13: Set a girl to watch all night,


 竜へと姿を変えた徒花は『花』と癒着したなつめを飲み込み飛び立った。

 頭上、どんどんと遠くなる輝く赤をわたしは見つめる。


【ツバキ 何を考えている──】


 なつめのくすんだ灰色の上着が線路の上に残されていた。

 わたしはそれを拾い上げる。指先に重みがかかる。


 フラウはとても怖い顔をしていた。


【キミが言うはずがない 『誰も死なせない』なんて綺麗事 キミが 言うはずがない!】

「……それでも、言わなくちゃいけない。唱えなくちゃいけないんだよフラウ」


 それは夢ではない。希望ですらない。

 歯が溶けそうな甘ったるい綺麗事。

 ──それは呪文だ。


 手足の感覚はぼやけて鈍く、鼓動も脈動も血潮の熱も遠い。

 致命の一撃からあり得ない回復のあと、わたしの身体はわたしではなくなってしまったようだった。

 いや、とっくの昔に変化は始まっていたのだろう。

 すべてを思い出したときから、なつめとの関係を終わらせたときから、りこの問いかけから逃げ出したときから。

 わたしはもう、ずっと。落ちていたのだから。


 足は軽い。

 大きすぎる槍は羽根のよう。

 今ならどこにだって行けそう。

 それはまるで幽霊にでもなったような錯覚で──吐き気がする。


 口元を押さえる。

 わたしが吐くのは綺麗事でなければならない。

 たとえこの身が既に否定していようとも、今はまだ『魔法少女』と言い張らなくてはならない。



「全部黙っててごめんね」


 ……フラウには感謝している。感謝してもしたりない。

 例え彼女がすべての元凶だとしても、わたしはフラウを憎まない。


「ずっと騙しててごめんなさい」


 フラウだけが、ぼたんの心を救ってくれた。

 フラウだけがぼたんの希望を取り戻してくれたのだから。


 ──それでもわたしは。まだ、あなたを欺かなくちゃいけない。


 わたしは槍の先端を、フラウに向けた。



 ◇




『何を落とした?』と、あの日フラウはつばきに問うた。

 落としたのは『恋』だとフラウは思い込んでいた。

 恋するために生まれ、恋のために生かされてきたフラウが見誤るのも無理はない。

 恋と愛こそがフラウのすべてだったのだから。

 つばきはフラウの都合のよい思い違いをずっと、否定しなかった。


 あの日つばきが落としたのは『すべて』だ。

 落としたのはすべてから目を背けてのうのうと生きてきた昨日までの自分だ。

 落としたのは、殺したのは、つばき自身。


 それは概念としては自殺に他ならない。

 変身とはもとより擬似的な自殺であり、存在が為せる最大落下とは即ち『死』であった。

 つばきの力はとうにフラウには制御できないほど大きくなっていた。


 故に、フラウにはつばきの一撃を防ぐことも避けることも叶わない。


【ッ──あ──】


 つばきの槍に貫かれたフラウの腹部から真っ赤な花弁が零れ落ちた。

 こふ、と口からも血色の花弁が溢れる。


【な──に ──を】


 見開いた両眼はつばきを見つめる。

 つばきは感情を微塵も顔に浮かべず、問いかけに答えた。


「あなたはここにいてはいけない」


 ひどく優しい声音。けれど槍はさらに深く食い込んでいく。


「この場にいられる『フラウ』は、ひとりだけだ」


 槍を通しフラウの力が抜き取られていく。


【まさか──まさかッ!】


 フラウはつばきの意図に気が付いた。


 これはそもそもの魔法少女と徒花の関係の話だ。

 倒した徒花には『核』が残る。『花』が植え付けた種であり、人の発した落下の力を蓄えた実だ。

 魔法少女は最後にその核を飲み込み、内へと貯め込んできた。

 己が死を落下に変換するために生まれた徒花。それを生かさず殺さず、魔法少女の力に書き換える。それがフラウとぼたんのとった方法だった。

 それを幾度も繰り返し、魔法少女は強くなる。

 希死念慮を砂糖菓子に変換し駆動する。

 それが魔法少女──否、葉風ぼたんの在り方だった。


 だが徒花の核に蓄積された力はフラウだけが引き出せる。操作できる。

 元が『花』の手の内にあるもの。徒花もまた『花』の端末だ。だからこそ、端末の究極たるフラウならば『核』に干渉できる。一度、実体化を為したように。

 ……そのはずだった。


 ひとつ、先までフラウには知り得なかった事柄があった。

 つばきは一度、最後の徒花フロイラインに宿主として取り込まれているのだ。

 それはフラウを人間にするための手段だった。つばきという人間に、フラウの自我を上書きしフラウを人間へと変えるための。

 アシェの手により、つばきは既にフラウの器として作り替えられてしまっていた。

 フラウはこの世でもっとも『花』に近しい存在であり──そして葉風つばきは、この世でもっともフラウに近しい存在。


 辿り着く答えなど、いくつもない。


【──キミは ボクになり替わるつもりなのか!?】


 否定も肯定も口にせず、彼女は静かに微笑んだ。

 今のつばきならば、今の彼女の魔法ならば己を『フラウ』に偽証できる。


 フラウの像がほつれ出す。

 このフラウは幻影だ。たとえ討たれたとしても真に消えることはない。

 だがあの庭園に連れ戻される。

 この世界との繋がりを断ち切られてしまう。

 そして『花』の足跡までもを見失ってしまう。

 次は何日、何月、何年後、ここに戻れるか分からない。


 ここでおしまい。

 ここで行き止まり。

 ここで振り出し。


 ──そんなの、二年前と何も変わらないではないか。

 こんなところでもう一度、惨めに、無様に、台無しになるなど──許されるはずがない!


