第28話 I am a loser !

 秀司と高山が去った後、香夏子は湊とカフェに立ち寄った。本当なら景気づけに酒を一杯、という気分だが、それにはまだ早い時間だったので、コーヒーでも飲もうということになったのだ。

「実家に帰っていたんだね。ごめん、私のせいで……」

「気にしなくていいよ。どうせ明日戻ってくるつもりだったし」

 湊は香夏子の旅行用バッグを見ながら言った。やはり普段の彼女に比べると悄然としている。気の利いた言葉の一つでもかけたいが、なかなかいいセリフは浮かばない。それに何を言っても慰めにはならないような気がした。

 香夏子は普段入れない砂糖とミルクをコーヒーに惜しみなく投入し、スプーンでかき混ぜる。甘いコーヒーが飲みたいと思ったのだ。目の前の湊には悪いが、腰を落ち着けた途端、徒労感が全身にどっと押し寄せてきた。

「私、本当に死のうかなって思ったの」

 コーヒーカップを慎重にソーサーに戻してから、湊は静かに言った。

「死にたいくらい辛くて……気がついたらあんな変なメールを送っちゃってた。実際に死ぬ勇気はないけど、もし、私がいなくなったら悲しんでくれる人はいるのかな、ってそんなバカなことを考えてた。……まさか本当に捜してくれるとは思ってなくて……」

「何言ってるの。あのメール見たら誰だって心配するよ。それに死ぬなんて言わないでよ」

「私、すごく酷い人間なの。だから心配なんかされなくても当然なの」

 湊はうなだれた。彼女のどこが酷い人間なのだろうと思いながら黙って続きを待つ。

 しばらくして湊は意を決したように口を開いた。

「香夏子と仲良くなった頃のこと、覚えてる?」

「勿論覚えてるよ」

 十数年前の懐かしい記憶を頭の中の引き出しから引っ張り出す。湊とは高校二年時のクラス替えでクラスメイトになり、それからの付き合いだ。授業中、先生の話など聞かずに悩み事を語り合い、たくさんの時間を共有した日々のことが次々によみがえる。

 だが、高校時代を懐かしく思い出していた香夏子の耳に、予想外の厳しい言葉が飛び込んできた。

「香夏子って私からすればよくわからない人だった。人の悪口はほとんど言わないし、もっと仲良くなりたいと思っても香夏子のほうからは決して私の心に踏み込んでこようとはしないから、ちょっととっつきにくいっていうか……。香夏子の場合は私だけじゃなく、他人のことには全然興味ないのかもしれないけど。それなのになぜか男女どちらからも人気があって、その人柄の良さが私には羨ましかった」

 無表情で淡々と語る湊の顔を、香夏子はじっと見つめていた。まさか自分がそんなふうに思われているとは想像もしていなかったのだ。

「しかも当時は秀司と付き合っていて、文句は言いながらもいつも秀司のいいなりで、秀司もなんだかんだ言っても香夏子にべた惚れで、それもものすごく羨ましかったな。だから二人がいつまでもいいカップルでいればいいって思ってた。どんな小さな悩みも真剣に相談に乗ってさ……。ところが一年くらいして突然別れちゃった」

 香夏子の視線は自然と下に向く。

「その理由が『実は別の人が好きだった』なんて、高校生の私は親友に裏切られたと思ってすごく傷ついた。あの真剣な悩み相談は一体何だったんだ、って。秀司にも最後まで理由を言わないし、香夏子の神経を疑ったよ。こんな冷たい人だったのか、と思った。だけど、私はそれを香夏子には言えなかった。……友達を失くすのが嫌だったから」

(湊の気持ちなんて全然考えてなかったかも……)

 喉もとまで辛い気持ちがこみ上げてきていたが、グッとこらえる。更に湊は続けた。

「その頃、私は小さい頃からちょっといいなと思っていた同じ社宅の幼馴染に告白されて、付き合うことになったんだ。でも秀司の一件があって香夏子には言わなかった。しかも彼は告白してきたくせに、母親に私との付き合いを反対されて、すぐによそよそしくなった。彼の母親はセレブ意識の強い人で、いつも自分が由緒正しい血筋の人間だということを鼻にかけてたから、息子の付き合う相手もいいところのお嬢さんが希望だったみたい。私は目の敵にされて、私だけでなく家族全員が社宅全体から白い目で見られるようになってすごく辛かった。だから彼とは別れて、ちょうどフリーだった秀司に事情を説明して『彼氏のフリをしてほしい』って頼んだんだ。きっと断られると思っていたのに、すんなりOKされて驚いたよ」

