5: Sugar and spice,

 さて、そんなこんなで今週は瞬く間に過ぎていった。

 授業中にフラウが無駄話を仕掛けてきたり、妙に勘の良いりこが詮索をしてきたり、バイト先に辞める相談をしたり、『徒花あだばな』を潰したり。それなりにあったことにはあったのだけど大したことはなにもない。


 熱を出したあの日に送ったメールは、その夜に返ってきた。


『日曜日の朝

 いつもの場所で』


 白地の画面にたったそれだけの簡素なもの。SNSになれた目には物寂しくも懐かしい。


 その、待ちに待った日曜日が来た。

 淡い色のカーディガンに下ろしたてのワンピースを用意して、唇にだけ色付きのリップクリームを塗る。

 鏡の前で全身を確認する。なかなか見れたものなのではないだろうか。自分のことはよくわからない。わからないけれど、お姉ちゃんが褒めてくれた頃と見た目はさほど変わっていないはずなのだ。変わったのは髪色くらい。

 鏡とにらめっこをするのをやめ、スマホの中の風変わりな同居人に声をかける。


「フラウ、今日はおいていくからね」

【スマホをかい? 不便じゃないの】

「邪魔されたくないの」


 メールの確認はパソコンでしたから、内容がフラウに知られている気配はない。

 スマホなんて情報の塊なのに、フラウは本当に詮索する気がないみたいだった。

 誠実なのか、それとも意味を見出せないことはしないのか、ありがたいけれどわたしがフラウの立場であったら考えらないことだ。

 自分の記憶になく大事な相棒が死んでしまって、妹の元に放り出されたら。

 たとえその妹がなにも知ってそうになくっても、根掘り葉掘り聞き出し探るだろう。


【それで どこに何しに行くんだい?】


 軽い調子の軽い質問。

 わたしはそれに何て答えるべきか一瞬戸惑い、どうでもいいかと放り投げた。


「デート」


 空気が硬直した、気がした。

 あ、しくじったなと思った。


【デート!? へっ お相手いたの!? ねえねえどんな人? 男の人? 女の人? 若年青年老年いったいどれ!?】


 フラウが身を乗り出した。画面から。

 省エネモードは取りやめて、半透明の姿を現しひとりで沸き立っている。赤い瞳を見開いてきらきらと輝かせていた。

 ちょっと的外れな質問に笑ってしまう。そんな聞かれ方はしたことがない。


「随分と必死だね。そんなに恋話、好き?」


 何気ない問いかけのはずだったのに、フラウの笑みが唐突に凍った。


【あ うん 好きというか──さがかな ボクはそういうものに興味を持つように出来てるから】

 

