7.秘密はいつかばれるもの

 来年までには――。

 甥っ子の航が志望校を決めるまでには、カナの気持ちも決める。

 耀平に、ひとまずそう伝えた。

 彼もいきなり結婚を申し込んだことは良くわかっているだろうから、『それでいい』と受け止め、山陰の実家へと戻っていった。


 


 五度目のチャレンジはうまくいった。形も色合いも思い通りになり、カナも満足した。

 次に義兄が、いや、社長が来た時に見せて、今後どのように扱うのか判断してもらう。


 


 約束していた『切子グラス』の作成に取りかかる。この工房の特徴にしようとしている文様を、店舗がある工房の職人と話し合った。その中の文様の原画を揃え、カナはガラスの表面を削るグラインダーの前で座りっぱなし。

 前回はガラスを吹いてグラスを作るところから、グラインダーで模様を削るまで。すべてカナがひとりでやった。でもそれだとたくさんは作れない。

 それを義兄にいうと、作家ものとして売るものではなく、一般客に手軽に売りたいから、カナが模様をつけたものであるならそれでいいと言ってくれた。なので今回は、吹いて作るグラスの工程はヒロにしてもらうことにした。

 ヒロに色被せ(いろきせ)ガラスをつくってもらう。冷却を終え完成したグラスに色を塗る手法もあるが、こちらは手間をかけ、吹いている段階で透明な吹き玉の上に違う色のガラスを熱い内に被せるという手法でいく。その方が切子にした時の縁の輝きが違う。

 ヒロが仕上げた色被せグラスに、カナが文様を入れるという作業が、数日続いている。


 初夏の風情。新緑に溢れ、風の匂いも葉の匂い。

 義兄が帰って、創作も一段落。カナは生産という作業に没頭していた。

 それでも。夜、ひとりになるともたげる『変化』。

 義兄はなにを思って、カナに『妻から聞いていることはないか。俺が知らない何かを聞いたのではないか?』と言いだしたのか。

 姉の秘密は誰も知らないはず。家族は誰ひとり、そして姉の友人でさえ。もし知っている人間がいるとしたら……。


 


「こんにちは」

 蒸し暑い工場に柔らかな挨拶の声。

 吹き竿を回しているヒロも、グラインダーの前で作業をしていたカナも振り返る。

 そこに濃紺の大島紬を着た『母』がいた。

「お母さん」

 連絡もなしに訪ねてきたので、さすがにカナも驚いて手元を止めてしまう。

「相変わらず、ここは暑いわねえ。貴方達、よくやっていられるわね」

 おっとりした口調がいかにも奥様で、そんな母がまた優雅にレエスのハンカチで額を押さえている。

「奥様。いらっしゃいませ」

 ヒロは系列会社の一員という立場を心得て、カナの母のことをいつも『奥様』と呼ぶ。学生時代はそれでも『お母さん』だったのに。

「ヒロ君。おじゃましますね。そうそう、貴方達、そろそろお昼だろうと思って、松花堂弁当を買ってきたのよ」

「うわ、マジですかっ。ありがとうございます!」

 学生時代、母に懐いていたヒロの顔になると母も嬉しそうだった。

 どうしてかというと。ヒロはカナの元カレだったりする。しかも初めての男。夏休みはよく山陰の実家にヒロも顔を出したりしていたので、母も父も、そう姉も……よく知っていた。

 芸術の感覚も、遊びの感覚も、ヒロとは気が合った。義兄に密かな憧れを抱いていても、それは年下の女の子がよく抱く思慕であるだけだったが、その思いを忘れていられたのも、年相応に『ヒロというカレシ』が出来たから平穏にやり過ごせたともカナは思っている。

 芸大の仲間内でも、ヒロとカナの仲の良さは周知のところで、学部でも良くできたコンビと言われていた。

 でも。別れた。

 簡単な話。学生時代に気があった男と短期間、恋愛関係になっただけ。別れの理由も、若い男女ならよくあるすれ違いで別れた。

 別れた男と女に友情は成立しない。あれは本当だと思う。でも工芸職人である二人には、当てはまらなかった。友情でも何でもない。おなじ道を歩む覚悟をしたから、男と女はもう必要なくなった。

 義兄がガラス工房を開設、カナに製品生産を望んだ時、『相棒にヒロが欲しい』というと、義兄はすぐに彼をスカウトしてきてくれた。ヒロもアルバイトをしながら、細々とガラス制作活動を続けていたので、このスカウトにはすぐ了解してくれた。

