9: Sugar and spice will not stay.


【きみは誰だ】


 赤い瞳にだけ怯えを浮かべてフラウはなつめと対峙する。

 わたしとなつめ。その真ん中に、フラウ。

 互いが互いに手の届かない距離にいる。

 なつめはいつもと何も変わらない無感動な表情で一礼した。


「はじめまして、フラウ・アシェ。貴女のことはより伺っておりました」


 彼、を指すのが誰かを理解したフラウの背中が煮えたぎった。


【おまえはアシェのなんだ アシェはどこにいる 答えろ!】


 わたしは思う。フラウはか弱くなんかない。フラウだけがそれを知らないのだろう。

 わたしは心底、彼女のことを強いと思うのだ。一寸の躊躇もなく真実を求められる、フラウのことを。


 わたしはじっとなつめを見つめている。なつめが、フラウから目を逸らさないことを確かめ続けている。


「ぼくがアシェのなんだったかは、分からない。でも、ぼくにとって彼は『父親』でした。

 そして彼はもう、ここにはいません」


 あなたはいつもそうだった。淡々と、あることをただあるように。まるで心なんてないかのように言ってみせる。


「彼は、亡くなりました。二年前に」


 フラウの望んだ答えをなつめは吐き出す。

 わたしには決して言えなかった答えを。


「お姉ちゃんと……ぼたんと一緒に、ね」


 そしてわたしたちは、その場にいた・・・・・・

 それを聞いたフラウはもう、身動ぎひとつしなかった。


 葉風つばきは魔法少女の義妹いもうとで。嗄木なつめはその敵の養子むすこで。

 わたしと、彼は、恋人で。

 でもそれは全部二年前までの話。

 最初からわたしは。

 わたしたちは、だから。


「全部、終わってたんだよ」



 その言葉でフラウが

 ぶわり、と彼女の白い髪が、服が、花開くように逆立つ。


【思えばキミは聞かなかった どうしてボタンが死んだのか

 ボクが知らないということを知ったからだと思っていた】


【だけど違う だってキミは人間だ

 分かっていてもボクを責める 真相を確かめようとする そうであるべきなんだろう?!】


【ツバキ キミは キミたちは! 

 ──最初から全て知っていたな!】


 人をなぞらえきれない人でなしフラウの震える叫びは、頭蓋にひびを入れそうなほどに悲痛な色を帯びていた。


 何の意味もないと知りながら、わたしはそっと目を閉じる。


 ──ああ。

 それが、それこそが。


「わたしの」

「ぼくの」  


『──罪だ』




 *



 フラウが二人の記憶へと手を伸ばす。


 彼らの抵抗はなかった。フラウを招き入れるように受け入れる。

 それでいて、記憶の一部には硬く鍵を掛けて。明け渡すのはフラウが知るべきことのみを。


 ──三者三様の記憶。共有が始まる。



 


 嗄木なつめがなぜ、アシェを父と仰ぐのか。

 その理由は彼の幼き日に遡る。


 フラウがぼたんを見出したように、アシェもまた幼いなつめを見出した。

 ごく普通に希望を落とし、未来を落とした、徒花の宿主として。


 なんてことはないはずだった。

 徒花はその落下ぜつぼうを養分として吸い出したのち、宿主は何も気付かず何も知らず日常に帰って行く。

 どれほど悩まされたかも分からない絶望を徒花に押しつけて。それはともすれば救いだろう。


 だがそれは、少年には救いにならなかった。


 幼子が親に捨てられたと理解した時の落下は徒花を生むのに十分すぎる熱量を吐き出す。

 アシェに出会ったときにはもう、その絶望が少年のすべてとなってしまっていた。

 徒花に絶望を食い荒らされた後、残ったのは空っぽの心だけだった。


 アシェはそれを『致し方なし』と冷淡に認め、次の宿主の元へと向かうはずだった。

 愛に狂った男にもう良心なんてものは必要ない。とっくに己は罪人で、愛する女のためならば世界を捧げることすら厭わない。今更、幼子ひとりの心を砕いた程度で痛める心臓など持ち合わせていない。

 

 そう自らに言い聞かせる彼の袖をうつろな目をした少年が引く。


 ──あの……ぼくは、いったい、何なんだろう。


 男は足を止める。

 少年の空虚な瞳が、愛した女の惑い顔と重なる。

 それは彼女と交わした初めての言葉とあまりにも似ていた。


 気が付けば彼は、少年に手を差し伸べていた。



 