 白く重たい睫毛が瞳に影を落とす。

 フラウは目を、細めた。


【いいよね 無償無垢無罪の恋って】


 その声に込められた感嘆が、ひどく寒々しい。

 わたしは言葉を詰まらせた。

 けれどその間にフラウはいつも通り、ころりと表情を変える。


【ね ね それでお相手ってどんな子なの? 馴れ初めとか甘いエピソードとか教えてよ!】


 顔が近くなる。

 陽気で調子の良い、いつもの彼女にほっと一息をついた。

 だけど残念、その質問へのわたしの答えは決まってる。

 唇に指を当てる。


「ひみつ」

【ケチだなキミは!】


 しつこく恋話をせがむフラウの声を背に、鞄を掴み部屋を出た。

 時間を定めていないから遅れるもなにもないけれど、そろそろ家を出よう。

 だがその前にふと、ある予感が頭をよぎった。数歩戻って勢いよく自室の扉を開ける。

 扉の目と鼻の先に、姿を現したままのフラウがいた。

 フラウはびくりを肩を縮こませた。明らかについてくる気だった。


「…………」

【───】


 無言で見つめ合う。


「喧嘩売ってんの?」

【売ってないです おとなしく留守番します だからもう口を聞いてくれないとかいうのは勘弁してください お喋りしないと死んでしまう】

「うん、よろしい」


 どうやらこの前の、盗み食い事件の仕打ちはフラウ的にきつかったらしい。

 実体がないくせに盗み食いは一丁前にやるのだこいつは。食事が必要なのかと聞いたら半分趣味だと宣った。

 判明したのは手をつけてはいけないものに手を出したから。りこがゴールデンウィークの旅行のお土産にくれたお饅頭をよりにもよって食べたのだ。

 まあ付いてこないのなら、今回は許してあげよう。


 そして今度こそ、部屋を出る。

 まったく、短い間で随分と打ち解けたものだ。

 フラウにとってわたしはお姉ちゃんを通じて知っていた相手だろうし、実のところずっと前から同じ家で暮らしていたのだから不思議ではない。

 でもきっと、わたしとフラウの関係性は薄っぺらいものだ。

 わたしはフラウのことが分からないし、フラウはわたしのことを知りやしない。

 先程、彼女が発した言葉を舌の中で転がした。


「無償無垢無罪の恋、か」


 音として認識できるぎりぎりの、微かな声で言葉の舌触りを確かめる。

 その響きは小さな女の子の口から出るにはそぐわなく、意味合いとは裏腹に喉にひどく絡みつく。


「わたし、フラウが思っているほどいい子じゃないよ」


 廊下の先。ひと気のない朝のリビングから漏れる光が眩しかった。



 *


 暑いとまでは言わずとも、五月の日差しは十分に強い。わたしは日陰から日陰を渡り歩く。

 緩やかな坂を登るうちに樹々に囲まれた博物館が見えてきた。赤い煉瓦造りのこじんまりとした建物。個人のコレクションが雑多に並べられた小さな私立の博物館だ。

 辺鄙な場所にあるせいか、人はあまり訪れない。


 時間は朝としか指定されていなかったけど、開館時間は早いわけじゃないからお互いの認識にさほどずれはない。そもそも、まともに時間を定めて会ったことなんて、真っ当な場所でのデートの待ち合わせ以外はなかったのだし。

 反応の悪い自動ドアをくぐる。

 受付にいた学芸員さんもしくは普通の職員さんは見慣れない顔だった。

 今までかからなかった常設展の料金を高校生になったわたしは初めて払う。

 通わなかった二年の間に、仲良くなった職員さんはどこかへ行ってしまったのだろうか。一抹の寂しさを覚えるけれど行方を捜すほどではなく、話したいことも話せないとなれば消える程度のもの。結局、そんなものなのだ。

 積もる話を本当にすべきなのはこの先にいる。


 古今東西の陶器に掛け軸、抽象画の横を通り抜け、薄暗い大部屋の隅に人影を見つける。 柔らかい髪に簡素なシャツとスラックス、痩せぎすの横姿。

 町中ですれ違えば有象無象に埋もれて消えてしまうだろう。薄く整っているのがかえって存在感の無さに転じるような、見飽きた顔。

『彼』がいた。

 なんて言おうかと考えて、わたしはすぐに考えるのをやめた。


「なつめ」


 軽く、名前だけを呼ぶ。


「つばき」


 嗄木からきなつめは、まるで最初からわたしが来たことに気がついていたかのような平坦な態度で、こちらを向いた。


 笑い出しそうになる。

 二年ぶりだなんて嘘みたい。昨日も会ったんじゃないかと思ってしまうほどに、想定していたノスタルジックな気まずさなんてどこにもなく、わたしも彼も、なんにも変わっていなかった。


「元気にしてた?」

「うん、つばきこそ」

「見ての通り、だね」


 最後に会ったのはいつだったか分からない。 でも、最後に言葉を交わしたのは二年前の『あの時』だ。


 話したいことはたくさんあったはずなのに、いざとなるとなにも言葉が出てこない。 

 隣でぐるぐると逡巡しているうちに、なつめが口を開いた。


「それで、今日はどうする」


 その問いかけまでも、昔となにも変わらない。

 ああやっぱり、昨日も会ったのではないかと錯覚する。記憶を改竄したくなる。


「折角だからこのまま見て回ろうよ」


 展示にさほど興味はないけれど、愛着と言うべきそれなりの感情は持ち合わせてる。

 少しくらいなら、あの頃と同じような時間を味わったって許されるだろう。

 許されるって……誰に?

