2: How will we build it up ?

「わかった」

【無茶を言っているのはボクだって分かって──え?】

「飛び降りればいいんでしょ? きれいに降りれる自信はないけど」


 鞄は足下に放り出したまま、わたしは歩道橋の濡れた欄干に手を掛ける。お世辞にもよじ登りやすいとは言えない。当然だ。


【物わかりが良いのはありがたいけど流石に不安になるぞ!?】


 『声』が妙に慌てている。真っ当じゃないことを要求したくせに、真っ当なことを今更言われても。

 わたしは欄干上に身を預けた。

 風が冷たい。真下は今も車が行き交って、濡れたアスファルトの上を走るあの音を響かせている。

 落ちて、轢かれて、とどめはきっと完璧だ。虫の息すら残らない。

 震えたのは溜め息までだった。


 男の黒い影がのろのろと、ふやけた腕を一本わたしの方へと伸ばし始めた。

 先程までわたしの胸を占めていた恐怖はいつのまにか、憐れみ混じりの奇怪で薄っぺらいものへと変わり果てていた。

 なんて汚いバケモノだろう。

 『声』に語りかける。


「大丈夫。わたしはあなたを信じるから」


 崩れゆく体勢に任せ、わたしは宙に身を投げ出した。




 *




 歩道橋から落ちるその一瞬、わたしは『なにか』を見た。


 さっきまで見ていたはずの明るい夜の街の景色は掻き消えて、瞼の内で知らない風景が弾ける。


 少女がいた。

 丸く透き通る青空の下、青空を遮る大きな金の籠の中、見渡す限りの美しい花畑の中に小さな白い少女がいた。

 愛らしさを人の形に仕立て上げたような少女だった。

 そのあどけない可憐さを縛るように、細い両手首には似合わない大仰な手錠が掛けられていた。

 少女が不意に顔を上げる。

 真っ白な長い髪はさらりと流れ、切りそろえた前髪の下、二つの瞳が姿を現す。

 この風景は現実のものではない。

 わたし自身はこの景色の中にいない。

 なのに、少女はいないはずの『わたし』をはっきりと見つめていた。

 その大きな丸い瞳はすべてを見通すように透き通り、けれど、ぞっとするほどに。

 あかかった。


 赤い眼に射竦められ、わたしは一瞬我を忘れる。

 幻影の中の少女は次第に遠のき、青空の景色も溶けて消えていく。


 そしてゆっくりと、わたしはすべてを思い出した。




 * 



 ――ああ、そうだった。わたしは今、落ちているんだった。

 

