3.アナタを困らせて 


 それでも、今夜のカナはなかなか思いとおりに義兄を感じることが出来なかった。

 カリヨンの鐘も聞こえなくなり、西の京は暗闇に沈んで、静けさに落ちていく。

 夜の静寂(しじま)、男の荒い息遣いがカナのカラダにまとわりついても、なかなか思うとおりになってくれない。

 

 あんなに待っていたのに。

 この人が、静かなこの人が、熱っぽく夢中になって、カナを強く奪ってくれる瞬間を待っていたのに。

 身体の奥で脈打つように待ちかまえていた渇望で義兄を思うままにかんじて一瞬で弾け飛べると待ちかまえていたのに。

 

 アレが来ているんだとカナは思った。

 明日、アレがあるから。アレがあると、カナは無性に男が欲しくなる。

 緊張からか、それとも興奮からなのか。

 その為に、義兄が来そうな日の翌日に予定を入れていたほど。

 一ヶ月前からどうもそんなカラダのようで、それを自覚した時、『義兄さんが帰った日に造ろう』と決めていた。

 たまにある。こんな気持ちに駆られる時がある。カナの中にある人間の感覚が全部『男が欲しい』に集中しちゃうなんて、我ながら変態かと貶めたくなる。

 だけれど、それを通り過ぎた時――。

 

   

「どうした、カナ……。なにか不満そうだな」

   

 いつもどおりの二人の夜、指と指を絡ませて。

 

「義兄さん、つまんなくないの」

 

 はあ? という顔をされた。

 

「おまえは、つまんないのか」

「つまんない」

   

 カナの肌にぴったりと乗っていた彼を押しのける。そしてカナはひとりベッドの端に寝転がった。

 でも義兄は慣れたように背中に寄り添ってきて、そっぽを向くカナの顔を覗き込む。

   

「どうしてほしい」

 カナの肩先に義兄がそっと口づける。

 あまのじゃく、俺の義妹は時々あまのじゃくと小さく笑っている。

 して欲しいことがあるのに、ワザと素っ気ないふりをして、男が楽しんでいたものを取り上げるようにして『ねだっているだけ』だって。義兄にはばれている。

「庭の紫陽花の葉に、蝸牛(かたつむり)がいたの。蝸牛がガラスを這っているのを見たことがある?」

「まあ、あるかな」

 それがどうしたともどかしそうに、義兄は無精髭の口元を曲げている。

 ざらつく髭の顎を肩先にこすりつけてくる義兄を、カナは見上げる。

「それして欲しい」

 一瞬、義兄がきょとんとした顔になる。

「わたしもあんなふうに、粘液だらけになりたい」

 彼の表情が硬く強ばった。

 喩えがえげつないとは思っても、カナはそうして煽った男に今夜は壊されたいと欲した。

 ガラスの上を這う蝸牛。下か見ると彼等が身体中にまとっている粘液をぬめぬめと跡を残しながら去っていく。ガラスにキラキラと粘つくそれが、いまや美顔にいいだなんていわれている。それは美しいのか、不快なのか、よくわからない。けれど、紙一重で面白い。

 その粘つきだって、やはり意味があってこの世に遺されているのだと思っている。

 わたしが造ったガラス板を這っていたあの蝸牛のように。美しい粘液でわたしにまとわりついてよ。

「わかった」

 妙な喩えで煽る義妹に臆することなく、義兄が応えてくれる。


 カナから仕掛けておいて、でもカナの望み通りに愛してもらって。

 生意気な義妹の煽りだったのに、カナが望んだことだから、もうカナはあっという間に義兄の思うままに墜ちていく。

 目元が切なく崩れた義兄、そしてカナのくちびるからも熱い吐息。

 やっとほどけた心。欲しいものを一緒に掴んで分け合っている。


 こうして五年。ほかの誰とも関係を持たず、義兄だけ。

 そして義兄も再婚も見合いも考えず、ただ義妹を抱いて五年。

 これもまた夫妻のようで、そうではない。愛人のようで、またちょっと違う。義兄妹が、けだるく続けている関係。

    

 五年前、この一軒家にカナを連れてきた義兄が言った。

 

『抱いていいか』

 

 まるで取引のように。見たことがない顔で、義兄ではない顔で言われた夜――。

 つまり『この一軒家を与えるから、俺に抱かれろ』という意味だと察した。

 そして義兄もそんな口調で。

『これでも女を抱きたくてしようがなくなる時がある。だからって、リスクがある遊びはしたくもないし、倉重家目当てでつきまとわれる女も困る。どの女も信用できない』

 良き夫で良き父親で、良き婿殿である義兄が変貌する。

『その点。カナなら信用できる。いい取引だろう。おまえはパトロンの俺に抱かれていれば気に病むこともない。そのかわり、人を惹きつける作品を作れない、末娘の道楽だと俺が判断した時は、ここに他の作家を呼ぶつもりだ』

 カラダひとつで安泰だと思うなよ。死ぬ気で創作に取り組め。

 工房社長としての強い要望を突きつけながら、その仕事の険しい顔で、義兄はカナに抱きついてきた。

 

 なにが義兄をそう駆り立てたのか、未だによくわからない。

 ただ強引に修業先の小樽から連れ戻されたので、最初は妻を亡くした婿になってしまったから足下を固めるために、義妹というカードを手に入れようとしたのだと疑っていた。

 哀しいのは……。そんな義兄にずっと前から憧れていて、好きだったから。こんなふうに求めて欲しくなかったと、カナの秘めていた恋心が粉々になったこと。

 この時に、素敵な義兄さんは消えた。彼も優しい顔をしなくなった。険しい仕事の男になって、あまり人に心を許さなくなって――。そしてカナも、そんな義兄にはドライに接するべきと思うようになった。

 姉を亡くして五年。義兄は変わってしまった。そしてカナも――。

 穏やかな姉の夫と、歳が離れた自由気ままな義妹。『カナちゃん』と呼んでくれていた義兄はもういない。

 それでも姉が亡くなった頃は、義兄が心配で暫くは実家でお手伝いをしていた。

 独りになった義兄さんが心配で傍にいたくなる。でも義兄さんは『どうして夜中にひとりででかけたのか美月』と、姉を失ってやつれて、寄り添って夫妻で寝ていたのに、妻の外出に気付かなかった夫としての自分を責めていて。それを傍で見ているのも辛かった。

 そんな義兄の傍にいるのが辛いから、ガラス工房で修行生活を始めた。そんなふうに、淡い恋心が大きく化ける前にと封印して。遠い小樽へと、実家から離れたのに。

 呼び戻しにきた義兄の顔つきが変わっていたのも驚きで、そしてキリキリと機敏なビジネスマンになっていて。その冷たくなった姿でカナを連れ戻しにきた。

 『パトロンになる』と思わぬやり方で義兄に望まれて、最初はほんとうに腹立たしくて、彼に素っ気ない態度を示したものだった。

 それがいまでも少しあって……。だから、彼を困らせたい。ちょっとでいいから困らせたい。

 困った顔をさせて、でも『カナ』と顔を覗き込む義兄の……、思い詰めたような真っ直ぐな黒い目を確かめたくて……。


 その目を知ってしまったから。義兄さんを許した。

 いまはもう、恋じゃない。愛している。アナタのこと。

 もう五年。わたしはアナタの妻の代わり。それでもいい。


 


 

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