第11話 Who is The Sleeping Beauty ?

 翌日は日曜日だったので、とりあえず新居を住めるように片付けた。

 それから時計を見て、勇気を奮い立たせて家を出た。

 マンションから通りに出ると駅までは一本道だ。引越しの際は無我夢中で周りの店などまるで眼中になかったが、駅のそばには夜遅くまで開いている大きめのスーパーもあり、何とか生活はできそうだと安心する。

 そして電車に乗って聖夜のマンションへ向かった。


 たった一日ぶりだというのにマンションを目前にして、建物自体が香夏子を拒絶しているような気がして足が急に重くなる。もう一度時計を見た。この時間なら確実に聖夜は仕事中だ。

 えいっ、と気合を入れて一歩踏み出した。あとは急かされるように聖夜の部屋へ向かった。

 今日はきちんと鍵がかかっていた。ホッとしながらドアを開ける。当然かもしれないが、あの黒い靴はなかった。

 おそるおそる部屋へ入ると急に懐かしさがこみ上げてきて、一瞬立ち止まった。部屋の中は特に変わったところはないようだ。

 見たくはないが寝室のほうへ視線を向ける。引き戸が開けっ放しになっていて、この部屋も香夏子がいたときと何も変わっていない。それでもなるべく余計なところを見ないようにして自分の着替えやメイク道具をバッグに詰め込んだ。

 最後に忘れ物はないかと振り返って確認する。もうこれで自分がいた形跡はないはずだ。そう思った途端、涙が出た。慌ててそれを拭い、逃げるように部屋を後にした。

 エレベーターで一階に降りると合鍵をあらかじめ用意してきた封筒に入れ、郵便受けに落とした。


 あとは会社を円満に辞めるだけだ。

 香夏子は就寝前に退職願をしたためた。事前に上司に相談しておいてよかったな、とあらためて思う。香夏子を上手く丸め込んだと思っている部長の反応が怖いが、もう秀司の秘書を引き受けると決めてしまったのだ。今度はもう無理に引き止めることもないだろう。それでもしつこく引き止められたら、最後の切り札として森田のことを持ち出してやると心に決めてベッドに入った。


 翌日、香夏子は出社するとすぐに寝ぐせの目立つ課長をつかまえて退職願をちらつかせながら「お話があります」と切り出した。

 課長はさすがに驚いて「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待て」と言いながら宥めるような手つきで香夏子にその場で待つように指示する。それから小走りで部長席に駆け寄った。部長は香夏子の姿を視界に捉えると小さく頷き、香夏子に見えるようにフロアの外を指差した。おそらく会議室へ来いということだろう。

 会議室に入ると香夏子は勧められるまま手前の席に腰かけた。

「それで、先日お話したようにやはり会社を辞めたいと思います」

 香夏子は真剣な顔つきで用意してきた退職願をテーブルの上に置いて部長のほうへ差し出した。

「そうか。辞めてどうするか決めたのか?」

「はい」

 思えばこの会社に就職したのも明確な意志があってのものではない。正直なところ就職できるならどこでもよかったのだ。勿論、香夏子が就職活動をしていた時期は求人の少ない厳しい時期だったこともある。だが、それ以前に香夏子には自分でも何をしたいのかがよくわかっていなかったのだ。

(今もよくわかってないけど……少なくともこの会社で働き続けることではないな)

 こんなことを秀司に言ったら、今頃気がつくなんて遅すぎるとバカにされそうだ。それでも気がつかないでいるよりはマシだ。

 部長に訊かれるままに次の就職先を決めたことを正直に答えた。意外にも秀司の名前を出すと部長も課長も大げさに驚いて見せた。

「あの大学の先生の秘書? すごいなぁ!」

「課長もご存知でしたか」

「そりゃもう、ウチの奥さんが先生のファンだからさー。ね、サインとかもらえない?」

「それは……難しいかもしれないです。気難しい人なんで」

「え? そうなの? 知り合い?」

「ええ、まぁ……同級生なんで」

「ほぉ! そりゃすごいなぁ!」

(何がすごいのか全然わからないけど)

 課長の大げさな反応に内心うんざりしながら香夏子は部長に向き直った。

「それで、早期退職の要件を満たしているでしょうか?」

「そうだな。申請が通るよう私も尽力するよ」

(やった!)