「お前を拾ったのはそれが一番都合が良かったからだ。

 お前の父親となったのは、この世界の人々の間に溶け込むのに都合が良かったからだ。

 思い違えるな。お前のためなどではない。利用しているだけだ。 

 こんなものは偽善ですらない。善人などではない。

 ……おれは、おまえをそんなふうにした相手だぞ」

「知っています」

「……そうか」

「それでも、あなたには恩がある」

「っ……」 


 父とは呼ぶな、と言われ続けてきた。

 だから、父と呼んだことはなかった。 

 


 徒花を生んだあの時に、それまでのなつめは死んでしまった。元に戻るということは決してなく、その心は空っぽのまま。

 アシェの言うことに従うばかりの人形に成り果てていた。


 なつめが『こんなふうに』なったのは自分のせいだとアシェは言う。

 そのことを訂正するつもりはない。受け入れられることのない訂正など、無意味だから。

 ただ認識として、なつめの中の揺るがぬ事実として、なつめは最初から『こんなふう』だったし、こんなふうにした誰かはきっとアシェではなかった。


 なつめにとってアシェは恩人で、それは決して揺るがなかった。

 アシェがいなければ自分は野垂れ死んでいただろうし、今、彼にこうして生かされている事実は明らかだった。


 アシェの語ったとおり事実として、なつめはアシェにとって都合のいい人間だった。

 才か適性か、それとも『花』のお眼鏡にかなったか。なつめはアシェを手伝うことが出来る人間だった。

 なつめには『花』が、そして徒花が見えていた。



 なつめの半生は彼の後ろを付いて回る日々だった。

 他にやりたいことがあるわけでもない。

 これといった望みもなく、ただなんとなく呼吸を繰り返す。

 アシェを手伝うことだけが存在意義だと思っていた。恩を返すために、生きていた。

 世界はずっと、灰色だった。

 

 自分を捨てた親のことはもう覚えていない。

 けれど、人間というものをどうしたって好きになれない理由はそこにあるのだろう。


「おまえは……おれのしようとしていることに何も、思わないのか」

「……なぜ?」


 アシェは愛する人のために世界を脅かす。

 初めからずっと、聞かされていた。

 だがそのことが一体、自分になんの関係があるというのだろう。


 なつめの命はとうにアシェの掌の上にあり、彼の言葉に疑問などは抱かない。

 なつめにとっては当たり前のこと。世界とはいずれ終わってしまうものだった。

 


 彼が目的を果たすまで、彼のために生きて死ぬ。それで構わなかった。

 だというのに。彼はなつめに『普通の人間』としての暮らしを送ることを求めた。


「おれはそれを尊いものだと思っている」


 踏みにじると決めていながら、彼は憧れのような眼差しで人々を、その営みを語る。


「それがあなたの望みなら」


 けれど程なくして、その望みを叶えることが自分には難しいのだということを思い知る。

 普通の子供のように学校に通う、その意義を見いだせなかった。

 あの狭苦しい箱の中に価値を見いだせなかった。

 学ぶことが必要だというのなら、ひとりで学べば事足りた。


 どうしようもなく、人を好きになれなかった。人が箱詰めにされたあの空間で視界に入るもの、耳にするものはすべて雑音にしか聞こえなかった。


 なつめはどうしようもなく『こんなふう』なままだった。 

 何にも興味を示さず、何にも心を砕かない。いずれ訪れる終わりの時まで、ただ静かに息を潜めるだけ。


 それでいいとすら思っていた。


 彼女に、出会うまでは。



 

 あの時、博物館で見かけた葉風つばきに声をかけたのは何故だったのだろう。

 誰かを探しているような途方に暮れた背中が気にかかって、気が付けばそうしていた。

 その背中からどこか自分と似たようなものを予感した。

 

 あの博物館はなつめの数少ない、好ましいと思える場所だった。

 いつもなら、その場に人が入ってきたことにすら気にとめないはずだったのに。必然のように動いていた。


「本当の姉じゃないから」


 ほんの少しだけ似た境遇を口にした彼女に、興味のようなものを示した。薄ら暗い共感のような、それでいて否なるもの。

 それがなければ二度、会うことはなかったかもしれない。

 けれど、三度四度と重ねたのはけっしてそれだけが理由ではなかった。


 彼女は言う。


「どうして会いに来るのって? ……うんっと、そうだね。最初は、あなたを通してお姉ちゃんのことがわかるかなって思ってた。でも今は、なつめといるのが楽しいから……かな?」