「そんなことが……」

 元彼と親友が付き合うことになったと聞かされたときは、さすがに複雑な気分になった。だが秀司が湊と付き合うことで元気になればいい、と自分に都合よく考えた香夏子にはその裏の込み入った事情に気がつくはずもない。

 湊は一息つくと、香夏子を見て自嘲気味に口を歪めた。笑おうとしたが上手く笑えなかったのかもしれない。

「でも秀司に頼んだのは、いろんな打算が働いてのことだったから、後ろめたい気持ちも大きかった。実際秀司の協力で、離れていきそうな彼の気持ちを繋ぎとめることに成功したし……。秀司は私と彼がまたこそこそ会うようになっても何も言わず、そのまま高校卒業まで彼氏のフリをしてくれた。最後にどうしてこの話に乗ったのかって秀司に聞いたら『湊がカナの親友だから』だって。どこまでも香夏子のことが好きで、諦めが悪くて、まるで彼のことを諦めきれない自分を見てるみたいで、秀司のことは信用してもいいかなって思った」

(逆に言えば……私は信用されてなかったんだ)

 そう思った途端、鼻の奥がツンと痛んだ。唇を噛んで必死に涙をこらえる。

「でも、私の親友はやっぱり香夏子だよ」

 香夏子の顔を覗きこむようにして湊はきっぱりと言った。

「……湊の気持ちを裏切ったのに?」

「高校生くらいの時期って、潔癖というか、変に真っ直ぐすぎて融通の利かないところがあるでしょ。そりゃ確かにショックだったけど、大学に行っても、社会人になっても、ずっと気が置けない付き合いをしてるのは香夏子だけだもん。今は逆にこれくらいの距離がいいって思う」

 そう言ってから、少し暗い表情をする。 

「それに、死のうかなって思ったときに、まず浮かんだ友達の顔は香夏子だったし」

「秀司は?」

「秀司も親友だと思ってるけど、でもあの人はどうせもうすぐいなくなっちゃうし」

「……え?」

 湊が一瞬、まずいという顔をする。

 香夏子の目からこぼれかけていた涙が急に引いた。

「あ、いや、ほら、研究のためにまた日本から離れることもあるかも、って言ってたから」

「そっか」

 湊の言葉に騙されたフリをして、何も気がつかなかったようにニッコリと笑って見せる。

 更に取り繕うためか、湊は慌てて付け足した。

「それに秀司はやっぱり男性だし、友達って言っても、ね……」

「でも、血相変えて湊のことを捜してたよ」

「あの人は香夏子は勿論だけど、高山くんがご乱心しても同じく地球滅亡前夜みたいな必死さで助けてくれるはず」

 その姿を想像して香夏子は思わず吹き出してしまった。

 二人でひとしきり笑い合った後、湊は突然「あーあ」と大きなため息をついた。

「本当に大好きだったなぁ。どうやって忘れたらいいんだろう。それに香夏子と秀司を試すようなことまでしちゃって、私……ダメダメだなぁ」

 明るい声だったが、目から涙がポロポロとこぼれてくる。照れ隠しにコーヒーを飲もうとしたのか、湊が震える手でコーヒーカップを持ち上げると、そこに勢いよくこぼれ出た一粒の涙が飛び込んだ。

「やだな、もう。しょっぱいコーヒーなんて……」

 そう言いながら頬を伝う涙を拭いもせず、涙入りのコーヒーを飲む。

 香夏子はその様子を黙って見ていたが、ふと思い出して言った。

「さっきみたいに秀司に八つ当たりすればいいんだよ。少しはスッキリするでしょ?」

「あはは! 確かにさっきはスカッとしたなぁ。いつか言ってやろうと思っていたからね」

 湊は涙を手の甲で拭いながら「でも」と続ける。

「キミたち三人の『仲良しごっこ』……私はすごく羨ましかったなぁ。だけど、いつまでも変わらないものなんて、やっぱりこの世にはないんだよね」

(……そっか。そうなんだ……)