 フラウもまたつばきへの侵攻を開始する。

 腹に刺さった槍を消去デリート。残滓は花弁のように散る。

 つばきは動じる気配もなく、逃れたフラウに追撃を送る。

 剣を振る。消去デリート

 矢を射る。消去デリート

 槌を振り下ろす。消去デリート

 斧を擲つ。消去デリート


 両者の間にもう言葉はなかった。

 フラウはつばきの隙を探す。たった一瞬、それだけでいい。

 だがつばきは今や剣のように透徹し、フラウへと食らいついている。

 一瞬の隙すらもなかった。

 フラウは歯を食いしばる。


 ──ないのならば、作るまで。


 なけなしの残存エネルギーを引き出して、フラウは幻影を呼び出した。


「っ……!」


 現れた幻影は、葉風ぼたんの姿をしていた。

 つばきの形の良い眉が醜く歪む

 ぼたんの幻影は笑っているのか泣いているのか怒っているのかも分からない曖昧な、人形のような表情を湛えている。言葉を発するでもなく、あの頃と変わらぬ姿のまま佇んでいる。

 ただ、その眼差しだけがはっきりとつばきに向けられていた。

 何かを糾弾するように。

 ほんの一瞬つばきの四肢が凍り付く。

 ぼたんこそが、ぼたんだけが、彼女の明確な弱点だった。


【すまない】


 フラウが選んだのは言い逃れのしようがない、醜悪な死者への冒涜だ。


【だがッ!】


 友の死すらも踏みにじり、フラウは切り札を切る。

 フラウは小さな手をつばきの胸へと向ける。肉を、骨を透過し、心臓へ手が触れ──光が弾けた。



 光がつばきを飲んだ後。

 つばきの身は線路上から弾き飛ばされ、アスファルトの上を転がる。


「……く、うぁ」


 蹲るつばきは制服姿へと戻っていた。

 変身の強制解除。

 結果の事象だけを見ればそうなるだろう。

 だが、実態はそんな生易しいものではない。

 フラウは残る全霊をもって、つばきの魔法すべて・・・・・・・・・を否定した。


 負荷は双方にとって重い。

 つばきは立ち上がることすらもままならず、フラウは反動で既に半身が消えかかっている。

 フラウはつばきの元へ歩みを進める。

 つばきがフラウに成り代わる。その意味はわかりきっていた。

 フラウの目的は、最初からひとつだ。


【こんな こんなことを──! ボクが いいや──ボタンが願ったとでも!?】


 そんなことをつばきにさせるわけにはいかなかった。

 奪われた力を返して貰わねばならない。そして追うのだ、あの竜を。今度こそは、ひとりきりで。

 夢も希望もなく、落下を繰り返し徒花に近付きすぎてしまったつばきを、人の側に──生ける者に戻さなくてはいけない。

 フラウには義務がある。

 愛した友の妹を、大切な相棒を、今度こそ守れなくてはいけない。

 もう既に、それは叶わなかった。

 それができないのならば、もう二度と魔法少女など選ぶべきではなかった。


「…………」


 うつむくつばきは押し黙り、俯く。

 唇が、震え出す。


「──いいえ。願ったのはわたし。わたしが、願った……!」


 つばきが動いた。

 立ち上がる。弾かれたように。

 次の瞬間凍り付いたのはフラウだった。

 つばきの手に握られているのは酷く冷たい輝きを放つ、小さな銃。

 銃口はフラウの額の真ん中へと。


 それはなつめの作り出した銃だった。上着の中に残されていた一丁。

 つばきが拾い上げ、隠し持っていたそれ。

 攻勢は瞬く間に再逆転する。


【っ────】


 フラウはつばきの魔法を否定した。それは叶った。

 つばきの魔法はフラウが与えたものだったのだから。

 だがなつめの魔法をかき消すことは、フラウにはできない。


 フラウは嘘を、薄暗く腐敗した偽りを得られない。

 彼女が形にできるのは儚く輝く幻想ねがいだけ。

『花』の端末に相応しい致命的で清廉な破滅だけ。

 成り立ちにより純粋無垢であることを強制されているフラウでは、最初から最後まで嘘偽りで出来た魔法少女葉風つばきには敵わない。


「さよならフラウ」


 鋭い眼光。変身は解いたにも関わらずその瞳は煌々と赤く輝いていた。

 なつめの銃は本来幻のはず。変身を解かれたつばきでは幻に触れられない、などという前提は最早崩壊済み。変身に関わらずフェンスをあえなく透過してしまうほどに、つばきの身は既に半分幻と化していた。