 震える息を飲み込んで、笑った。


久しぶり・・・・に、ね」


 昨日も一昨日も、あの頃と地続きではないのだと自分自身に念押して。


 *



 三年前。

 ここを初めて訪れたときのことだった。



「誰か探してるの」


 そんなふうに、誰かから声をかけられた。

 質問されているんだって一瞬気付けないくらいに、抑揚のない声だった。


「え?」


 振り返れば見知らぬ男の子がいて、身を強張らせる。

 でも彼がわたしと同じ中学校の制服を着ていることに気付いて、警戒を解いた。

 

「あ、うん。お姉ちゃんを探してるんだ」

「……今日はぼくら以外に誰も来てないよ」


 学校に行かなくなったぼたんは今日も行方知れずだった。別に探す必要なんてない。夕方になれば、ぼたんは家に帰ってくる。

 わかってはいるんだけど、わたしはぼたんを探すことをやめられずにいた。


「そう、ですか……ありがとうございます。ええっと、上級生ですよね?」


 落胆はできるだけ隠して目の前の彼に向き直る。

 あまり人数の多い中学校ではなかった。一年生のわたしは既に同学年の顔をほとんど把握していた。だから、『見知らぬ』ということは上級生とあたりをつけて、まだ慣れない丁寧語を使う。

 彼は少し困ったように眉を下げた。


「いや、一年生なんだ。多分きみと同じ、だよね」


 わたしは驚く。

 どことなく気怠げで、涼しい顔。大人びたというよりは幼さのない佇まい。彼が同じ年だとは思えなかった。


「そっか、ごめんね。顔、覚えていなくて」

「いや……ぼくはあまり学校に行ってないから」


 息を呑む。

 隣のクラスに、休みがちの子がいると聞いたことがあった。

 彼が、そうなんだ。

 

「その……聞いていいことだった?」

「いいよ、別に。くだらない理由だし。隠しているわけでもない」


 学校に行っていないのはぼたんと同じで、けれどきっと違う理由。

 きゅっとスカートを握りしめる。


「あの、もしよかったら。一緒に展示、回らない? わたし、葉風つばき。あなたの名前も教えて」


 わたしは半ば勢いでそんなことを言い出していた。

 彼のことが知りたいと思った。知れば、お姉ちゃんのことも分かるんじゃないかと思った。

 博物館の展示になんてあまり興味はないけれど、そんな口実でもなければ仲良くなれない。


「いいよ。ぼくは……嗄木、なつめ。よろしく、かな」


 彼は少し、戸惑いがちにそう言った。



「ところで、お姉さんを探してるんじゃなかったの?」

「あ……」


 わたしは横に首を振る。


「いいの。多分、わたしに見つけて欲しくないだろうから」


 悲しいけれど、ぼたんにわたしは必要なかったのだということは分かっていた。

 所詮、わたしは、

 

「……本当の妹じゃないし」


 言ってしまってから、はっと口を押さえた。気が弱ると考えていることが出てしまう。

 彼は聞いていたのか聞いていなかったのかわからないような、無表情のままだった。

「同じだ」


 彼が呟く。


「ぼくも、本当の息子じゃないから」


 わかる気がする、と。

 わたしの無力感に寄り添うように、そう言った。


 それがわたしとなつめの出会いだった。 今思えば決して珍しい話ではないはずだ。ただ、わたしたちはそれが初めてだった。これが初めての共感だった。

 だからだろうか、その日別れる頃にはもう、今日初めて会ったのだということを忘れていた。



 それから、わたしはよくこの場所に通うようになった。

 何をしに、というわけでもない。するのはとりとめのない話ばかり。

 でもその穏やかな時間が、好きだったことは覚えている。


 度々、勉強を教えてもらうこともあった。まともに学校には行っていないのに、なつめはわたしよりもずっと多くのことを知っていた。


 授業は好きなんだけどね、と困ったように言っていた。


「教室は、人間が多すぎるんだ」


 なつめはそう、不登校の理由を語った。

 

「……対人恐怖症?」

「少し違うかな。つばきに話しかけることはできたし」


 自分の苗字が嫌いだというなつめと、変わってしまった苗字に未だ慣れないわたしは下の名前で呼び合っていた。

 ぼたんと一緒の『葉風』という苗字は好きだけれど、呼ばれる度にむず痒い気持ちになる。わたしはまだ、『妹』になりきれていなかった。


 なつめはゆっくりと言葉を探すように続ける。


「怖くはない。ただ、苦手……なんだと思う。人間が」

「……わたしは?」

「それが不思議と、最初から平気だったんだ」


 なつめは意外と気さくで饒舌だった。あくまで意外と、だけど。

 愛想をどこかに落っことしている彼が笑うのは、あまりないことだった。 


「あのね、なつめ。もうすぐ夏休みなんだ。だから、今よりもたくさん会いに行けると思う。……それでね」


 わたしはつっかえながら言葉を紡ぐ。なんでもないことのはずなのに喉が掠れる。 


「一緒に『夏休み』を、しませんか」


 学校に行かないなつめは、夏休みらしい夏休みを知らない。思い上がりでなければわたしはきっと、彼の初めての友人だから。

 息を潜めて夏を終えようとしている彼を誘えるのは、わたしだけだから。

  