 冷めた甘いコーヒーを意味もなくスプーンでぐるぐるとかき混ぜた。

 香夏子は秀司のことも湊のことも大切にしてきたつもりだったが、結局のところ、彼らを傷つけている事実からひたすら目をそむけ、自分だけが悲劇のヒロインだと思い込んでいたのだ。

 ――お前らの仲良しごっこに付き合わされるのはもううんざりだ

(……そっか。そうだよね……)

 コーヒーをかき混ぜる手を止めて、フッと鼻で笑う。湊が向かい側で首を傾げた。

「私って、ホントにバカだね」

「何よ、突然」

「いや、私がなんにもわかってなかったってことが、今、少しわかった」

 湊もフッと鼻で笑い返してきた。

「今頃、何言ってんのよ。それに前にも言ったけど、香夏子が非の打ち所がない完璧な人間だったら友達になってないから」

「だけど、私……ごめ……」

 胸に様々な感情がこみ上げてきて、言葉の代わりに涙があふれ出た。湊の大きなため息が聞こえる。

「ちょっと、もう……今日は私を慰める会じゃないの? 香夏子は変なところでいきなり素直になって反省するから、かわいくて憎みきれないんだよね。アンタまでしょっぱいコーヒー飲むことないわよ。……って、アンタのは甘そうだからちょうどよくなったのかもしれないけど」

 そう言って湊は自分のコーヒーを一口飲む。

 香夏子は自分よりずっとダメージを受けているはずの湊に励まされている状況に、ますます落ち込んだ。

 気を取り直して顔を上げると、湊がクスッと笑った。

「さてと、新しい恋でも探さなきゃ。ねぇねぇ、実は私、聖夜くんが結構タイプだったりするんだけど!」

 その言葉を聞いた途端、涙は目から鼻へと瞬間移動し、慌てて鼻を押さえたが香夏子の意思に反してみっともない姿を公衆の面前でさらす羽目になった。

「ちょっ、……はなっ! 鼻水!」

「もう、いい歳して、恥ずかしいなぁ」

 湊が慌ててバッグからティッシュペーパーを取り出して、香夏子に差し出す。それを受け取り、ティッシュで鼻を押さえると香夏子は上目遣いで言った。

「でもさっき、秀司にすごいこと言ってたよね。あれって愛の告白じゃ……?」

「秀司? それはない。だって、秀司と付き合ってるときの香夏子、めちゃくちゃ大変そうだったもん」

 笑顔できっぱりと断言した湊は、時計を見ながら「それじゃあそろそろ」と帰り支度を始めた。香夏子は伝票を握り締めて席を立ち、湊を振り返る。彼女は束の間切なげな目でテーブルの上を見ていたが、想いを断ち切るように勢いよく頭を上げると胸を張って立ち上がった。


 重い荷物を引き摺るようにして、やっとのことでマンションに帰ると、真っ先にソファーに倒れこんだ。何もする気が起きない。

 香夏子は今まで自分がどれだけ周囲の人たちから助けられ、気遣われ、赦されていたのかと、様々な場面を思い起こしてはただ深いため息を漏らした。

(やっぱり、こんな私じゃ……ダメだ)

 バッグの中には聖夜のポストカードが入っているが、それを引っ張り出すことでさえも億劫だった。

(海外に行くためのお金もあるし、たぶん時間も作ればある。場所もその気になれば調べられる。でも……)

 今までも何度かその可能性を考えては否定していたが、今日はもっと根本的な部分で心が折れていた。

(聖夜に会いには……行けない――) 

 香夏子が聖夜を好きになったことでたくさんの人を傷つけてきたのだ。

 それを避けるために他人の心に深く立ち入らないようにしていたのに、まるで逆効果だった。できるならこんな自分は今すぐ消してしまいたい。

 幸せとはなんだろう?

 どうすれば幸せになれるのだろう?

(いや、こんな私が幸せになんかなっちゃダメでしょ……)

 ――香夏子、こっちに戻って来ないか?