 これで万が一、秀司のところで上手くいかなくてもしばらくは路頭に迷うこともないだろう。

 新しい生活が始まる。そう思うと胸がわくわくして自然と笑顔になった。

「身体に気をつけて、な。何かあったらいつでも連絡しなさい」

 部長と課長と順に握手をした。十年近く勤めてきた会社をいざ去るとなると、やはり寂しく名残惜しい気持ちが押し寄せてくる。

 その日、昼休み明けに部署で臨時の集会があり、香夏子が辞めることが発表された。有給消化のため明日以降は出社しない。香夏子の周囲の席からは驚きと惜しむ声が上がったが、とはいえ明日から仕事が各々少し増えるだけで、香夏子がいなくなっても業務に支障はない。そのことは少し悲しいが、だからこんなわがままも通るのだ。自分の代わりなどいくらでもいるということを、部署の人間を前に挨拶しながら痛感した。


 花束などをもらい会社を出ると、まず秀司に電話した。

「カナにしてはなかなか素早い行動だな。ではこれから俺の研究室に来い」

「これから!?」

「明日は学会で出張だ」

 ため息を一つ大きく吐き出すと香夏子は言われたとおり大学へと向かった。

 既に暗くなってきているが、大学周辺は学生の姿が多い。すれ違う学生たちを見ていると突然自分がものすごく歳を取ったように感じるが、気を取り直して構内へと歩を進めた。


 指定された部屋のドアの前に来た。秀司の名前が入っているので間違いなく彼の研究室だろう。ノックをすると、秀司ではない男性の声が返ってきた。

「ああ、いらっしゃい! 香夏子さんですよね?」

 ドアを開けてくれたのは香夏子や秀司よりは少し若い学生風の格好をした男性だった。

「どうぞどうぞ。あ、先生は今、会議中ですがすぐ戻ってきますよ」

「えっと……」

 香夏子はその男性の顔をまじまじと見た。

「あ、僕? 高山彰浩(たかやまあきひろ)といいます。ドクター二年目で今は丹羽(にわ)先生の弟子を勝手に名乗っています」

「弟子……」

 秀司の苗字は丹羽だが、先生というのがどうもしっくりこない。しかもこの高山は秀司の弟子だという。

「香夏子さんって確かに童顔ですね。先生と同じ歳でしょ? この前はあまり感じなかったけど」

 高山が香夏子の顔を観察するような目で見た。

「この前?」

「ええ、ほら、飲み屋で先生に助けてもらったでしょ? あのとき僕もいたんです。あんなところで倒れるなんて、狼の群れの中で自ら生贄に志願するのと同じですよ」

 香夏子はカーッと赤くなり、思わず手で頬を覆った。今まで考えてもみなかったが、あの場で自分の失態を目撃した人間はかなり多いのだろう。職場でそのことを言われなかったのは、誰も秀司に気がつかなかったのか。

「あのとき先生は香夏子さんを自分の妹ですって言って連れて帰りましたけど、誰も何も言いませんでしたね」

「言わなかったんじゃなくて、言えなかったんじゃない?」

 香夏子がそう言うと、高山はプッと噴き出しながら同意する。

「それはあるかもしれないですね。先生のオーラが『香夏子は俺のもの』って感じでしたから」

「違います!」

 応接用のソファから勢いよく立ち上がって香夏子は叫んだ。

「まぁ、落ち着いて。わかってますって」

(何をわかっているのよ!?)

 高山を思い切り睨みつけたが、当の本人は涼しい顔で香夏子を見返した。

「香夏子さんは先生ともう一人、聖夜さんと幼馴染なんですよね?」

「……そう、です」

 ストンと腰をおろした香夏子を高山は満足そうに見る。

「それで香夏子さんは聖夜さんが好きで、先生は大昔香夏子さんにこっぴどくふられた」

「こっぴどく……ってことはないと思うけど、それ、誰に聞いたんですか?」

「湊さんです」

(湊……)

 香夏子は眉をひそめた。こんなところまで来て自分たちのことをペラペラと喋っているのかと思うとムカムカしたが、それを極力顔には出さないように胸の内に押しとどめる。

「湊はここによく来るんですか?」

「いえ、来てくれたのは先日の一度きりですよ。仕事で外出した際に近くまで来たから、とおっしゃってました」

「そう……」

「あ、湊さんを責めないでくださいね。根掘り葉掘り聞いたのは僕なんです。だって先生の恋人かと思ったら違うって言うから、それじゃあどういうお知り合いですかって……」

 この高山という男は、よくいるご近所の噂好きオバサンと同類なのだろう。放っておいたらいつまでも一人で喋っているに違いない。それに彼の前でうっかり口を滑らせたら大変なことになる。香夏子は不安になってきた。

「それにしても、湊さんって美人ですよね。はっきり言って僕のタイプです」

(そんなこと誰も聞いてない!)

 香夏子は曖昧な表情で頷いた。

 すると高山は不意に香夏子の正面に立ち、覗き込むようにしてまじまじと見つめてきた。

(……何!?)