「ええっと、『夏休みをする』って言っても伝わらないよね。

 三段重ねのアイスクリームを食べたり、裏山を探検したり、他に誰もいない家で一日中ゲームしたり、自転車で海まで行ったり……とにかく、なんていうか、夏っぽいことを、目指すの!」


 わたわたと言葉を続ける。

 なつめはぽかんとしていた。沈黙だった。

 頬が熱くなる。勢いだけで口走ってしまった。


「く、あはは」

 

 なつめが、笑いだした。

 豆鉄砲を食らうのは今度はわたしの方だった。

 こんなふうに笑うのを、初めて見た。


「つばきってさ、時々すごく面白いよね」

「え……えっ!?」

「いや、いいんだ。ふふ、気にしないで」

 

 なつめはひとしきり笑い終え、言った。


「うん、よろこんで。今年の夏休みは待ち遠しいね」

 



 いつから好きだったのか、どうして好きだったのか、わたしたちはもう覚えていない。

 告白は、恋人になるのは、もっとずっと先のことだったけれど、始まりはきっとあの夏だった。


 ──二年前、二度目の夏を迎えるときまでずっと、わたしたちは、隣にいた。 



 ◇



 硬い足音を鳴らして、思い出をなぞり歩いて行く。


 最後の部屋に行き着いて、わたしたちは何も言わず立ち止まる。

 見飽きた天井には、太古の海の住人だった骨。

 オレンジ色の弱い照明を浴びた、イルカのようなクジラのような何者かはわたしたちの頭上を泳がない。

 とっくの昔に死んでいるソレは未練がましく飾られて、泳ぐふりをさせられている。


「わたしね、この部屋好きだったんだ」

「海の底みたい、だっけ」


 沈みきって時間が止まって世界に二人きり、みたいな。

 観覧車の最頂点にも夕暮れの海にも負けないくらいにロマンチックと言えなくもなくなくない?

 なんて、そんな子供っぽくてスイーツな理由だったのは最後まで秘密だ。


 二歩、踵を鳴らして進む。彼を置いて。

 時計の針を必死に押さえて、時間が過ぎないでほしいと願っていたけれど、そんなことをしたって時は着実にわたしたちを置いていく。

 もう、進まなくちゃいけない。


 振り返り、微笑んだ。


「ね、わたしたち。おしまいにしましょうか」



 *




 博物館からの帰り、陽の赤い夕暮れ時。

 寄り道に寄り道を重ね歩いて、家に帰ればフラウが愕然とした顔で待ち受けていた。


【ツバキ──何を 落とした?】


 どうやらわたしの考えは合っていたみたいだ。


「まず、最上階に行かない? 『徒花』、出たんでしょ」



 マンションの十三階の通路でわたしは風を浴びる。

 ずっと考えていた。どうしてぼたんが魔法少女だったのか。

『落ちる』って、『落とす』って一体なにをどこまでなのか。


「だから試しに、落っことしてみた」


 形ないものの欠落と喪失は、『落下』に換算されるのかどうか。

 答えは是。

 それなら合点が行く。たかが足を踏み外して線路に落ちた少女ではなく、フラウがあれをこれをと落っことしてきてしまったぼたんを魔法少女に選んだ理由が。


【正解だ だけどそんなの 聞けばいいじゃないか──こんな風に確かめる

 必要なんて!】


 フラウが追いすがる。彼女にとってやっぱり『恋』は何か特別なものなのだ。


「……魔法少女も『徒花』も、発生条件は同じなんだね。同じなのに、違うんだ」


 よかったと、そう思う。お姉ちゃんはあの薄汚いバケモノじゃなくて、きらきらとした魔法少女だったんだ。

 フラウは迷子の子供のような顔をした。


【ねぇ ツバキ──別れたりなんかして よかったの?】


 よかったも何も、とっくに終わっていた関係だ。それをはっきりと終わらせに行っただけのことなのだから。


「いいの」


 フラウが気に病むことなんて、それこそなにひとつありはしない。


「全部終わったら、きっとまた『好き』だって言うんだから」


 夕焼けは眩しく、胸に迫るほど鮮やかだ。

 どうせ落ちるのならば、あんな空の中がいい。


 今日も何処かで徒花が咲く。

 そしてわたしは、十三階の手摺に足を掛けた。

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