 兄の言葉が頭の中で再生された。

 兄夫婦の幸せな家庭の光景が胸を締め付ける。香夏子にはそれがまさに理想の幸せな家族の姿だった。

 こんなに近くに幸せは実在しているというのに、自分にとっては遥かに遠い憧れでしかない。

 ついに完全な敗北を認めるときが来たようだ。

(……ていうか、恋愛も結婚も幸せも……もう、どうでもいいや)

 ようやく香夏子は身を起こした。

 電話の前に立ち、暗記している自宅の番号を素早く押す。何度かの呼び出し音の後に母の声が聞こえてきた。

「明日、またそっちに行くね」

 母は忘れ物なら宅配便で送るから来なくていいと言ったが、月曜日に職場へどうしても持って行きたいものだからと言い張って電話を切った。

 シンと静まり返った部屋を見渡して、引越しはこれが最後かもしれないな、と思う。

 一瞬、行方のわからない下着のことが頭に浮かんだが、もう捜す気力も失せていた。

(まぁ、どうせもう勝負なんかしなくていいし)

 急に憑き物が落ちたように心の中はすっきりとした。だが、寒々しいほどすっきりとしすぎてしまい、空っぽになった心の一部が少しだけ痛む。

 だがそれも気のせいだと自分に言い聞かせ、香夏子はのろのろと部屋を片付け始めた。


 週明け、香夏子は一週間ぶりに大学へ出勤した。

 たった一週間というのに、構内に足を踏み入れてから妙な気後れを感じ、そういう自分に戸惑いながら秀司の研究室へと向かった。

 挨拶しながら研究室のドアを開けると、高山が難しい顔で応接セットに腰掛けている。秀司は不在のようだ。高山の様子が気にはなるが、香夏子は普段と変わらないふるまいを心がけた。

「香夏子さん」

「はい」

 突然呼びかけられたので驚きながら振り向くと高山はすぐに視線を外した。

「先日はお疲れ様でした」

「高山さんこそ、お疲れさま。ありがとうね」

 香夏子はじっと観察していたが、やはり高山の様子がいつもとは違って変だと思う。ソファに埋まるように深く座り、背を丸めうなだれている。

 もしかすると自分が重大な決意を胸に隠しているから余計にそう感じるのかもしれないと思い、香夏子は気を引き締めた。

 しばらくして秀司が研究室に姿を見せた。

 香夏子は姿勢よく立ち上がると、改まった口調で秀司に向かい合う。

「お話があります」

「高山くん、少し席を外してくれないか」

 研究室の中には重苦しい空気が充満し、香夏子は息苦しかった。だが、もう決めたことだ。ここまで来たら最後までやり遂げるしかない。

 高山はろくに返事もせず、ふらふらと研究室を出て行った。ドアが閉まると秀司はこちらに背を向けてソファーに腰を下ろした。

「学生に何か言われたって?」

 香夏子が口を開く前に秀司が言う。香夏子に背を向けて座っているので、どんな表情をしているのかわからないが、どこか無理をして明るい声を出そうとしているような気配がした。

「誰かに聞いたの?」

「カナが休んでいる間に辞めたんじゃないかと心配した生徒が教えてくれた。アイツ、カナに気があるのかもな」

 あのときトモミをたしなめた金髪の男子生徒だろうか、と香夏子はぼんやり思う。

「それで違和感だのワンコだの、わけのわからないことを言ってたんだろ」

 秀司は努めて軽い調子で言った。その空々しい感じが秀司には似つかわしくない。

 何か変だと思うが、今までの奥歯に物が挟まったような言い方はやめて、香夏子の素直な意見を言った。

「それはきっかけで、本当は最初から違和感あったよ。私が学校にいたのはもう十年近く前のことだし、それに私は教員でもなければ生徒でもなくて、ぶっちゃけいてもいなくてもいいような存在だし」

 一旦言葉を切って秀司の様子を窺うが、身動き一つせず、聞いているのかいないのかもよくわからない。反応が見えないのが怖いが、この状態で沈黙が訪れるのはもっと怖かった。香夏子は急き立てられるように言葉を続ける。

「私、どうして秀司も高山さんも何も言わないんだろうって不思議だった。ノックも挨拶もしないで研究室に入ってきて、教員に対して友達感覚で接する生徒を見てると、私は無性にイラッとくるんだけど、でもここではそれを誰も何も言わない。そのうち、ここにいる人はみんなそれが普通で、それを異常だと感じる自分が異質なんだと思うようになったの」