 銃口は揺るがない。

 迷う余地などもうどこにもないと言うように。


【だめだ──ツバキ! 嫌だ 死んではいけない これ以上ボクに 失わせないでくれ──!】

「……わたしもね。あなたを死なせるわけにはいかないの」


 ──たとえ、ころしてでも。


 黒い銃声が響いた。



 ◇




 冷たい風が肌を撫でる。


 フラウはわたしの手により消えた。

 彼女はアシェの守った花園その中にいる実体へと意識は戻されているはずだ。

 あそこには、フラウを脅かすものなどいない。


 なつめの銃はあの一撃で灰になって砕け散ってしまった。

 明かりの消えたショーウィンドウに立ち尽くすわたしの姿が映る。

 ぼさぼさの髪に陰鬱な眼、薄汚れた制服。

 胸元、ぼたんのリボンだけが綺麗なまま。



 ──記憶を欠かしたこの二年。わたしはぼたんのことを思わなかった日はない。


 二年、わたしの中でぼたんの最後の姿はあの口論の時で止まっていた。

 誰よりも優しかったぼたんが、その優しさを間違いだと否定したあの時だった。


 わたしはどこで間違えたのだろう。

 過去をやり直せたとしたら、わたしは一体どこからやり直せばいいのだろう。

 答えは出ない。


 分かっている間違いはわたしが逃げたということだけだった。

 理想の姉の幻影を追うばかりで、本物のぼたんに向き合う強さを持てなかった。

 本当のことを知るのが怖くて、なつめに全てを押し付けた。

 フラウに出会う前にぼたんの日記を見つけて、あの時に真実を確かめることだってできたはずなのにわたしは何も思い出せないことを言い訳に逃げ出した。

 怖かった。


 その結果が、今。

 ぼたんは一人で戦い、なつめは一人で飛び去り、わたしもまた、一人きり。


 わたしたちはきっと、同じ間違いを繰り返している。



 死者への償いだなんて生者のエゴだ。

 思いも恨みもなにひとつわたしには託されていない。

 ただ、ぼたんの抱いた願いだけが誰のものにもならないままに遺されている。


 願いは抱いたその人だけのものだ。

 同じ願いを抱くことは出来ない。願いを抱く人間は皆違っているのだから。

 どんなにその願いが似通っていようとも、同じ成り立ちを持ってはおらず同じ感情の元に生じてはいない。

 継ぎたいなどと願った時点でその願いはもう叶わない。


 だけど。

 同じ願いを抱くことはできないけれど、『同じ願いを抱きたい』と願うことはできる。

 そうして手に入れた願いは形を歪め色褪せていようとも確かに元を一としてる。


 かつての願いの形を、色を、覚えて。

 たとえ今この手に握りしめた願いが朽ちて色褪せようとも。

 あの日、あなたの願いが美しかったことには変わりがない。


 だからわたしは。

 ぼたんの願いを肯定し続ける。

 あなたは間違っていなかった、と。

 今度こそわたしの身勝手な思いではなくて、あなたが本当に大切にしたかったことを大切にしたいから。

 全てを諦めたはずのぼたんが、もう一度抱いた希望を捨てるわけにはいかないから。


 わたしにできるのはそれだけだから。


 ──わたしは、魔法少女あなたのねがいを継ぎたい。


 窓に映るわたしの姿が、指先から白く染め上げられていく。

 髪は高くに結われ、眼に痛いほどの白へと変わる。

 ドレスもまた同じ、白。両眼はいっそう血のように赤い。

 手足に絡み付く黒い茨が鎖のように何故だがずしりと重たいような、気がした。


 抜き取った『フラウ』の構成情報がわたしを上書きしていく。

 姿形は魔法少女のまま『フラウ』に染まる。

 それはメッキのような危うい偽証。

 わたしでは、本物にはなれない。


 それでいい。

 それで十分。


 わたしは空を見上げる。

 丸い月は雲に隠れてしまった。小さな星が雲の切れ間からか細く光を零す。


「……行かなくちゃ」


 時はいつだって、待ってはくれない。



 ◇





 