 似ているようで似ていない少女だった。

 引っ込み思案で大胆で、物静かで明るい。ちぐはぐな印象を持つ少女。

 まるで、理想の自分に、理想の誰かになりたいと願うように。


「お姉ちゃんのようになりたいの」


 初めの時以外に、つばきは薄ら暗い話をしようとはしなかった。

 好きなもの、素敵なものの話を、数え切れないほどに語る。

 なつめはそれを聞いてばかりいた。


「わたしは別に、好きなものが多いってわけじゃないんだ。どちらかというと嫌いなものの方が多いかも。でも、お姉ちゃんはそうじゃない。……そうじゃなかった」


 つばきの眼が遠くへと向く。


「綺麗なものを綺麗だと言って、素敵なものを素敵だと言えるように、そうなれたらとても、いいなぁって。そう思ったから。色んなものを好きになりたくて、わたしは色んなものを好きって言うの」


 その語り口はどこか甘くて、寂しい。


「……だから、わたしの『好き』はほんのちょっぴり嘘なんだけどね」

「そうかな」


 疑問を漏らした後で、一体自分が何を言おうとしたのかを考える。


「なんていうかさ。嫌いなものを好きだなんて、そんな嘘を吐くのは難しいと思うよ。好きなものを嫌いっていうのも、そう。だから……言えるってことは、嘘じゃないのかも」


 何かを言わなければいけない気がした。彼女を肯定したいと願って否定した。


「そっか、そうなのかな。そうかもしれない」


 つばきは納得していないような顔で、しかし何度も頷いた。 


「なつめがそうやって真面目に答えてくれるの、わたし、好きだな」


 つばきがへにゃりと笑う。その笑顔から、そっと目を背けた。


「まあ……それはともかくとして。あんまり軽率に好きっていうのは、よくないかもしれない」




 閉館時間までの短い放課後に積み重ねた日々は、些細でなにひとつとして特別なことはない。

 いずれ彼女はひっそりと訪れなくなるのだと思っていたのに、彼女はいつまでたってもいなくならなかった。

 

 学校帰りのつばきの荷物が増え始めて、外の世界では一学期が終わろうとしていると知る。

 夏の真ん中、大きな鞄を抱えて、しっとりと濡れた黒髪を指に絡め、伏し目がちに彼女は言った。


「一緒に夏休みを、しませんか」


 なつめは夏休みというものを知らない。夏はただ眩しくて暑いだけの季節だ。

 そんなおかしな誘いに乗ったことは、全然自分らしくなくって、それなのにおかしいとは思わなかった。


 楽しみだねとつばきが言ったから。

 彼女が、それが楽しいというのならそれでいいと思った。

 どうせ時間は有り余っている。ならば、誘いに応えるくらいの誠意は見せても構わないだろう。彼女はずっとこの場所に来てくれたのだから。

 その程度の理由で『夏休み』を始めたはずだった。

 

 日差しの照りつける日に馬鹿みたいに自転車を漕いで海まで行った。

 着いた途端夕立に降られて海に入ってもいないのにずぶ濡れになった。


 何を祭っているのかも知らない祭りの縁日をうろたえながら歩いた。

 はぐれないように手を繋いだけれど、人集りに流され知らない道に迷い込んだ。


 自由研究の手伝いを称し、博物館の裏山を探検した。

 見つけたのは草と虫と小学生が作った秘密基地の残骸だけで、降りた頃には泥だらけになっていた。


 ふたりで星空を見上げながら、見知らぬ夜道を延々と歩きつづけた。

 安物のサンダルの底は無残に擦り切れて、ゴミ箱行きになった。


 どれもこれも踏んだり蹴ったりだった。

『夏休み』なんてろくでもないものに違いなかった。

 けれどそのすべてを、彼女は笑って『良し』とした。


「驚いたね」

「凄かったね」

「楽しかったね」


 そう、屈託なく笑う。

 そしてその笑顔に、なつめは頷ける。 

 それは紛れもなく、なつめの本心でもあったから。


 