「なるほど」

「秀司は平気なんでしょ」

「俺がどう思うかは別として、ここでの俺の仕事は生徒に挨拶や道徳を教えることではない」

 香夏子はやっぱりと思いながら深いため息をつく。そして覚悟を決めた。

「秀司の言っていることは正しいかもしれない。でも私は違う」

 しばらくしてから秀司は腕を組んでソファの背もたれに身を預けた。

 それを契機に香夏子は一気に言った。

「大変勝手なことを申し上げますが、今日でここを辞めたいと思います」

「そうか」

 乾いた声がした。

 気まずい沈黙の時が流れる。

 先に口を開いたのは秀司だった。

「日本に帰ってきたのは、カナに会うためだった。もう一生会わないつもりだったが、母親が聞きたくもないのにせっせとカナや聖夜や近所の情報を送ってくる。忘れようにも忘れられない。母親に釘を刺すついでに、自分の気持ちにもピリオドを打とうと思って戻ってきたんだ。だから再会したのは偶然じゃない。カナを捜していたんだ」

「そ……う」

 ぎこちなく返事をする。秀司は香夏子に背を向けたまま更に続けた。

「十年ぶりに会ってもカナは相変わらずふわふわとして地に足が着いていなくて、俺の性分からして黙って見ていることができなかった。聖夜を好きだと認めたところまでは進歩だと思うが、聖夜も聖夜で相変わらずはっきりしない。俺がいなくなればめでたしめでたしのはずが、十年経ってもいいお友達をやってるとは、呆れて開いた口が塞がらなかった」

「それは……」

「俺は何のためにカナを諦めようとしていたのか、わからなくなった。しかも聖夜は肝心なところでいなくなりやがって……」

「あの、それはね……」

「だから、思いつく限りの悪口をメールで送りつけてやった」

「……はぁ?」

「そしたらあのヤロウ、ケータイを壊しやがった!」

「えっ? 聖夜のケータイが壊れたの知ってたの?」

 香夏子の身体は勝手に動いて、気がつけば応接セットの前に立ち、秀司に向かい合っていた。

「当たり前だ。『ケータイを水没させるから、ついでにすべて水に流してやる』とご丁寧に予告メールが来たからな」

 口がポカンと開いたままになっていたことに気がついた香夏子は慌てて表情を繕う。

 秀司は初めて香夏子と目を合わせた。

「俺は今月でこの大学を去ることになった」

 香夏子は秀司を見つめたまま、微動だにせずただ瞬きを繰り返した。

「驚かないな。湊に聞いたか?」

 うんとは言えず、黙って秀司から視線を外す。

「日本に長くいるつもりはなかったこともあって、以前所属していたアメリカの大学に少し前から頼んでいたんだが、昨日学会のために来日していた大学の関係者から、来月から受け入れてもらえることが正式に決まったと報告された」

「来月って、残り半月しかないじゃない。受け持ってた講義は? 卒論指導は? それに既に決まってる講演会とか……」

 秀司はフンと鼻で笑った。

「そんなもの、別の教員が引き継いでくれる。講演会はその日に戻ってくればいいだけの話だ。それに今日でここを辞めるカナが心配するようなことじゃない」

「そんな……」

「本当はカナを無理矢理向こうへ連れて行こうと思っていた。俺に何パーセントかでも可能性があるのなら、聖夜の手の届かないところへ連れて行こうと。だが……」

 秀司はソファーから立ち上がって自分のデスクへ向かった。鍵のかかった引き出しを開けると中から一枚のカードを手に取って戻ってくる。

(もしかして、ポストカード?)

「見てみろ」

 手渡されたポストカードには香夏子の元に届いたものと同じ読みやすい綺麗な文字が並んでいた。

 ――カナはカナのものだ。

 ポストカードを持つ手が次第にブルブルと震え、文字もぼやけてよく見えなくなってくる。

 秀司の出版記念パーティーで秀司と聖夜が言い争いになった場面が脳裏によみがえった。「カナは俺のものだ」と言った秀司に、聖夜は「カナはもともとお前のものなんかじゃない」と冷静な声でたしなめていた。

(その続きが……この言葉?)

 わかりきった当然の言葉が香夏子の空っぽの心にストンと収まり、胸の中をじわりじわりと温めていくのを感じた。

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