『ね、わたしたち。おしまいにしましょうか』



 あの日の記憶が流れ出す。

 フラウに出会い魔法少女を継ぎ記憶を取り戻して、それから。

 幾度となく逢瀬を重ねたあの博物館で。海の底のように静かな暗い部屋で。

 二年ぶりになつめと顔を合わせたわたしはそう告げた。


 かつて病室で、わたしはなつめに願ってしまった。

『終わらせたくない』と。

 その願いを、終わらせる時が来た。


「教えて。確かめさせて。なにもかも」


 なつめはくしゃりと不格好な泣き笑いの表情を作る。


「……思い出したんだね」


 ああ、彼はこんなにも人間的な表情をするひとだっただろうか。

 彼はもっと凪のように静かなひとじゃなかっただろうか。

 皮肉なものだ。もし彼を変えたものがあるとすれば、それはわたしと彼の犯した罪に他ならない。


「徒花を生み出しているのはあなた?」

「そうだ」

「それはフラウを救うため?」

「そうだ」

「他に手は、ないんだね」

「……うん」


 そしてわたしたちは言葉を失う。

 水面のように揺れるワンピースの裾。重たい瞬き。空調機の吐き出すぬるい風と浅い呼吸。動くものは今それだけ。


「ぼくを責めないのか」

「そんなことできるわけがないじゃない」


 わたしはなにもかもを忘れて、なつめにすべてを押しつけた。

 なつめの選択がどれほど愚かしいものだとしても、その選択をさせてしまったのはわたしなのだから。


「あなたは間違っている。でも、その間違いはわたしのものでもあるんだよ」


 それは決して『ひとりで背負わないで』なんて綺麗事を意味しない。

 ただ純然たる認識のひとつとしてここにあるだけ。

 あるのはただ、間違いだけ。


 なつめが声を絞り出す。


「こんなの、贖罪にもならない。わかっている。わかっているんだ」


 なつめは謝罪を口にしなかった。

 謝罪すら自身に許してはいなかった。それが彼なりのけじめ。間違いを押し通す覚悟の現れ。わかっている。わたしも、そうだから。

 わたしは黙って頷いた。


 纏う空気は穏やかで、寂しげで、今にもいなくなってしまいそうに錯覚する。

 なつめは何も変わっていなかった。

 二年前となにひとつ。


 ──二年、経ったのに。

 あの長い長い二年で。

 十四、十五と歳を重ねて。

 少しも変わっていないなんてことはありえないのに!