「香夏子さんって、やっぱり……」

 そこで一旦口を閉ざして高山は近くにあった椅子に腰掛けた。そしてニッコリとしながら更に続けた。

「香夏子さんはいわば『眠り姫』なんですよ」

「……は?」

 香夏子は首を傾げて高山を注意深く見た。彼は腕を組んで微笑を絶やさない。

「または『眠れる森の美女』などと呼ばれる物語をご存知ですか?」

 高山が何を言わんとしているのか皆目検討もつかないが、とりあえず頷く。

「魔女にかけられた呪いによって錘(つむ)が刺さった王女は百年の眠りにつくわけですが、彼女がどうやって目覚めたのか、覚えていますか?」

「……王子のキス、でしょ?」

「そうです。ではその王子がどうやって王女の元へやって来たのかは?」

「……茨をかき分けて?」

 高山はクスリと笑った。

「アニメはそうでしたね。でもグリム版は違う。茨はもうなかったんです」

「え?」

「なぜなら王子がやって来たのは百年後、呪いが解けた後だったからですよ」

「そうなの?」

「そうですよ。まるで自分のことのようだと思いませんか?」

 香夏子は目を見張った。

「……どこが?」

「香夏子さんを眠りから覚ましたのは聖夜さんでしょ?」

「はぁ!?」

 訳がわからず素っ頓狂な声を上げてしまった。

「何を言いたいのか全然わからない」

「つまり、香夏子さんは先生の毒気にあてられて眠りについた。それを聖夜さんが起こしたというわけです。要するに、一番重要なのはタイミングだということですよ。ウチの先生はそれがわかっていなかったために損な役回りを演じているんです。本人がどこまで自覚しているかは知りませんけど」

「それって、高山さんの推測ですか?」

「勿論、すべて僕の独断と偏見に満ち満ちた推測です」

 自信満々に胸を張って高山は答えた。香夏子は呆れて物も言えない。

 また不意に高山は立ち上がり、香夏子に近づいて顔を寄せた。

「でも目覚めたばかりのあなたは今まさに大輪の花を咲かせているわけですよ。フェロモン垂れ流しの状態なんです。だからいろいろな男が寄ってくる。まぁ、ちょっと咲くのが遅すぎたかもしれませんが」

(し、失礼な!)

 そう思った瞬間、予告なしにドアが開いた。

「高山くん、カナの半径一メートル以内に近づくな」

 秀司が眼鏡を押し上げた。一瞬表情が読めなくなって香夏子は焦る。

「はいはい。安心してください。僕は香夏子さんより湊さんに興味があるんで、香夏子さんを口説いたりしませんよ」

 高山は降参のしるしか両手を顔のあたりまで挙げて見せる。

「湊も高山くんには無理だ」

 そっけなく言い放って、持っていた書類を机の上に置いた。それからようやく秀司は香夏子を見た。

「明日からこの部屋に来て、高山くんの戯言をBGMに電話を取ったりメールの応対など外部とのやり取りをしろ。その他適宜指示を出す。以上」

「『以上』って何よ? それで説明終わり?」

 香夏子は立ち上がり、既に背中を向けている秀司に食ってかかった。

「明日までに机とパソコンは用意しておく。他に必要なものは?」

「愛!」

 ここぞとばかりに高山が割り込んできた。香夏子は頭痛がした。もう何も言う気になれない。

「高山くん、学会でもその勢いで弁舌をふるって早く世界に羽ばたいてくれ」

 秀司がニヤリと笑って見せた。高山の顔が青ざめたようだ。小気味よい。

「先生、僕はいつでもどこでも先生の味方ですよ。先生が聖夜さんから香夏子さんを奪還するのを見届けてから世界に羽ばたこうと思ってますんで……」

 言い方は控えめになったが、まったく反省の色が見えない。最初から秀司の弟子を名乗るくらいだから相当なツワモノだと思っていたが、高山は香夏子の想像をはるかに超える人物のようだ。

 おそるおそる秀司を見ると、黙って高山を眺めていた。

「先生……?」

「香夏子は聖夜のものじゃない」

 ズキっと胸が痛んだ。事実は残酷に香夏子の心を切り裂く。

「アイツは……バカだ」

(アイツ……って聖夜のこと?)

 香夏子は秀司の表情に不思議な色を見た。今まで見たこともない感情を押し殺した苦い顔だ。

 だが、すぐに秀司は背を向けて机に向かった。何もかもを拒絶するような空気にさすがの高山も口を閉ざした。

 しばらくその背中を見つめていたが、高山が退室するのに便乗して香夏子も秀司の部屋を出た。

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