 それからカナとヒロというコンビの制作と創作が始まった。

 特にヒロは、姉が亡くなった時、嘆き悲しむカナを広島で支えてくれた。その時はもう別れてはいたけれど……。やはり、あれは友情なのだろうか。なんなのだろうか。

 だからこの五年の間も、ヒロは『倉重家の事情』もよく心得ていてくれ、カナと義兄のこともただただ黙って見守っていくれている。

 元々、屈託のない明るい性格のヒロは、母も気に入っているようで、いまもこうして訪ねてくるとカナの相棒として大事にしてくれる。

「あら。それが耀平さんが言っていた、切子グラスね」

 削り終えたばかりのグラスがひとつ、長机に置いてある。それを母がしげしげと眺めている。

「やっぱり手作業の切子はいいわね。あ、いやね、私ったら。親バカだったかしら」

 娘がつくったものに惚れ惚れするだなんてと言いたいのだろう。母がちょっと恥じたように頬を染めた。

 でもヒロが笑う。

「親バカ抜きでも、このグラス好評で、あっというまに売り切れたそうですよ」

「お母さん。気に入ったものをひとつあげるよ」

「まあ。いいの、カナ」

 母の笑顔がパッと咲いた。

「貴女がつくったガラスは、私の知り合いの奥様方にも評判よ。特にこの帯留めを見た奥様は、こぞって欲しいと言ってくれるわね」

 母のためにつくった帯留めは幾つもある。今日、母が選んでくれた帯留めは、京紫と撫子色がグラデーションになっている山桜のような帯留め。

「娘がつくったものを身につけていると、とっても羨ましがられるの。母親として、いい気分よ」

 母が可愛らしく微笑む。母の顔に雰囲気、姉の美月とそっくりだった。やっぱり母子だなと思う。

「はあ、だめだわ~。ここには長くは居られないわね。お母さんは家の中で涼んでいますね」

「わかった。ひと段落したら行くから」

「ヒロ君。お弁当、一緒に食べましょう」

 だけれどヒロは笑顔で首を振った。

「いえいえ。親子水入らずでどうぞ。天気が良いから、瑠璃光寺(るりこうじ)まで行って、ゆっくりご馳走になります」

 まあ、そんなこといわなくても……と、母はとりあえずそう言ったが、それ以上は勧めたりもしなかった。

 ヒロも感が良い。連絡もなしに母親が訪ねてきたということは、カナにわざわざ言いたいことがあって来たのだと気がついている。

 そしてカナもそう思った。きっとあれだ。航が山口に出てくるようになったらどうするか――。母は可愛い孫のあれこれを案じてやってきたのだと。

 その中には、いままでなんとなく目をつむってきた娘と婿殿の関係についても今回は言及するに違いないと。

 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


「この家は、いい風がはいるわね」

 昼時を少し過ぎた頃、カナはリビングに戻ってきた。

 着物姿の母が、庭へ出る窓辺に立って、季節の風を楽しんでいる。

「あの赤みがかった鉄線(てっせん)の花、素敵ね。紫も植えたのね。シャクヤクも見事に咲いて」

「義兄さんがみつけては植えていくのよ」

 母の足下には、赤と黒の金魚と水草が浮かぶ水鉢もある。それも義兄が突然買ってきて置いたもの。母はそれも涼しげに見つめている。

 すべてが義兄が見つけたものではないが、彼の好みで溢れている。婿養子で思い通りにならないこともあるのだろう。その庭が彼の城みたいに思える時もある。

 その庭を、義母である母親が慈しむように見つめている。

「耀平さんは、趣味がいいのよね。それも、お父さんが気に入ったひとつだったみたいだから」

 今度、母はリビングへと振り返る。

「この家の雰囲気、お母さんも好きよ」

 リビングの隅にあるサイドボードも、母はいつもひと眺めしていく。そこに焼き物や、様々な工芸品に、高価な食器が収納され、展示されているから。

 カナは氷を持ってきて、冷茶をつくっている。クリスタルの切子にした冷茶グラスに注ぐ。これもカナがこの自宅用に、そう……義兄に使ってもらうために制作したもの。冷茶が出来上がって、それを松花堂弁当の四角い箱の横に添える。母を呼び、お昼の席に親子で着く。

