご存じですね」

 知らないふりをするんだよ。僕とは無関係の……。彼との約束だけが残された。

 もう秘密を共有する人はいない。その秘密のために、カナ以上の重みを背負ってくれていた金子氏がひとりで逝ってしまった。


 涙は嘘をつかなかった。

 姉と彼が一緒に空に上っていく。

 今頃は穢れなきガラスのような愛を誓っている。


「ご存じのようですね。お聞きしたいことがあります」


 

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