 わたしはそっとなつめに近づき、震える手で頬に触れた。

 なつめは逃げなかった。すべてを諦めるように目を瞑る。

 逃げないなつめをそれでも逃がさぬように、わたしは強く抱き寄せる。

 ──なつめの身体は、氷のように冷たかった。


 その心臓はとっくに動いていなかった。

 アシェの代わりを果たす、その対価。彼はとっくに落ちてしんでいた。

 今はもう『花』だけがかろうじて彼をこの地に留めている。


 濁った瞳と見つめ合う。


「……ばか」

「……うん」


 もう手遅れなのだ。

 もう、わたしたちは戻れない。


 なつめがぼたんを死に導き、わたしがぼたんにとどめを刺した。

 わたしのためになつめはアシェを死なせた。

 その報いは、たとえ死んでも為さなければいけない。

 間違いは致命的にわたしたちの関係に食い込んで、間違いをやり直せない、死者が蘇らないという残酷な現実が立ちはだかる限り修復はもう不可能だ。

 明白な罪からは目を背けることすら許されない。


 だが二年。

 二年もの長い月日、わたしは真実から目を背け続けた。

 膨れあがった負債は肩に重くのしかかる。

 涙一滴流してはいけない。

 これは、わたしの罪だ。


 声が枯れるその前に、絡めた腕を解く。


「さよなら、なつめ。次に会うときは敵同士だね」


 さあ、最後の逢瀬デートを終わらせよう。



「わたしがあなたを、止めてあげる」





 思い出が落ちる。

 落ちて、消えていく。




 ◇




 ──あの日の彼女の言葉が、耳にこびりついている。


 夜空の中を竜は飛ぶ。

 眼下の街は遠く、暗い海が光を飲み込むように広がっている。もう戻れない景色を振り切るように彼はさらに高度を上げた。

 灯台のサーチライトも竜を捉えることはない。

 もう彼を見つけられる人はいない。

 まばらな雲を突き抜ける。

 魔法少女では追っては来れない。彼女たちはけっして、飛べないはずだから。


『花』は微塵もなつめを拒む様子を見せなかった。

 粛々と彼の行く末を見守るかのように、彼の破滅を見届けるかのように、沈黙を貫いている。

『花』──ファム・ファタールはただ、あまねく滅びを愛するのみ。

 たとえその末に『花』自身が滅びることになるとしてもその愛は変わらない。

 彼女自身が人に、運命さだめを与えることはない。

 選ぶことができるのはいつだって、人間だけなのだから。


 竜は『外』を目指し飛び続ける。

 宇宙空間へ出ようというのではない。世界を越えるという魔法を為すには空を越える必要があった。

 高く飛ばなければ、落ちることは──魔法を使うことはできない。


 目指すは外の世界。

『花』が外世界から到来したものだというのならば。『花』が滅びを司るように、そこには『竜殺し』を司る何者かがどこかにはいるはずだ。

 竜を殺す英雄、古来より親しまれた物語はこの現代においては枯れてしまった。絵空事を具現化するリソースは文明の光に照らし出された世界に最早ない。

 この世界は夢物語を許さず、だからこそ夢物語に牙を剥かれたとき、身を守る手段を持ち合わせていない。

 この世界は『花』には滅ぼしやすすぎる。


『花』を内包したこの竜の身ではこの世界に存在し続けるだけでも悪影響を及ぼしてしまいかねない。

 竜はく。さらに高く、対流圏を突き抜け、さらにその向こうへと早く向かわねば。

 そのとき、突然白く輝く網状の光が黒天に張り巡らされた。

 光の網は竜の行く手を塞ぐ。

 白い茨の網。目は粗い。だが通り抜けることはできなかった。


「天網恢々疎にして漏らさず。この網は、悪竜あなたには通れない。そしてわたしにも」


 聞き慣れた声がすぐ側でする。

 目の端にひときわ強く輝く純白を捉える。

 その白は少女の形をしていた。

 空を踏みしめて立つつばきがそこにいた。


 その姿は変わり果てていた。

 それは美しかった。

 この世のものとは思えないほどに。


 つばきは真っ直ぐに、赤く染まった瞳を向ける。


「約束を果たしに来た」

【そんな約束 受け入れた覚えはない】

「そう、だね。わたしも……あの日のことはもう思い出せない。それでも、果たさなくちゃいけないから」


 目を伏せる彼女の言葉の意味がわからない。


 追いかけてくるのはわかっていた。

 叫びだしたい思いを彼は堪える。

 望んだのは『竜を討つ者』だ。

 それが彼女であるという結末など冗談でも笑えない。それでは何の意味もない。

 だが否定する資格もないのだ。互いが互いに、そうすると決めた以上は。


 言葉なんかじゃ止まれない。そんなことはもう、わかりきっているから。


【行かせてもらう】

「いいえ。わたしが、あなたを止めてみせる!」





 口を噤むと同時。

 魔法少女は槍を振るう。

 ──わたしは、わたしにできることしかできない。

『花』に干渉するには動きを止めねばならない。竜の力を削ぐ、やり方は今までと何も変わらない。力尽くで打ち倒す。それだけだ。


 竜は攻撃を予測していたかのように身を僅かに引くのみ。

 鋭い先端はあえなく逸れる。柄の端に結ばれたリボンがたなびき、白く輝く軌跡が残った。

 竜の反撃はない。


 彼にはつばきを倒せない。

 可能不可能ではない。つばきを傷つけることを、彼は己に許さない。

 先の線路上の対峙での攻撃も、本来傷つく筈はないものだった。

 つばきが既に魔法少女として壊れてさえいなければ。

 壊れた魔法少女にはあらゆる攻撃は透過できず、そしてあらゆる攻撃も意味をなさない。

 既に死んだ者がもう二度と死ぬことはないように。


 だが竜には、『花』を内包してしまった身にはいかな魔法少女であっても踏みにじることは容易い。二年前の竜──フロイラインが葉風ぼたんを死に至らしめたように。


 彼にできるのはただ逃げ回ることだけだった。

 それで事足りる。


 つばきの力はフラウが貯め込んだ徒花の核を元にしている。

 彼女は今、『フラウ』としての権限と『魔法少女』としての可能性の両方を持ち合わせている。

 だがその白く染まった姿は偽証にすぎない。世界を、そして『花』を騙すのには限度がある。メッキが剥がれるのは時間の問題だ。

 それまで、天の網が消えるまで耐えればいい。

 本物のフラウですらも世界を越えるには多大な熱量を要し、幻影を送ることしかできないのだから。たとえ『フラウ』を手に入れようとも、つばきは世界の外まで追っては行けない。


「そんなこと、分かってる!」


 彼我には圧倒的な戦力差。彼女にはあまりにも限られたリソース。

 だがつばきは一切ひるまない。むしろ彼女は加速する。

 遠慮躊躇の類いは最初から存在しない。その段階は既に終えている。そんな感傷は、とっくに切り捨てた。


 古今東西の伝承に比べればあまりに小さい竜は、しかし己よりもさらに小さい魔法少女の姿を見失う。暗い空の中で輝く白を再度視界に捉えた時には、その刃は目前まで迫っていた。


 赤い鱗の肌を白い刃が裂く。血の代わりに黒く濁った滴が飛び散る。

 彼らは幻影、硬度は概念上のものにすぎない。

『花』の愛娘フラウを騙る魔法少女と『花』を飲んだ悪竜。

 概念の強度としてそこに越えられないほどの分厚い壁はない。

 攻撃は、通る。


 竜はおもむろに黒炎を吐いた。

 間合いはつばきが避けるには近すぎ、時間は受け止めるには十分。

 火を受け止めた武器は炭と消え、解けたリボンが輝きながらあえなく散った。


 即座、つばきは距離を取り次の槍を作り出す。

 そのときにはもう、竜に付けられた傷は跡形もなく消えていた。





 淡くも眩しい月光が降り注ぐ。あるのは沈黙と静寂。

 呼吸すらも止め、見つめ合う。


 互いに「無駄だ」とは言わなかった。

 無駄なことなんてひとつも認められなかった。

 無駄にしてはいけないことだけが、遺されている。


「……続けよう。わたしの答えとあなたの答え」

【──残るのはひとつだけだ】


 止まった時は動き出す。


 つばきの両手には飾り気のない短槍。端のリボンすらもなくした見た目は杭のようですらある。

 光の槍を振るうたび、それは黒く焦げ付き、灰に変わり、崩れ落ちる。

 竜は呪った。彼女の『武器』を朽ちさせる呪いだった。


 惜しげも無く次々と両手に新たな槍を持ち替えて、魔法少女は回り回る。

 踊るように。

 高度七千メートルの夜風を素知らぬように透過して、白く膨らんだドレスの裾が軽やかに翻る。大気も、温度も、関係が無い。

 ここに在るのは終わってしまった二人だけ。


 宙を泳ぐ竜の眼差しは水底のような静けさを湛え、彼女をその眼に映す。

 つばきはまたも壊れた短槍を捨てた。

 そして時間と熱量を込め、再度大きな槍を作り出す。最初に構えていたものよりも更に長く、眼を焼くほどの輝きを放っていた。端の長いリボンが左右へ広がる。


 両手に柄を堅く握りしめ、そして魔法少女は飛んだ。

 放たれた渾身の一撃は、しかし竜の振り撒いた呪いに食いつぶされた。

 黒い染みが伝播する。砕かれていく。腐り落ちていく。


【──もう いいだろう】


 これで終わったと、そう思われた。



 足りない。こんな、ちっぽけな魔法では足りない。届かない。

 ならば対価を。

 支払え。



〈それは放課後の静けさに満ちた教室だった。二人きりの教室には寂しげな夕日が差し込んでいた〉


『きみがすきだ』


〈記憶が零れ落ちる。落ちて、消えていく〉



 そしてその手に、熱を得る。

 まだ、終われない。


 低く、魔法少女は呪文を唱える。


「──女の子Whatってare何でlittleできてgirlsいると思うmade of ?