 冷たい風と冷たい雨。れっきとした現実の景色の中を、ほの明るい光の粒子を撒き散らしながら、わたしは赤色に染め上げられていく。

 膨れ上がるスカートも風に流される髪も魔法に掛けられていく。ぺたんこだったローファーも真っ赤なハイヒールへと変わっていた。

 幻は消えても現実は現実味がない。

 手袋に覆われた指が、空を切った。


 落下が終わる。

 軽やかに踵を鳴らして歩道橋の真下、停止した車たちの合間に降り立った。信号は赤。

 衝撃ひとつ響かない。


「これって……」

【魔法少女といえば伝わるかな カテゴリとしては悪を討つ正義の味方さ】


 携帯はとっくに握っていないのに『声』は耳元で当たり前のように響いていた。

 車の窓にすっかりと様変わりしたわたしの姿が映る。

 長過ぎるポニーテールに、魔法少女の衣装というよりはバレリーナのチュチュのようなどことなく古風な雰囲気の衣装。

 昼間、あの階段から落ちた先で見た赤色の正体をようやく知る。


 様変わりしたのは見た目だけではなく、体の感覚もそっくりそのまま、わたしそのものが違う何かに変わってしまった気がした。

 人で埋め尽くされた夜の駅前、異物と化したわたしを見つけられる人は誰もいない。

 ただひとつ、あの真っ黒なひとでなしを除いて。


「ねえ、あれ。倒せばいいの?」


 一歩、踏み出す。巻かれたリボンが跳ね上がり、スカートの中から花弁が散った。

 もう覚悟は出来ている。多分、きっと。わからないけれどなんとかなるんじゃないだろうか。なんとかならなくても、その時はそれまでだ。

 わたしが、これをなんとかするんだ。


【いや】


 でも返事は意外だった。


【キミは 逃げるといい】


 ぱちん、と弾けるような音が鳴る。鳴ったのは自分の指だと気付き、ぞっとした。

 指を動かそうとした覚えはなく、そもそもわたしは指なんて鳴らせなかったはずなのに。

 一瞬の恐怖と同時、音を合図として立ち上ったのは花吹雪。

 大きな花弁の数々が異形の怪物を取り巻いた。

 似合わないくらいに鮮やかな光景だった。

 唖然とする間すらもない。


【さあ走れ 振り返るな 考えるな 振り切るんだ 魔法が解けてしまう前に!】




 きっと文字通り自分のものではなくなってしまった身体をがむしゃらに動かして、遠くのどこかを目指し走り抜ける。

 車は何台追い越したか分からない。地面は異様に弾み、多少の障害物も高低差も意に介さない。全部が脊髄反射であるかのように、身体が勝手になんとかしてしまう。

 人は誰もわたしに見向きもしないからこちらが避ける羽目になる。頭上を飛び越え続けるのにも無理があってわたしは次第に人のいない方へと向かっていた。


 未分化の焦りがあった。

 体力ではない、何かが抜けていく感覚があった。バケツに小さな穴が空いてそこから水が垂れているみたいだ。

 でも。

 このままその感覚に身を委ねてしまえたら、素敵かもしれない。


 建物の合間を抜け続けいつの間にか河川敷まで飛び出してわたしはやっと止まった。

 川は広く、水面に街灯りを写し、夜の中か弱くもきらめいている。

 大きな風切り音をたてて電車が橋の上を走りすぎていくのが見える。窓から漏れる光が不思議なほどに明るく遠い。

 月も見えない曇り空の下、既に雨は止んでいた。


 身体の重量が正しく戻ってきてしまったような感覚が全身を占めた。

 ぱちん、と今度は瞬くように変身が解け、わたしは濡れた制服姿に戻っていた。

 そっと手の甲を嗅いでみる。残り香は甘く鼻につく匂いだった。高い香水だって趣味に合わなければふんだんに毒々しい。

 ふと下を見れば、歩道橋に置いてきたはずの通学鞄が無造作に置いてある。


【装備換算しておいたよ】

「あ……ありがとう」


 聞こえた声の方向に向き直り、硬直した。


