怪異妙奇譚伝

片宮 椋楽

壹譚目〜即白骨〜

「明日は10時でいいんだよね?」


 サヤは顔を横に向けると、腕を後ろにし、覗く仕草をした。顔を向けられたアヤも「うん」と同じく横を向き、縦に頷いた。表情は柔らかい。


 2人とも黒を基調とした上下の中に襟や袖に白の線、胸元に赤いセーラースカーフという最近ではあまり見ない古風なセーラー服を着て、肩には濃紺のスクールバッグをかけている。歩くたび僅かに軽やかに揺れる。

 格好もそうだが、目的も同じだ。互いの自宅へ帰ること。


「今日は早く寝なよ、前みたいに遅れないようにね」白い歯を見せながら茶化すアヤ。


「余計なお世話だよ〜だ」


 サヤは赤い舌を少し出し、クシャリと顔を歪めた。意識せずだが、お互い変顔。見合った2人は、示し合わせたように笑い合った。


 十字路に差し掛かる。2人は立ち止まり、互いに向き合った。


「じゃあまた明日ね、サヤ」


「うん! バイバーイ」


 アヤは右、サヤは左へ半回転し、そして歩き出す。




 しばらく歩いて、サヤは「フッフフフッフッフー」と鼻歌を口ずさみ始める。好きなアーティストの既存曲であったり、適当に作った即興曲であったり、その時の気分でバラバラ。即興で作ると言っても音楽知識は皆無。しかしサヤは、これまで色んな曲を聴いてきたから、なんとなくでも行けるだろうという思っていた。


 1人であれば、つい行ういつもの癖だった。つまり、外であっても1人ならば構わず。だから、これまでに気づかなかっただけで人がそばにいたことは何度も経験していた。自制しなければいけないと思っているし心がけているのだが、癖というのは厄介なものでなかなか治らない。ふと気を許した瞬間に表に出てきてしまう。


「フフフッフフー」


 そこで、サヤは歌うのをやめた。ふと頭をよぎったのだ。もしかしたら誰かいるかも、と。時刻は夕方6時。仕事や学校帰りの人がいても何らおかしなことはない。


 左肩にかけたスクールバッグをかけ直し、辺りを確認しようとするサヤ。勿論、さりげなく。

 だが、動きはすぐに止まる。見ることをやめた。というか、できなかった。

 背後から妙な気配を感じたからだ。得体の知れない何かが背中にまとわりつこうとしている、じめっとした奇妙な気配。しかもそれは明らかに自身へ向けられていた。そう感じた。思わず背に悪寒が駆ける。


 昔、あのストーカーに襲われそうになったことがある。その時も背後からの粘着質な気配を感じ、その異様さに身が恐怖で包まれた。


 だが、今回のはちょっと違う。いや、かなりだ。


 何が違うのか。答えは足音だ。足音が少しも聞こえないのだ。

 気付かれぬよう歩くのだとしても、靴が地面と微かに軋む音など多少は聞こえるはずだ。なのに今回は聞こえなかった。前進にしろ後退にしろ左右に隠れるにしろ、歩む行為で発生するはずの物音的が一切。


 つまり、サヤは今、背後からは気配だけしか感じられない状態なのだ。


 何なの、一体……サヤは頭の中でそう呟くが、歩くスピードは緩めなかった。鼻歌も再開する。下手に慌てるよりは平常心を保っているという自分への嘘をついた方が落ち着けるし、もし気づいたや気づいている態度を後ろの誰かに見せてしまったら、何をしてくるか分からないと思ったからだ。以前の経験から、自分の身に危険が及ぶ可能性があるということを教訓として持っていた。

 しかし、このまま気づかないフリをし続けていても危険であるという今の状況が改善されるわけではない。あくまで悪化しないというだけ。何か策を打たなければいけないことには変わりはなかった。


 だから、サヤは策を考えた。それはどこかの角を曲がった瞬間に全速力で逃げること。単純ではあるが、今はこれが最善である、とサヤは考えていた。実のところは、下手に叫んでもケータイをいじっても危険である状況と緊張から、今のサヤにはこれしか思いつくことができなかったのだ。