 その呪文は古い歌だ。

 無邪気に無垢に、少女の構成成分を問いかける。

 魔法少女を形作るのがさとう希望スパイスと素敵な何もかもだというのなら。


「──女の子Whatだったareものがyoung何でwomenできているmadeと思うof ?!?」


 魔法少女の成れの果てを形作るのは、リボンとレースと甘いかんばせ──それは何よりも脆く、けっして『武器』足り得ない。

 だが時としてそれは鋼鉄よりも硬い武装。


 槍は砕けた。跡形もなく、腐り落ちた。

 だがその柄に結ばれた白いリボン・・・は解けるのみで、未だ光を失わない。

 彼の呪いが砕いたのは『武器』だけ。

 武器足り得ない彼女の構成成分は砕けない。

 槍から解けた・・・・・・リボンが・・・・、命もつようにのたうった。


 リボンは長い光の帯へ、そして竜の身を拘束する。

 翼は動かせずとも墜落することはない。

 竜はその場に縫い止められた。



〈何度も出会った始まりの場所で、薄暗く埃っぽいあの場所で、何度も約束を結んだ〉


『明日もここで、きみを待っているよ』


〈記憶が零れ落ちる〉



 つばきは次の槍を作りだし、しかし次撃の前に竜は拘束を引きちぎる。

 その拘束が、概念として彼女と同等の強度を誇るとしても。竜は魔法少女すらもを殺しうる上位の概念だ。

 一本のリボンはばらばらの端切れとなって宙を舞う。



〈眩しさを刻み付けられた完璧な夏の日。延々と続いていく道を二人並んで、影を追いかけた〉


『このままきみと、どこまでも行ける気がする』


〈零れ落ちる〉



 つばきは眉ひとつ動かさなかった。即座、手にした槍は弓へと変換。

 だがその右手には矢を持っていない。

 弓を番えぬまま、弦を引く。

 竜の周囲、散らばる引き千切られたリボンの破片がすべて矢へと姿を変えた。



〈真っ白な病室で、全てを嘘だと思いたかったあの時に。彼は表情を押し殺していた。声にならない声を聞いた〉


『もう二度ときみには会えない』


〈消えていく〉



 竜に光が、降り注ぐ。

 矢ひとつひとつが竜の身体を貫いていく。

 抵抗はなかった。

 不自然に。


 ──まさか。


 それに気付いたときにはもう遅い。

 竜の赤い眼光が魔法少女の後ろを、天を射貫く。

 本命の大技、魔法少女が消耗したその隙を狙い、竜は行く手を遮る天網へと攻撃を仕掛けた。網は破れた。

 道は開かれる。


 ──いけない!


 行かせてはならない。行かせるわけにはいかないのだ。

 つばきは加速する。

 竜の行く手を遮るものはない。だが矢を真正面から受けた彼が今消耗していることに変わりはない。

 今ならば、手が届く!


 肌を透過し竜の中へ『花』へとつばきは手を伸ばす。

 彼女が『フラウ』でいられるうちに。


【だめだよつばき それ以上は だめだ】


 焼け付くような拒絶が呪詛となり、あと一歩というところでつばきは止まる。

『花』に触れられない。彼は、防いでしまった。防げてしまった。

 竜は炎を吹く。つばきの魔法を、『フラウ』を騙る彼女の偽証を焼くために。

 動けぬつばきはその火を浴びた。

 吹き飛ばされ、墜落する。

 白い衣装は元の赤へと変わり始めていた。


〈■■■。■■■■■〉


 彼の名前が思い出せない。彼の声が思い出せない。彼の顔が思い出せない。

 彼に放つ魔法に変えられるのは、彼の記憶だけ。記憶の中の彼だけだ。

 捧げる記憶がもう、ない。



【きみは手遅れなんかじゃない まだやり直せる だから──来ちゃだめだ】


 そして彼は己の影を切り離す。

 竜の影が落ちる彼女を拾い上げ、飛んでいく。彼とは逆方向に。

 例えどれほど『人』から遠ざかろうとも、魔法少女になるのをやめればいずれ彼女は正しく『人』へと戻っていく。物事はあるべき形へと戻ろうとするものだ。


 このままゆっくりと落ちていけば、その先はいつもと変わりない日常がつばきを迎え入れる。なつめはこの世界から消え、見知らぬ多くの誰かを傷つけて、望み通り報いのように殺される。

 それだけだ。

 何が欠けても、日常は崩れない。

 どれほど大切なものをなくしても、世界は正しく回り続ける。


「それじゃあ、意味がない……!」


 魔法少女を、継いだのに。

 たとえすべてが手遅れだとしても。

 ──手遅れのまま終わらせないと、誓ったのに!