【初めまして】


 『声』のもとに少女がいた。

 幽霊のような白い少女だった。

 切りそろえられた白い髪は腰まで真っ直ぐに伸ばされていて、ばらりと弧を描くように毛先を広げている。

 身体はほんのりと透け、服は白無地のシーツに穴を開けて被せたように不格好だ。

 その両手は、断ち切れた鎖で繋がれていた。


 どこの生まれかなんて想像もつかない完璧で作り物めいた可憐さと、強烈なほどに相反する装い。十代の初めくらいの見た目か。

 どこもかしこも異質だけれど、一際異彩を放つのは瞳だ。その色彩も勿論、でもそれ以上に。

 紅玉を嵌め込んだような透き通った深い瞳に、瞳孔は存在していなかった。

 無意味だ。年齢なんて考えたって。だってきっと、人でない。


 少女が動く。じゃらりと鎖の鳴る音が脳裏を引っ掻いた。

 そうだ、わたしは。彼女を知っている。

 変身の最中さなかに、見たのだから。


【まずはツバキ きみに礼を】

【こんな訳の分からない出来事に付き合ってくれてありがとう】


 ぺこりと小さな頭を下げる。

 淑女のカーテシーではなく、燕尾服に釣り合うような一礼。


【そして詫びを】

【巻き込んでしまって 緊急事態とはいえキミの身体を勝手に動かしたりして ごめんなさい】


 指先一つに至るまで、その所作は嫋やかで微塵も幼さを感じさせない。

 白い髪が動きに合わせてさらさらと流れるたびに、光が零れ落ちるようだった。


【ボクはキミに説明責任があるだろう

 さてボクは何から話せばいい?】 


 すっかりと少女の存在感に飲み込まれていたわたしはその質問で我に帰った。

 わたしは考える。

 聞くべきことはありすぎるけれど、でもまずはやっぱり。


「あなたの名前とか」


 少女はきょとんとし、小さく笑いだした。

 わたしはむっとする。


「聞いてないと不便でしょ」

【ああごめん ちょっとね 不意打ちだったからさ 結構身構えてたんだよボク】


 くすくす笑いを切り上げて、再び平静な声色に入れ変わる。


【ご所望はボクについてだね ボクは『フラウ』って名乗っている 年はヒミツ 存在は──妖精というのが近いかな】

「フラウ?」


 なんとなく聞き覚えがある音に、問い返す。 何語だろう。


【『ミセス』よりかわいいだろ?】


 なるほど、意味は理解した。したけれど、名前にしては随分と不自然な意味合いだ。

 フラウは脱力したような笑みを浮かべる。【ていうか気にするのはそこなのか】、と呟いて。

 だって魔法少女ときたら妖精と決まっている。あまり詳しくはないけれど、流石にそのくらいは覚えがある。そういうのは、姉が好きだったから。

 だいたい今更、あんなバケモノ見せられて変身なんてした後で何を聞いても動揺するわけがない。



「ねえ、あの怪物。あのまま置いてきちゃったけど、いいの」


 B級ホラーチックに周囲の景色になじまないあの合成映像みたいな怪物が、流石に無害なものとは思えない。

 一旦離れてしまえばなんてチープな見てくれだったのだろうなんて戯言たわごとを吐いてられるけれど、対峙してしまった時の喉元を掴まれるような恐怖までを忘れることはできやしない。

 ふむ、とフラウは感心したように言う。


【正体よりまず先にそのことを聞くか 流石ボタンの妹だね 本当によく似ている】


 肌が、ざわめいた。


【血が繋がっていないとは思えない】


 ドクン、と。波打つ心臓が鷲掴まれた。息が凝固し喉につっかえる。

 胸抑える私に気づかぬよう、フラウは無邪気に無垢に、慈母の笑みを浮かべた。


【安心してくれ アレそのものは無害なんだ 取り憑かれたあの青年も今頃無事に帰っているさ なにも知らずにね】


 それは、よかった。声を絞り出す。安堵に聞こえただろうか。

 フラウは相槌に軽く頷いた。

 