 アイスクリーム屋に行くためだけに集まった日もあった。

 三段重ねのアイスを食べるのが夢だったのだと言っていた。

 暑いのに。溶けるのに。

「三段じゃなきゃだめなのか」と問えば「だめじゃないけど三段の方が『夏』だから」と返ってきた。

 なるほどそれは仕方がない、と納得し、なつめは三秒で注文を決める。

 つばきは悩みに悩み抜いて、選び終えた。赤と白と青のトリコロール。

 どこか懐かしくも眼に痛い夏の色だった。


 寂れたバス停の待合室で、会話もなく無言で食べ続ける。


「何やってんだよ」


 自転車のブレーキ音がした。

 乱入者。

 部活帰りらしい日焼けした少女がつばきを見つけ、呆れたように声を掛ける。


「あれ、りこ。どうしたの」

「どうしたも何も、そんなふうにすごい顔でアイス食ってんだもん。見つけるし声かけるだろ」

「え、そんな変な顔してた?」


 慌てたようになつめの方を向くつばき。

 なつめは返答の代わりに、つばきの口元にアイスが付いていることを教える。彼女は恥ずかしそうに目を背け、口元を拭う。

 りこと呼ばれた少女がなつめを見た。


「あれ、知らない顔だけど。友達?」

「うん」


 あっけなく友達だと肯定されたことになつめは驚く。そうか、友達だったのか、なんて今更な感慨を抱いたりもする。

 りこは不思議そうな顔をしたけれど、それで納得したらしい。深く追求することはなくそのまま、にっと笑みを作る。


「なぁつばきたち、今からさ、あたしの家で遊ばないか?」


 名案だ、というように続ける。


「兄貴と二人でゲームやるのも飽きてきたところだったんだよ。そいつのことはよく知らないけど、つばきの友達ならいいやつだろうし。四人なら丁度いいし。ほら、夏休みももう終わるしさ。最後にぱぁっと遊ぼうぜ」

「え、でも……」


 つばきが困ったようになつめを見る。

 人は苦手だと言ったことを、つばきは忘れたわけではなかった。


「あ、ごめん。いきなりそんなこと言われたら困るよな。予定とかあるだろうし全然、気にしなくていいから」


 りこが事を悟ったように慌てて手を振る。

 なつめは首を横にも縦にも振ることが出来なかった。

 断りをいれるのが自分らしく、正しいのだろう。

 何か、言葉にできない感慨が胸の内に渦巻いていた。不快感とは似ても似つかない、何かだ。

 深く息を吸った。


「いいよ」


 なつめの答えに、つばきは目を丸くした。 





 時間はあっという間に過ぎた。

 帰り道、日が暮れるのが少し早くなった気がする。薄く夜が染みる道を並んで歩く。 


「驚いちゃった。まさかきみが、りこの誘いに乗るだなんて思ってもみなかったから」

「ん……なんでだろうね。つばきの友達なら悪い子じゃないと思ったからかな」

「ふふ、りこと同じようなこと言ってる。わたしのこと買いかぶりすぎだよ」

「どうだろうね」


 自慢の友達なのだろう。つばきとクラスも一緒なのだと言う。楽しげに茜屋りこのことを語る

 つばきは気付いているのだろうか。彼女が学校での話をなつめにするのはこれが初めてだった。

 

「実際、なんていうか茜屋さん、いい意味で不思議な感じだ。明るくて、騒がしくて、だけどなんだか大人びている」

「そうなの。いい子なんだよ」


 そう言って初めて何か違和感に気が付く。

 茜屋りこの名前を覚えている。

 彼女がどんな人間で、どんな話をしたのかも。おぼろげだが思い出せる。容易には忘れない気すらする。

 不可思議な感覚だった。今までは何をしても頭底に穴の開いたような気がしていた。

 価値のあるものは数えるほどにしかなく、興味関心を引く人間は彼女だけ──

 

 ──彼女だけではなくなって、いる?