 幸いなことに距離は一定以上あるようであるというのは気配から何となく感じ取れていた。逆に不幸なのは、ここが直線道であるということ。真っ直ぐに伸びた道はしばらく続いており、曲がり角はないのだ。普段気にしておらず、これから先も気にすることはないと思っていたことが、まさかこんな形で急を要するように必要になるとは思ってもみなかった。


 お願い、早く……早くっ……


 必死の願いが通じたのか、目の前に突如として曲がり角が姿を現した。あまり高くはない塀の向こうからは木が生えて、枝を伸ばしていたため、直前まで行かないと見えなかったようだ。ということは、ここを曲がれば自分の姿が一瞬、相手から見えなくなるはず。逃げるにはこれ以上ない、絶好の場所だった。


 サヤは歩みを止めない。速度を上げず、だからと言って落とさない。ただ同じ歩幅とペースで曲がり角に近づいていく。距離が縮まる度に、体へ走る緊張が増えていく。サヤはそんな今にも固まってしまいそうな気持ちを少しでも解そうと、私ならできる私ならできる、と心の中で呟きながら自身を鼓舞した。


 あと5メートル。曲がり角まで残りもう少しだ。


 あと4メートル。心臓の鼓動が指先にまで感じる。


 あと3メートル。喉が鳴り、唾が通る感覚がはっきり伝わる。


 あと2メートル。額から汗がゆっくり滴る。


 そして、曲がり角を曲がった。姿が塀で隠れる。


 今だっ!


 瞬間、サヤは思いっきり駆け出した。前後に腕を激しく振り、一目散に角から離れる。バッグが荒々しく揺れて脇腹にぶつかるけれど、不思議と痛みは感じなかった。


 その先に見える角を左に。また少し先のを今度は右へ。すると左手に、プレハブ小屋のある空き地が。

 ここだ! 体力が尽きかけていたサヤは急いでプレハブ小屋の陰へと身を隠す。

 膝を曲げ、体を丸める。息をひそめようにも息が荒くなる。肺が空気を欲しがっているのだ。


 サヤは運動神経が良いわけではない。それどころか、できれば体育の時間にあまり自分から動こうとはせず、できることならずっと見学していたいと願う人間であった。

 そのため、部活は運動系ではなく、吹奏楽部。他の文化部に比べては呼吸というものと密接に関わりを持ってはいるものの、運動、特に走ることに大きな利益をもたらしてくれているわけではなかった。かろうじてもたらしたのは、多少の肺活量が増えたことぐらいである。


 目を閉じる。大きく深い呼吸を二度行い、息をゆっくりしっかり整える。心臓の鼓動は早いままだが、少しは落ち着いた。

 よし、と声に出さず頷くと、サヤは静かに立ち上がる。そっと道路を見る。誰もいないようである。目視したことで、胸をなでおろす。精神的な落ち着きを取り戻すことができた。


 早く味方になる安全な人を呼びたい——サヤは110番をしようと、ケータイの入ったバッグの口を開いた。瞬間、再び悪寒がサヤの背に走る。


 これまでで最も異常で大量の悪寒であった。何故かは分かる。さっきと違い、距離がないからだ。もうすぐそば。おそらく、拳一個分ほどである。いつの間にかなどということはもうサヤの頭にはなかった。ただただ怖いという気持ちだけ。意識せずに震え出した体で、サヤは恐る恐る振り返る。


 見た。はっきりと見た。だが、分からなかった。何も分からなかった。


 そこにいたのは今まで見たことない、表現ができない何か。生物なのか何なのか、まさに得体の知れぬ大きな“”が鼻先にいたのだ。


 この時、サヤはあることの間違いに気付いた。本当の恐怖に出会った時、人は声を出すことができないのではない、と。本当の恐怖が声を奪ってしまうのだ、と。


 そして、その何かはサヤに……




 不意にアヤは立ち止まる。そして、眉をひそめながら振り返った。誰に呼ばれたわけでも、気になることがあったわけでもない。厭な予感が頭をよぎったのだ。

 しかし、辺りはその感じを全て否定するかのように、静寂に包まれていた。道路から離れているからか車の音も、不思議と近くの家からするはずの生活音もしない。間もなく夜になるからだとしても、思わずすくんでしまう静けさであっだ。


「……気のせい、だよね」


 アヤは、自分に言い聞かせるように、納得させるように呟く。そして、厭な場から早く立ち去るように自分にバッグをかけ直し、止めていた足を動かし始めた。

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