第15話 He gets angry at me !

 聖夜がフイと視線を外したことで、香夏子もようやく金縛りから解放される。

 胸がズキズキと痛んだ。以前から聖夜が何を考えているのかよくわからなかったが、それは表向きが穏やかな場合の本音であって、今回のように機嫌の悪いことを隠さず香夏子にぶつけてくるようなことは、長い付き合いの中でも記憶にない。

(怒ってる……よね?)

 また頑なに視線を合わせようとしない聖夜をちらちらと気にしながら、せっかくの同窓会だというのに香夏子は最初から暗澹たる気分になった。

(一応、覚悟してきたつもりだったけど、予想以上にしんどいな……)

 深い嘆息を漏らし気持ちに区切りをつけたところで理恵と横井の話に耳を傾けた。

「でも彼女みたいな女性って逆にハードル高いでしょ。もし俺が彼女と付き合えたとしてもその先ってことになると問題が多すぎるし」

「うーん、そういうもん?」

「だって彼女、Y社でしょ? 会社辞めて俺と結婚するほうを選ぶとは思えない」

 二人の話題に香夏子の脳は敏感に反応する。彼女というのは奥野なつきのことらしい。理恵は納得のいかない顔で訊いた。

「Y社を辞めなきゃ横井くんと結婚できないっていうのがよくわかんないけど」

「俺、結婚していきなり別居生活とか無理だし」

 横井の家は地元では有名な和菓子の老舗だ。横井はその三代目になるべく他店での修行を終え、今は実家で父親の下で経営を学んでいるらしい。もし、なつきと結婚したいと思えば乗り越えなくてはならない問題があるのは確かである。

「それに俺は奥さんには家にいてほしいからさ。意外と古風なの」

 そう言って横井は理恵と香夏子を順に見た。

「どこが意外なんだ? 見るからにお前は古い考えの持ち主だろうが」

 低い冷静な声がして香夏子は慌てて振り返った。

「秀司!」

「おっ! ようやく主役の登場かよ!」

 周囲の声を無視して秀司は香夏子の腕を掴むと横井の傍から引き剥がすように自分のほうへ引っ張った。

「つまり大手企業に勤めるプライドの高そうな女性は地元の和菓子屋の嫁には来ないだろうと最初から横井は諦めているわけだ」

 秀司は横井に向かって挨拶もせずに言い放った。

「まぁね。最初はよくてもお互い不満が出てきて長続きしないだろうし。それなら最初から香夏子ちゃんを口説くよ」

 突然名前が出てきて香夏子は驚きながらおそるおそる横井を見る。何か裏がありそうな横井の笑顔に頬が引きつった。

「わ、私だって一応Y社を受けたんですけど。……勿論、落とされたけど」

「アハハ!」

 横井の心底愉快そうな笑い声に内心傷つきながらそっと顔を横井から背けると、自分のすぐ横から声がした。

「カナは自分のことがまったくわかっていない。そもそもY社は畑違いだろう。就職を希望すること自体が間違っている」

 秀司の言葉にカチンと来た香夏子は自分の隣を見上げてキッと睨む。

「うるさい! 当時は求人自体が少なかったんだもん。下手な鉄砲だって数打てば当たるかもしれないでしょ? 秀司みたいな人には私の気持ちなどわからないのよ!」

 上から軽蔑の視線が降ってきたところで、場内に同窓会の開始を宣言する幹事の声がマイクを通して響き渡った。すぐにレストランのサービススタッフが飲み物のグラスを載せたトレイを運んでくる。香夏子もシャンパングラスを手に取った。

「乾杯!」

 グラスを軽く傾けながら、聖夜のいる方向へ何気なく視線を向けた。聖夜はビールを手に四、五人の男性のグループで談笑している。少し安心して今度はなつきの姿を探すと、彼女は昔から仲良くしていた女子グループのメンバーと並べられた料理の品評に忙しい様子だった。

 ビュッフェスタイルで各自好きな料理を選び、好きな席に座って歓談してよいと幹事から説明があり、香夏子も早速皿を持ち、理恵と一緒に料理を選びに行った。食べたいものだけ皿に載せて座る席を探す。特に話をしたい人がいるわけでもないので、誰もいないテーブルに向かった。

「カナちゃん、それしか食べないの?」

 山盛りの皿を手にした理恵は香夏子の向かいに陣取りながら香夏子の皿を見て感想を述べた。

「後からおかわりするよ」

「あ、そっか。また取りに行けばいいんだよね。欲張っていっぱい持ってきちゃった」

 理恵はそう言って舌を出した。彼女は人懐っこく、性格もさっぱりしていて付き合いやすいが、昔は少しませたところのある中学生だった。同級生の中では真っ先に結婚しそうなタイプだと密かに分析していたので、三十路を越えた今も理恵が独身だと聞いて香夏子はかなり驚いた。先ほどまでの理恵の話によるとやはり同級生の女子の半数は既婚らしい。