「今日……楽しかった?」


 黙り込んだなつめに、不安げな色を込めてつばきがこちらを覗き込む。


「楽しかったよ」


 返答は考えるまでもなく飛び出た。

 嘘じゃなかった。悪くないと思えた。こうして、終わった後に感じるこれは、きっと名残惜しさだ。

 つばきがこちらを推し量るように、じっと見つめていた。


「あのね、りこがまた遊ぼうって言ってた」

「『喜んで』って伝えといて」

「……うん!」


 嬉しそうに彼女は頷き、ふっとその笑みを緩めた。


「あーあ、終わっちゃうな、夏休み。終わらないといいのに。

 終わらなかったら、こうしてたくさん、君と一緒に遊べるのに」


 心臓が静かに鳴る。


「最近はずっと図書館で宿題やってただけじゃないか。全然手付かずだったせいで」

「うっ。そ、それもまた夏休みの風物詩っていうか……やっぱり、宿題なんていらないよ……」


 理論上は間に合うはずだから、と言い訳しながら残り日数を数えるつばきを横目に見る。実際に間に合う目処が着いてるあたりが彼女らしい。 


 空を見上げた。夕焼けの名残ももう消え去ろうとしていた。

 夏休みなんてあってもなくてもずっと同じだった。

 そうか、これが、終わるのか、と。そんなことが何故だか胸に小さく突き刺さっていた。





 九月になった。

 暦はもう、夏は終わりだと訴えかける。

 けれど日差しは容赦なく通学路のアスファルトを、校門の先のグラウンドを照りつける。うだるような暑さがなりを潜めるのはまだ当分先のことだ。 

 なつめは真っ直ぐに歩を進める。

 

「…………」


 いつぶりかに足を踏み入れた校舎は、相も変わらず異国のような空気だった。

 真白い上靴で朝の廊下を行く。


 騒ぎ声が聞こえる。不快ではない。 

 煩い足音が聞こえる。不快ではない。

 人の熱が空気越しに伝わる。不快ではない。


 けれど迷いなく進み続けることはできなかった。

 はたして自分の教室はどこだっただろう。

 おぼろげな記憶を頼りに扉を引く。

 教室を間違えたと分かったのは、その教室にはクラスが違うはずの彼女がいたからだ。

 扉のすぐ向こう、眠たげに目を擦る彼女と、つばきと目が合った。


 ひと気の少ない朝も早い時間だ。

 つばきは疑わしげに目を瞬き、なつめがそこにいることを認めた。

 がたり椅子を鳴らしてと立ち上がる。


「なんで!?」

「おはよう。そんなに驚くことかな。ぼくだって時々は学校に来てたんだし」

「あ、そっか。そうだったね」


 来ていたとしても会いに行くことはなかっただろう。以前ならば。


「夏休みは終わっちゃったけど。時々なら学校でも会えるって思うと、嬉しい」

「時々、じゃないよ」


 息を吸う。呼吸ができる。ここに居られる。

 終わらせたくないものを終わらせない方法は、持っている。


「今日はさ。来ない理由と来る理由があったとして、来る理由の方が少しだけ多かったんだ」


 意味がなければ、理由がなければ、必然性がなければここには来ない。


「だけど明日も、明後日も。きっと、来る理由の方が多いから」



 人が嫌いなはずだった。

『他人』を煩わしいと思わなくなっていた。

 いつの間にか嫌いではなくなっていた。


 嫌いだとしても、『好き』だと嘘を吐けると思えてしまった。

 その嘘を吐けるのならば、それはもう嘘なんかじゃなかった。


 でも、一番大きな理由は。見つけてしまった理由は。


 ──つばきに会えるから。

 それを今、口にすることはできないけれど。


 はじめて海を見た。

 はじめて花火をした。

 はじめて夕日を綺麗だと思えた。

 はじめて帰りたくないと、まだもう少しこうしていたいと思えた。

 はじめて、多分、きっと、恋をした。 


 つばきが手を引いてくれたから。連れ出して、くれたから。

 灰色だった世界に色が付いた。 


 なんて単純でつまらない帰結だろう。

 自分には何もないと思っていたのに。空っぽだった中身は大切ながらくたで満たされてしまった。

 そうしたら世界が、人が、捨てたものじゃないような錯覚に陥った。

 綺麗だとは思えないものが、もしかして綺麗なんじゃないかと疑えるようになってしまった。

 まさかそれだけで。どこでだって呼吸が出来るような気になるなんて。

 そんな単純な人間だったなんて、我ながらおかしくて笑えてしまう。


「それだけのこと、だったんだ」

「……?」

 

 今はまだ、その思いは伝わらない。伝えるのは、もっとずっと先のことだから。


 チャイムが鳴り、つばきがはっとする。


「昼休み! そっちに、遊びに行くから!」


 慌ただしく教室へ戻っていく背中を見送る。

 廊下に差し込む光が眩しかった。

 明日も、明後日も、こんなふうに迎えられたら。そんなことを思う。

 それを叶えることは随分と、簡単なことだった。




 ──けっして忘れたわけではない。

 アシェのことを、そして自分の立場を。

 

 けれど、なつめは知らなかった。

 知ることができなかった。


 アシェの敵、魔法少女の正体がつばきの姉であることを。

 つばきが魔法少女の妹であることを。


 最後のあのときまで。

 取り返しの付かない過ちを、おかしてしまうまで。



 二度目の夏は来ない。

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