 まずは、母が冷茶をひとくち。

「おいしい。貴女、案外、上手に煎れるのね」

「なによ。ちゃんと覚えたんだから」

 優等生だった姉と違い、妹は自由にさせてもらったせいか、風変わりな芸大生として遊びも奔放、まともな女の道は行かずに行く先も不透明な職人になってしまった。

 家事もろくにせずに、工芸に没頭していることは、父も母も『諦めた』とよく言っている。

 すると母は躊躇いもなくさらっと言い放った。

「ほんと、耀平さんには感謝しています。勝手気ままな娘をこんなことが出来るように教育してくれて」

 いきなり義兄との関係に踏み込んできたので、カナは口に含んだばかりの冷茶をいきなりの飲み込んでしまい、咳き込みそうになった。

「別に、耀平義兄さんが『やれ』と言った訳じゃないから」

「あら、そう。うふふ」

 なんなの、その含み笑い。『貴女、お義兄様が大好きで、もともとやらなかったことを頑張ったのねえ』とでも言いたそうだった。

 母が娘の恋心を見透かして、知らない顔。大人達は昔から末娘のカナにこういう顔をする。

 しかし。いい歳の男と女が一軒家で時々会ったり、男が泊まっていくならば、『ただの義兄妹』とは見てはもらえないだろう。血の繋がりもないのだから、その気になれば簡単なもの。

 急に遠い北国で修行をすると実家を出ていってしまったカナを連れ戻し、この家で落ち着いた職人として暮らし始めたことは、両親も安心していたようだった。

 そして義兄が『様子を見てきます』と言いだして、その様子伺いが思った以上に『頻繁』だった時点で、両親も察したと思う。

 一度だけ、母に問われたことがある。『貴女、大丈夫なの。嫌なら嫌といいなさい』と……。

 その時のカナは『わたしは勝手にアナタのものにされて怒っている』という態度を示していたので、母は義兄との関係は無理矢理で娘は傷ついていると案じたようだった。

 これでは義兄は悪者にされてしまうと焦ったものだった。でも、母にも素直になれかったカナが『思いっきりガラスの仕事ができるから、義兄さんには感謝している。とりあえず、ここで頑張る』とだけ伝えると、それだけで母が女の顔で察してくれたのは見事だったというか、敵わないというか。

 父もたまに様子伺いにやってくるがなにも言わない。父も同じ事を言う。ここはいい家だな。落ち着くな。耀平君らしい。趣味がいい――と。そして父は『耀平君の言うことは聞くように』なんて言って帰っていく。

 つまり、両親は耀平義兄の大いなる味方であって、カナさえ良ければと思っている。だけれど、世間体もあり、義兄と義妹が亡き姉をないがしろにするように、すぐに結婚するのはどうかと思っていて、『それならば、しばし様子を見よう』ということにしたのだとカナは思っている。

 実際に、義兄が『義妹宅へ様子伺い』を続けていることは咎められたこともないし、娘のカナに対しても『やめなさい』とも言わない。

 ほんとうにこの五年。両親は見て見ぬふり、放っておいてくれた。

 静かな住宅街に、カリヨンの鐘が響いた。母娘ふたり、松花堂弁当を静かに食していたが、ついに母から口火を切った。

「耀平さんから聞きましたよ。航の高校進学の際、この家で下宿するというお話」

 ああ、やっぱりなあ。この話を娘とひっそり話し合いに来たのだとカナの予測は当たっていた。

「貴女は航がこちらに来ても構わないと言ってくれたそうね」

「地元の高校より、こっちに出せるならその方が良いでしょう。県内トップクラスの公立を狙っているんですってね」

 すると母の表情がおもいっきり笑顔に崩れる。

「そうなのよ、そうなのよ。航ならいけるって担任の先生が言ってくれたの。あの子、耀平さんに似たのねえ。ううん。美月もそうだったもの」

 姉と義兄はそんな経歴の点でも『いいお見合い相手』だったことはカナも知っている。義兄は地元の高校出身だったが、関西の有名大学を卒業している。

「お父さんも、せっかくだから、街の高校に出そうと賛成しているのよ。耀平さんは、ここで寮生活をさせても良いなんて子離れの覚悟を決めているけれど、お母さんはその点は反対よ。寮生活なんてなにがあるかわからないじゃないの。それなら、カナのところから通ったほうが安心でしょう」