 彼は遠ざかる。

 結んだ髪は解けてしまった。

『フラウ』の偽証どころか、魔法少女の変身すらも維持できそうになかった。

 もう飛べない。動くことすらもままならない。

 限界だった。

 それでも、手を伸ばす。

 諦めなど、絶対に、許されない。

 まだ足りないというのなら。

 何を落とせばいい?

 どこまで落ちればいい?


 つばきは探す。

 どこかに、なにか、方法が、あるはずだ。




 いつの間にか掌の中にぼたんのリボンが握られていた。

 それはぼたんの『落下』の象徴だった。

 彼女がかつて学び舎で失った夢と希望の残骸だった。そしてそれは何よりも、リボン・・・だった。

 触媒としては申し分になく、願いをかけるには十分なほどの熱量が、そこには遺されていた。

 じっと掌を見つめる。


 ──地獄まで落ちたなら、どれだけの魔法が手に入る?


 もう、ぼたんあなたに願う資格はないけれど。

 もしも神が、悪魔が、いるのなら。

 わたしの願いを聞き届けるだれかがいるのなら。

 わたしは永遠に地獄の最下層で、死におち続けたって構わない。


 ──どうかその魔法を今、この手に。


 願いは聞き届けられる。

 血が通うように力が流れ込む。

 今度こそ、手は届く。



 竜の影のその背で、再び白く染まった指先をつばきは天へと突き上げる。

 夢などなかった。

 希望などなくしていた。


 夢がないというのなら、悪夢でも白昼夢でもなんでも見ればいい。

 希望が抱けないというのなら、誰かに託せばいい。残せばいい。

『夢も希望もない』なんてもう言わない。


 だから誰が何と言おうとも──


「──わたしは、魔法少女なんだッ!!」


 魔法が、天上からいかずちのように降る槍が、竜を撃ち抜いた。





 竜は墜落する。

 つばきを乗せた竜の影もまた、掻き消えた。

 二人で海へと落ちていく。

 月の光が僅かに青く水中を照らす中、つばきは言うことを聞かない身体に鞭打ち、沈みゆく竜の元へ、なつめの元へと向かう。


 これが最後の機会。


「……これすらも、あなたの掌の上だとしても。わたしは、ううん。わたしたち・・・・・は、あなたなんかには負けないから」


 互いを見ることができるのは互いだけ。

 彼らの世界には今ふたりだけであり、ここにあるのは二人だけの世界だ。


 もう彼が誰なのだかもわからない。わからないけれど、忘れない。忘れたとしても失いきれるはずがない。

 大切なことは全部、消えたりなんかしない。


 つばきは、『花』と同調する。


 ──そして、世界が凍り始めた。





 フラウは言った。

 自分ならば、『花』を殺せると。

 己と道連れの存在否定。破滅をもって破滅を討つ。もっとも冴えた、たったひとつのやり方。そう、フラウは信じていた。

 だがつばきは知っている。器として作り替えられた身でフラウとの同調を繰り返し、近付きすぎた彼女は気付いている。

『フラウ』ならば、殺す以外の選択も叶うのだと。


 フラウの願いの結晶、魔法少女の本領は生かすことでも殺すことでもない。


『ずっと幸せな今が続けばいい』


 そんな無垢な願いこそがフラウの本質、本懐。

 呪いの花ファム・ファタールが司る愛が破滅だというのならば、フラウが司る愛は停滞だった。


 ならば選ぶべきはその停滞。


『時を止め、今を凍らせる』


 それこそが、つばきの選ぶ答えだった。


 フラウは、アシェは、なつめは言う。『他に手はない』と。

 だがそれを認めない者がいた。

 それはぼたんであり、受け継いだつばきだ。


 他に手はないというのなら、今はまだそれが見つけられないというのなら。

 見つかるまで探せばいい。

 時間がないというのなら、時は待ってはくれないというのなら。

 最善の結末を導くことができるようになるその日まで、今ここで凍結させる。

 その日まで決して、何も滅ぼさせない。


 可能性という名の『希望』が残る限り。

『夢』は消して、終わらない。



「悪くない、でしょ?」


 そしてつばきは、甘く微笑む。

 可視化された停滞は氷となって次第、二人を包んでゆく。

 作用は『花』を起点に。抗うことは誰にもできない。


【ああ なんで きみは ばかだ──!】


 彼女が選んだのは報われる保証などない時間稼ぎ。すべてが水泡と化す可能性すらも多分に含んだ不合理な選択。

 それは輝かしい理想論ですらなく、まるで結末を認めない子供の駄々。


「うん。わたしは、あなたとおんなじ、とびっきりのばかなんだよ」


 つばきはそう、嬉しそうに笑う。だからもう、彼は何も言えなかった。


 たったひとりで暗いところへなんて行かせない。

 もうこれ以上、誰も死なせたりしない。

 最善の結末はとうの昔に潰えた。だからこそ、残されたものを諦めるわけにはいかない。

 なつめが生きることを諦めるというのなら、つばきは、死ぬことすらも諦めてみせる。


【ほんとうに ほんとうに──どうかしてるよ】


 蜥蜴の瞳になつめらしい色が浮かぶ。諦めのような、呆れのような、優しい微苦笑の色。

 つばきの小さな我儘を何度だって受け止めた色。