「理恵ちゃんは結婚とかって……?」

 語尾を濁しながら香夏子は理恵に訊ねた。理恵はクスッと笑いながら飲み物を口にする。

「相手さえいれば私はいつでもオッケーなんだけど、どうも好きになる人が結婚に向かない人ばかりでね」

 香夏子は眉を上げて意味がわからないという表情をして見せた。すると理恵は困ったような顔をして声を潜める。

「無職の男とか……」

「ああ」

 香夏子も理恵につられて困った顔になった。

「そういうカナちゃんは? 昔からモテてたからもう結婚してるのかと思ってたよ」

 理恵は気を取り直したのか興味津々というように身を乗り出し気味にする。香夏子は返事を考えながらグラスを手に取った。

「モテてないから今も売れ残ってるよ」

「彼氏はいるんでしょ? あ、もしかして丹羽くんと?」

 囁くような理恵の声に香夏子は目を丸くしながら小刻みに首を横に振る。

「彼氏なんかいないよ」

「じゃあ好きな人は?」

「……いる、かな?」

 理恵は香夏子の答えに満足したように笑顔を見せた。そしてまた料理を口に運ぶのに専念する。

 その様子を見ながら香夏子はふと、昔、理恵が言った言葉を思い出していた。

『好きな人とエッチすることを想像してみて、できると思えたらそれが本当に好きな人なんだって』

 好きに本当も嘘もないだろう、と今なら思うが、中学生の香夏子は恋愛がどういうものかも知らない少女だった。どこかから聞いてきたらしい理恵の話を香夏子は真に受け、生々しい男女の行為を想像して真っ赤になったものだ。

(でも、確かにそれは当たっていたな)

 香夏子はグラスの中の液体をぐいと飲み干すと「おかわり貰ってくる」と理恵に告げて立ち上がった。

 今度はビールを貰って席に戻る。途中で秀司の姿が視界に入って、胸を締め上げられるような切なさが香夏子を襲った。

『ごめん。私、もう秀司とは……できない』

 嘘をつきとおすには若すぎた昔の自分に気が滅入る。ため息が知らずに漏れて、香夏子はますます憂鬱になった。

「浮かない顔してどうした?」

 横井がいつの間にか香夏子の前に立っていて、顔を覗きこんでいた。

「なんでもない」

「ねー、こっちで飲もうよ」

 横井は香夏子の返事も聞かずに背中を押して別のテーブルへと誘った。仕方なく言われるままに腰を降ろした。

「さっきは邪魔が入ったけど、実は本気だったりするんだよね」

「は?」

 香夏子は口を付けていたビールのグラスを慌ててテーブルに置いた。向かい側からじっと見つめる視線が鬱陶しいくらいに熱い。さすがの香夏子もこれはよろしくない展開だと察知する。

「香夏子ちゃん、俺と結婚を前提に付き合わない? 自分で言うのもなんだけど、そんなに悪い条件じゃないと思うんだ。嫁さんに仕事を手伝わせる気はないし、両親と同居もない。どう?」

「どう……って、横井くんは好きな人いないの?」

「いるよ、目の前に」

「冗談はやめて」

「俺、香夏子ちゃんのこと、好きだったよ。これは本当の話。香夏子ちゃんは彼氏とかいるの?」

「……いない」

「じゃあ、いいじゃん」

「でも、好きな人はいる」

 横井の強引な誘導を断ち切るために香夏子は切り札を出した。予想通り横井の表情が一瞬にして冷める。

「嘘だ」

 信じられないという顔で横井は香夏子を凝視した。

(私に好きな人がいるのはそんなに驚くべきことなの?)

 香夏子は相手の自分に対する認識を大いに疑う。横井は自分を何だと思っているんだろう。

「その相手とは上手くいきそうなの?」

「そ、それは……」

 横井の顔にまた微笑が戻った。まずい、とは思うが出てくるのは冷や汗ばかりだ。

「香夏子ちゃんだってそろそろ結婚とか考えたりすることあるでしょ?」

 年下の子に言い含めるような優しい口調に、香夏子の足元からぞわぞわと寒気が這い上がってくる。心を奮い立たせるためにビールをぐいっと喉の奥に流し込んだ。

「そりゃあるけど、私は結婚するなら好きな人がいいの。好きな人とじゃなきゃ結婚したくないの。そうじゃないと幸せにはなれないって思う」

 威勢よくきっぱりとそう言って挑むように横井を見ると、同情するような視線を返された。

「香夏子ちゃん、それは誰でもそう思うさ。だけど実際に結婚することを考えたら、そんな綺麗ゴトだけを言ってられないってのも事実だろ? 例えばどんなに好きでも相手が働かないヤツだったり、多額の借金背負ってたり、口うるさい姑がいたり、好きイコール結婚ってわけにはいかないのが三十路を過ぎた俺らの現実」

 香夏子は理恵のことを思い出し、視線をテーブルに落とす。反論が思いつかないので仕方なく黙って続きを聞いた。

「だから結婚したいと思っても、条件の合う相手を探すのが大変なんだよ。そして更に一生を共に過ごしたいって思える人となると、出会える可能性はほとんど奇跡に近い。俺と香夏子ちゃん、これはまさに奇跡的な運命の出会いだろ?」