【アレは自分を認識できる人間のみを つまり魔法少女を敵とする】


【キミが襲われたのは誤ってボクと接続してしまったからだ 今回じゃないよ 覚えはあるね?】


 こくりと頷く。昼間の、階段での落下だ。鏡に映った赤色は魔法少女の衣装だったんだ。

【落ちたときに半ば自動で反応してしまったんだね おかげでボクは目覚めることができたんだけどさ】 


 フラウが皮肉げに口角を上げた。

 それはどうも。襲われた甲斐があるものだ。なんて言わないけど。


「ねえ。アレは無害って言っても、どうせ今のところって条件付きでしょ? わたしですら一目でやばいって思ったんだもの」


 フラウは神妙な顔を作る。作り物のようだと、そう思った。


【確かに倒さなくちゃいけないないものではある でもそれはキミのやるべきことじゃない】


 彼女の表情は機械のように切り替わる。

 ほら、もう。ぱっとほころんだ。


【というわけでこの後キミはボクとも魔法少女ともなんの関係もないただの女の子に修正され あの『徒花あだばな』に脅かされることはもうないだろう】


 フラウは音なく薄い胸を叩き、そして。


【怪物退治はボクらに任せておけばいいさ ボクの相棒 そう キミのお姉さんとね!】


 わたしの脳に言葉のやいばを差し込んだ。

 不思議とわたしの心は静かだった。大きすぎた音が静寂に似てしまったかのように。


「ぼたんは、もういないよ」


 息を継ぐ。


「死んだの。二年前に」

【え──?】


 白い少女はそう呻いて、ほくろの一つすらない顔を歪めた。ただでさえ白い顔から血の気が失せていく。


【そんな 嘘だ どうして どうしてボクはそれを知らない いったい何が──いや 何がなんて決まっている 全部 ボクの──】

「ねえ」


 フラウは怯えたように肩を震わせた。

 この『ひとでなし』はいっそ人間よりも人間的で心臓がちくりと痛んでしまう。

 はたしてあの時、ぼたんが死んだと知らされた時。わたしはちゃんと、人間だっただろうか。

 なんて。その答えはずっと前に出ている。


「わたしがやるよ。──やらせて。お願い」



 *



【魔法少女と怪物の動力源 その鍵は『落下』だ】


【最も大きな落下とはつまり死だ】


【故にあれは『徒花あだばな』 動力源を溜め込んだ人間に寄生し 自分を殺すためだけに生まれたバケモノ この世にありうべからざるもの】


【『徒花』そのものはエネルギーを収集するための端末に過ぎない だがそんなものを集める理由がろくなものなわけがないんだ】


 早足で歩を進めながら、隣をのんびりと歩いているかのようなフラウから話を聞く。

 走らないのは、ただの女子高生の足で向かうには随分と遠くに来てしまったから。

 情けないことに、体力が持たない。


【魔法少女の役割はヤツらに死なれる前に生かさず殺さず捕えることだよ】


 その言葉にふと疑問が湧く。


「どうして、『徒花』はすぐに死んでしまわないのかな」

【ある程度昇らないと落ちることもままならないだろう だから生きながらえているんだ】


 真っ当な理由のようで、よく分からない。その『ある程度』にさして価値があるとは思えないのに。

 利用されるためだけにほんの少しを生きながらえる。ああなるほど、それは確かにあだ・・だろう。


「ところでその動力源、名前とかないの」

【キミやっぱり名前にこだわりでもあるの? 名前はあるのかもしれないけどボクは知らない キミが付けてもいいよ】


 フラウは随分と切り替えが早い。先程までこの世の終わりみたいな顔をしていたのに、もう平然と憎まれ口を叩いている。

 腹を立てているわけではない。合理的だ。でも、揺り戻されたわたしが付いて行くのは一苦労。

 のはずなのだけど、頭は律儀に名前を探していた。


「……形而上の位置エネルギー?」

【キミさては文系だな 物理ダメだろう】


 どっちかと言うと運動エネルギーじゃないかな、なんて付け足している。


「…………」


 ずれたことを言ってしまったみたいだけど、妖精なんて非科学的な存在にそんなこと言われたくない。

 勉強は苦手だ。用語を覚えていただけでたいしたものだと思う。


【まあキミが分かりやすいように解釈してくれたらいいよ ボクだって感覚的だ】


 つまりまとめると、


「物理的にも比喩的にも、高いところから落ちるとすごい力がかかってすごく痛い。そのすごい力をかすめ取って変身するし、あのバケモノはそのすごい力を集めるために自殺する」

【よしそれでいこう】




 高度を稼げる場所を探す。だいぶ街の中心部からは外れてしまったせいで人通りすらまともにない。

 いざ高いところを探そうとしても見つからないものみたいだ。

 電信柱をよじ登るのは難易度が高いし。


「前途多難かな」

【さいわいあの『徒花』は生まれたばかりだ その力は強くない】

「それって、ど素人でも倒せるくらい?」

【うん といっても信用してくれないだろうね】


 姉のことがあると言いたいのだろう。

 何も知らないながらもフラウは、自分の責任だと捉えているらしい。


「大丈夫。最初から信じてる」

【ヒトですらないものを容易く信じるのはお勧めしないよ ボクはキミを利用していると考えてしかるべきだ】

「それ、そっくりそのままお返しするよ」

【うん?】

「ぼたんの妹だからってそうそう信頼するのはおすすめしない」


 フラウが一瞬、言葉に詰まったようだった。

【お互い様か】

「お互い様だね」



 迷い込んだのは住宅街。めぼしいマンションは入り口で侵入を阻まれた。やっと見つけたアパートの階段を二段飛ばしで駆け上がる。

「飛び降りるのも一苦労なん、だけ、ど!」


 四階に上がったころには息はすっかり上がって肌は火照っていた。


「フラウ」

【ああ】


 軋む手すりの上へはしたなくよじ登り、そのまま身体を横に倒す。

 手を離してしまった瞬間にぞくりと寒気が走った。自分が落ちていることを認識してしまった。

 この体勢でまともに落下したならば首の骨が折れるだろう。汚い落ち方をしてしまったな、とずれた後悔がよぎる。

 飛び降りる時たまたま扉を開けてしまった住人が甲高い悲鳴を上げたのが聞こえた。

 けれど、次の瞬間には彼女が目撃した飛び降り自殺まがいの少女は不可視になっているはずなのだ。

 あの人が夢に見ないといいな、とささやかに願ってわたしは光に飲み込まれた。


 光が弾け、赤いスカートがはためく中、くるりと回転し難なく着地する。

 手すりから身を乗り出し唖然と下を覗き込む目撃者に、わたしはもう聞こえもしない詫びをいれてアスファルトを強く蹴った。

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