「そうね、私も、そう思う……」

 義兄が『一緒に暮らそう』なんて言い出さなければ、もう両手を広げてこの家に甥っ子を迎え入れられるのに。甥っ子のためなら賛成だけれど、それについてくる『しがらみ』がカナを困らせている。そして母はそれを知らない……? それとももう義兄が『俺はこうしたい』という本心を、両親にも伝えてしまっている? そこがわからない。

「耀平さんが早々に、航の話を貴女に持ち出してくれて良かったわ。これで航の進学校をどうするか早めに決められますしね」

 こうして母は、亡き娘の代わりになって、孫を育ててきたんだなと……今更ながら痛感した。

「それでね。カナ……」

 もう半分ほど弁当を食べ終えた母が、そこでひといき、冷茶をすすった。そしてもうひと息ついて、なんだか躊躇うようにして着物の胸の袷のところを何度も撫でている。呼吸を整えているようだった。

 カナも緊張した。あの日、義兄が急に思い切ったことを言いだした時と感じが似ている。まさか、母まで……?

「貴女。もうそろそろ本気で考えなさい。耀平さんと一緒に暮らすこと」

 やっぱり。母もそう来たかと、カナは額を抱えてうなだれそうになる。が、ひたすら箸を動かして、なんともない顔で食べることに専念する。

「カナ。わかっているんですからね」

「……はい。わたしも、わかっていたつもりです」

 貴方達の関係を母は知っています。はい、知られているつもりで、義兄と会っています。という母娘の会話。

「最初はね。貴女の気持ちがわからなかったし、耀平さんもどういうつもりかわからなかったから心配したわよ。でもね。きっと耀平さんは、貴女だと安心するのよ。こんなこと、母親の私が言ってはいけないと控えてきたけれど、貴女と一緒にいる耀平さんは恋愛をしている男の顔よ。美月と結婚した耀平さんは『いつもおりこうさんの旦那さん』の顔しかつくっていなかったもの。まあ、たった三年の結婚生活だったからかもしれないけれど。最初はお兄さんと妹だったかもしれないけれど……」

 長くなりそうだと、カナは話の腰を折る。

「わたしはその妻だった姉さんの妹。同じでしょ。妹を取り込んでおけば、入り婿として、もっと足下が固められるもの」

「花南!」

 ひさしぶりに見た母の怒り顔だった。わかっている。今の言葉は言ってはいけないことだってぐらいカナも重々承知だ。

「他人様は耀平さんのことをそう後ろ指さすようなことも言うでしょうけれど、お父さんとお母さんはそうは思っていません。いまは本当の息子のように思っているのよ」

 この十年、義兄は息子のために義両親と同居してきた。その苦労も、だからこそ得られた『家族の絆』があることもカナはわかっている。

 頑ななカナを見て、母が不可思議な面持ちで首を傾げ黙ってしまう。そして、娘をその奇妙な顔でじっと窺っている。母親のその千里眼のような眼差しは、娘には恐ろしい。

「カナ。貴女、どうしても困る何かがあるの? あるならお母さんにだけは言ってくれない?」

 姉の秘密しか言うことはない。ここで言えるわけがない。

「なにもないって。だから、その一緒に暮らす暮らさないは、航が志望校を決めなくちゃいけない来年までには決めるって、義兄さんにも……」

 カナははっと口元を押さえた。母もハッとした顔で唖然と娘を向かいで見ている。

「あら、あら! そういうことだったの! まあ!」

 もう、母がとんでもなく舞い上がった笑顔を見せる。

 母は知らなかった。そして義兄も親にはまだ伝えていなかった。きっとそうだろうと思っていたのに、あまりにも母から詰め寄ってくるから、ついカナの口から漏らしてしまった。

「……だから。返事は、来年までね」

「まあ~。耀平さんたら! とうとうその気になってくれたのね」

「義兄さんには知らないふりしてあげてよ。義兄さんからは、まだお母さんとお父さんにも、三人で暮らしたいことは伝えていないんでしょう」

「ええ、ええ。そうしますとも。耀平さんから伝えてくれるまで、知らないふりしましょう。ただいつもの落ち着いた様子で、『下宿の話を了解してくれた』と報告してくれただけでね。どうせなら、カナと暮らしたいと言えばいいのにと、もうお母さんもどかしくてもどかしくて。それでね、今日はおせっかいにきたの」