 その色すらも、褪せたように凍り付く。


 それは限りなく永遠に近い眠りとなるかもしれない。

 なにひとつとして、彼らの目覚めを保証しない。

 鱗に触れるほど肌は裂け、流れ出る血すらも凍り付く。


 そして二人、暗く静かな海の底へと沈んでいく。

 まぶたは重く上がらない。

 もう指先一本動かなかった。

 交わせる言葉も、これが最後。


【──もう 遅いかな】 

「……ううん。ねえ、全部終わったら──」


 月の光はもうとっくに届かないところまで落ちていた。

 沈みきって時間が止まって、世界に二人きり。

『死んでもいいわ』なんて今は言えないけれど。


 永い永い、眠りにつく。

 未来に希望を託して、幸せな夢を見る。






 ◇







「ね、はやく。こっちだよ」


 弾む足取りで先を行く少女が後ろの少年を呼ぶ。


 夏休みの終わり、祭りの喧噪から離れた夜の公園。

 昼間とは雰囲気のがらりと変わった景色の中、湿った夜風に吹かれながら少女はくすくすと笑う。いまからとびきりのいたずらをするみたいに。


 それは博物館そばの高台の公園で、遠くで打ち上がる花火を眺めた帰り道のことだった。


『そういえば、線香花火をしたことがない』


 と少年が呟いた。なんてことのない、ふと思い出しただけのことだった。

 だがそれを聞いた少女が黙ってはいなかった。


『じゃあ今からしようよ』




 二人でぼんやりと白く明るいコンビニに駆け込んで、買ったのは少しの線香花火とライター、缶ジュースがひとつ。

 本当にコンビニに売っているとは思わなかった、と少年が言えば少女は得意げに笑った。


 急ぐことなどなにもないのに足をはやらせ公園に戻る。

 ジュースを飲み干し、水を入れた空き缶をバケツ代わりに設置して、不慣れなライターに手間取って、水を零して何本か駄目にして、結局点いたのはほんの少しだけ。


 細い花火の先に火はゆるやかに灯り、ぱちぱちと火花を散らす。

 押し黙り、息すらも殺して、か弱い光に見入る。

 先の打ち上げ花火とは比べものにならない素朴さと頼りなさ。

 目を離せばすぐさまに消えてしまいそうで瞬きすらも惜しくなる。

 橙色の火が落ちて消えるまで。繰り返し。二人で静かに見守っていた。



「……終わっちゃったね」


 無感動に少年が言う。

 少女はじっとその目を見ていた。


「また今度、やればいいんだよ」

「夏ももう終わるけど」

「来年の夏があるじゃない」

「あ、そうか……」


 少年が言う。


「つばきはすごいね。来年のこととか、ぼくじゃ考えつかなかった」


 はっきりと聞こえているはずなのに、夜闇に溶けて消えてしまいそうな声だった。

 少女は二、三度不自然な瞬きを繰り返した。そうして、目を離しても目の前の少年がいなくならないことを確かめるように。

 そして小さく決意をする。


「わたし、来年は浴衣着てくる。綿飴も次こそは買いに行こう。線香花火だけじゃなくって吹き出し花火も綺麗なんだよ」


 身体は前にのめる。元来引っ込み思案な少女には勢いに任せなければ言えない。


「わたし、来年も■■■と一緒に花火、やりたいな……?」


 途中で何か気恥ずかしさに襲われたのか、語尾はおそるおそるといったふうに弱まっていた。


「いいよ」

「ほんと!?」

「うん、約束する。ぼくもつばきと一緒がいい」


 少女は顔を背けたくなるのをぐっとこらえる。今の自分がなんだか変な顔をしてしまっているような心配に襲われたけれど、夜だから。

 少年は気付かなかったのか気付かないふりをしていたのか、なんでもないように続ける。


「こんな楽しみな約束も初めてだ」


 ほんの一瞬、確かに笑った。

 顔を背けていなくてよかったと少女は思った。見逃してしまわないでよかったと。




「あ……」


 遠くでドン、と低く響く音がした。空にぱっと光が上がる。

 打ち上げ花火は終わったのではなく、止まっていただけ。

 先までの沈黙は終わらせるための準備だったのだとようやく知る。


 花火大会のフィナーレが始まる。

 眩しいまでの金色が夜空に絶え間なく打ち上がる。

 高台の公園からは遠く、風が煙を広げて景色を遮っているのに。

 そんなことが些末に思えるほどの鮮やかな光だった。


 少女は思う。

 こんなにも賑やかで綺麗なのに。

 どうして胸が苦しくなるのだろう。

 打ち上げ花火も線香花火も、同じだ。

 ずっと見ていたくなるほどに綺麗で、終わりは怖いくらいに悲しくて寂しい。



「つばき」


 泣き出しそうな顔をしていた少女に、少年はそっと声をかける。


「行こうか」

「うん」


 暗い夜道を転ばないよう手を繋いで、二人で坂を下って行く。


 十四歳の夏は終わる。

 同じ夏はもう二度と来ない。

 寂しいのは、悲しいのは全部嘘だ。

 だってこの時間はすべて、嘘なんかじゃなかったのだから。


 

 ◇




 ──ごめんね、フラウ。

 ──わたしは。わたしはね。


 ──あなたの憎んだ恋だけは、どうしたって落とせなかったの。

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