「よくそんな恥ずかしいことを言えるね。誰にでも言ってるんじゃない?」

 フンと鼻で軽く笑いながら香夏子は受け流した。彼の言うことを否定するのは難しいが、だからといって自分たちが似合いのカップルだというのはどう考えても我田引水だ。

「それはない。香夏子ちゃんはマジで俺の理想に近い女性なんだ」

「でも、私は……」

 言葉の続きを探して視線が彷徨った先に、秀司となつきが楽しそうに顔を寄せ合って話す姿があった。頭の中が一瞬白くなる。何を考えていたのかも香夏子にはわからなくなった。

「ああ、そういえば奥野さんは秀司の『好きな女子ランキング』で二位だったよな」

 横井が香夏子の視線の先を追って言った。

(バカバカしい! 何十年前の話よ?)

 頭の中ではそう思っても視線が秀司となつきから離れない。なつきを見る秀司は見覚えのない柔和な目をしていた。

「やっぱりランキング一位の香夏子ちゃんとしては気になる?」

「ぜんっぜん気にならない!」

 香夏子は横井を見てにこやかに微笑んだ。それからビールの残りを一気に飲み干す。空のグラスをテーブルの上にドンと置くと横井がそれを持って立ち上がった。

「おかわり持ってくるよ」

「ありがとう」

 優しいところを見せて点数稼ぎのつもりだろうか、と小さくため息をついたところで、向かいの席に誰かが腰を降ろした。横井がもう戻ってきたのか、と目を上げて香夏子は驚愕のあまり叫び出しそうになった。

「元気そうじゃん」

 感情のこもっていない乾いた声が耳に届く。鳥肌が立った。その声ですら香夏子には特別なものに聞こえるのだから、もうどうしようもないと思う。

 向かい側に座った聖夜は頬杖をついて呆れたように嘆息を漏らした。

「あの……」

「秀司のところは居心地がいい?」

 香夏子は口を中途半端に開けたまま絶句した。心臓の辺りがズキズキと痛む。何か言わなければならないと思うが、気持ちが焦るばかりで言葉が出てこない。

「違うの、私……」

「知ってるよ。秀司の秘書だかなんだか知らないけど、アイツのお世話してあげてるんでしょ?」

 聖夜は普段より鋭い目つきで香夏子を射すくめる。

 まさに蛇に睨まれた蛙の香夏子は、この非常事態にもかかわらず、心の中では聖夜が自分のところへやって来てくれたことに対して感激していた。だが、他方では聖夜の機嫌を損ねているのが自分であることを自覚して恐縮もしている。

 様々な感情が一度に去来したために香夏子の胸の内側はパニックになっていた。

「誰に聞いたの?」

 とりあえず思いついたことを口にした。聖夜はその香夏子の様子をじっと観察する。

「秀司」

「え?」

「カナが飲みすぎて倒れたこともわざわざメールで教えてくれたしね」

「秀司が?」

「他に誰がいる?」

(知って……たんだ!)

 香夏子は目の前の男性を見つめた。よく見たところで彼が何を考えているのかなどわかるはずもない。それでも見ずにはいられなかった。

「だから連絡くれなかったんだ」

「……どっちが?」

 吐き捨てるように言って、聖夜は香夏子から目を背けた。

(どうしよう……)

 これほどあからさまに聖夜から負の感情をぶつけられたことがない。香夏子は一応覚悟はしてきたつもりだったが、実はこの場所に来るまで聖夜が本気で怒ることなど想像すらしていなかったのだ。

(そういえばあの店員さんも聖夜が怒ったって言ってたな)

 それなのに香夏子は聖夜が自分に対して怒るわけがないと勝手に思い込んでいたようだ。

「……ごめんなさい」

「何が?」

 冷たい声が即座に返ってきた。香夏子の心は震え上がる。

「何か俺に謝らなきゃならないようなやましいことでもあるの?」

「ちがっ……」

 そこに突然明るい声が割り込んできた。

「おい聖夜、どけろ! 俺、まだ香夏子ちゃんを口説いてる最中なんだよ」

 グラスを両手に持った横井が聖夜と香夏子を見比べる。険悪な雰囲気を察したのか、横井の眉が皺を刻んだ。

 面倒くさそうに聖夜が横井を振り返った。

「悪いけど、口説くのは他の人にしてくれ。どんなに頑張ってもカナはお前の嫁にはならないから」

「何? お前も香夏子ちゃん狙い?」

 横井が親しげに聖夜の肩に手を回しながら言った。だが聖夜の表情は変わらない。

「いいから、どっか行けよ!」

「コイツ、何、怒ってんだ?」

 香夏子のほうを見て横井は首を傾げたが、香夏子はただ息を詰めて聖夜の様子を見守ることしかできなかった。

「ほっとけ!」

 聖夜は静かに、しかし凄烈な調子で横井に言葉を投げつけた。横井は香夏子におどけたふうに肩をすくめて見せてから、自分のグラスだけを手にしてテーブルから離れた。

 再び、香夏子は聖夜と向き合うことになった。

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