 はあ、母にやられた。……と、カナもがっくり肩を落とした。もうお弁当の味がわからない。

 ちょっと安心した様子の母は、もうご機嫌で甘味でついてきた笹餅の葉を指先で取ろうとしているところ。でも、その手が止まった。

「お母さんもね。もう歳なのよ。カナ」

 嬉しそうに舞い上がっていたのに、急に母はしんみりと、でもちょっと疲れた顔になる。

「娘がよくわからない事故で逝ってしまって、遺された航は跡取り孫だから手放すことも出来なくて。だからって耀平さんひとりの手に子育てをゆだねるのも酷だったから頑張ったわよ」

「そうだね。姉さんとわたし、そして航。お母さん、三人子育てしたことになるのね」

「そうよ。航もしっかりてきて、高校生になる日が見えてきた。ここで、楽にさせてくれない? カナにお願いしたいのよ。私がしてきたことを。いきなり母親になれということじゃないの。航が困っていたら、助けてあげられる叔母さんとして傍にいてあげてと言っているの」

「もちろん、そのつもり。わたしにとっても、航はすごく可愛い甥っ子だもん」

 せっかくの甘味を、母は手に持ったまま頬張ろうとしない。それどころか不安そうな面差しになる。

「お母さんね。耀平さんが急にどこかからお嫁さんをもらってきたりしたら、ものすごく意地悪で嫉妬深い姑になると思うわ。よくわからない女性がいきなり航の母親になるのも嫌。ここまで倉重を支えてくれた耀平さんの妻になって、当たり前の顔をされるのも嫌。耀平さんはもう倉重の人間なの。私の息子なの。たとえ養子縁組を解消して結婚したとしても、耀平さんはもう倉重にはなくてはならない要なの。それを他の知らない人間が急に耀平さんを通じて倉重に近づくことも、絶対に嫌。この歳になってそんなことで思い悩みたくはないわ」

 笹餅を持ったまま、母の険しい視線が庭へ流れた。その情念を露わにした眼差しは、鉄線花に向けられている。お気に入りの婿が植えた花を見て、やっといつもの母の目に戻った。

「お母さん……」

「その点。貴女ならお母さんも安心なの。ね、考えてよ。ちゃんと! もう、ふらふら芸術家さんは許しませんからね。これでも貴女には好きなだけさせてきたつもりよ」

 母が笹餅を頬張る。ああ、美味しいと笑った顔に、カナはなんだか申し訳ない気持ちになっていた。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 秘密はずっとばれなければいい。

 毎日そう思って生きている、暮らしている。

   

 でも。秘密がばれた時はどうすればいいの。

 黙っていたわたしのこと、きっと義兄は『ひどい裏切りだ』と怒って、もうわたしのことなど見たくもなくなるだろう。

 秘密がばれなければ、わたしはアナタの胸に飛び込んで、心から『愛している、にいさん』と言えるよ、言える。言えるのに……。

   

 カナ。彼が言うのよ。『秘密はばれるときがある』て。

 だからたくさんは持っていちゃだめだっていうの。

 ひとつだけにしなさいって。

   

 姉の秘密を、もうひとり知っている人がいる。

 その彼が、カナにも言った。

   

 花南さん。秘密はね、暴かれやすいものなのです。

 秘密と聞くと、知りたいでしょう。わかりますか。


 

 秘密――。

 義兄さんに相談できればいいのに。

 いちばん、相談できない人。

 母にだって言えない。でも『お母さんにはいいなさいよ』といってくれたこと嬉しかった。

 だけど、母にも知られたくない。


 


 母が帰ったその日の夕。

 作業場での制作仕事を終え、薄暗くなった自宅に戻ったカナは、まずリビングの窓を開けた。

「いい風」

 誰もに愛されるこの家の風が、汗をかいた肌に気持ちがよい。

 初夏の候、花と緑に溢れた庭から入ってくる風をかんじながらの夕食にしようと、僅かに残った空の茜を見上げた時だった。

「花南さん」

 びくりとする。窓を開けた時には気がつかなかったのに。いまカナの目の前、緑の垣根のむこうに人がいる。

 くたびれたスーツ姿、しわが目立つワイシャツ。淀んだ目元の冴えない風貌。この薄い暗闇に違和感なく溶け込んでいる存在感のなさそうな男。


「金子、さん?」


もう二度と会わないでしょう。そう僕たちはもう会わない方がよろしいでしょう。花南さん、お世話になりました。

お元気で。金子さん。

さようなら、お元気で。


 十年前、そういって別れた男性。

 彼がまたカナの前に現れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る