絵描きは悪魔の絵を描く③


 ベルは語る。クリスが得たと思っていた、そして奪われたと思っている幸福。それらは全て、彼が見ていた幻覚でしかなかった。最初から、存在しなかったのだ。

 もしも、そのままベルと出会わなかったら。クリスは間違いなく餓死していた。


 自分は神に愛されているという、虚像の中で。


「で、でも……だからと言って、あなたがクリスさんに働いた行為は彼を傷付けているだけです!」

「へえ、言うじゃねえか。それなら、あのままクリスを餓死させておけば良かったって? ひでぇな、お前」

「ち、違う……そうじゃ、なくて」

「けどな。実を言うと、罠に嵌ったのは俺だったんだ。お前も思い知っただろうが、クリスのあの香り……餌を誘い込む為の催淫作用がある。あの時、クリスは飢餓状態ゆえに無意識に香りを振り撒いていた。それに惑わされたんだ。俺も腹が減っていたからな、最中に失血死寸前まで噛み付かれてるとは気が付かないくらいにな」


 そうしてベルはクリスの魂を、クリスはベルの血を飲むことで命を繋ぐことが出来た。吸血鬼でありながら、それまで聖職者として生きてきたクリスの魂はベルの嗜好に合っていたそうで。ベルはクリスを攫い、この屋敷で暮らすようになった。

 

「……それなら、どうして指輪を外さないんですか? あなたはクリスさんをどう思っているんですか?」

「俺も、あいつもお互いのことを餌としか思ってねぇよ。やることはやってても、クリスとは断じてそういう関係にはならねぇ。この屋敷に『幸福』なんて存在しねぇんだ」

「ッ――――!!」


 許せない。ディータの思考が真っ赤に染まる。クリスの幸せは存在しない夢幻のものであった。だが、それならどうして彼に幸せを与えようとしないのか。

 否、それだけじゃない。ベルはクリスだけではなく、指輪を贈った妻のことまで蔑ろにしている。他者の幸せを弄び、踏みにじるだなんて。

 無意識に、左手がポケットの中のナイフを掴む。小さな刃だが、手入れは欠かしていない。切れ味は問題無い。

 

 人……いや、悪魔を一人くらい――


「残念だが、テメェみたいな人間に殺される程ヤワじゃねぇよ」

「ッ、な……」


 沸騰しかけていた頭が、一瞬で冷やされるのを感じた。音もなくディータの前に降り立ち、額に触れてくるベル。たったそれだけで、血の気が引いた。

 目の前が暗くなり、スツールに座っていることすら出来ず。崩れるように床へと倒れ込み、途切れそうになる意識を何とか繋ぎ留めるように歯を食いしばる。


「へえ、なる程……お前、両親と妹の四人家族か。十四歳の時に画塾に通うも、上手く馴染めず。それでも絵描きの夢は捨てられずに今は絵を描きながら旅を続けている、と」

「どうして、それを……家族のことはクリスさんには言ってないのに」

「残念だが、俺に隠し事は出来ねぇよ。今、テメェの魂を少し味見させて貰った。魂っていうのは、記憶や感情の集合体だからな。お前の過去も、俺に対する殺意も全て筒抜けなんだよ」


 ディータを見下ろしながら、くつくつとベルが嗤う。このまま殺されてもおかしくはないし、文句も言えない。ディータは覚悟を決めて、目をギュッと瞑った。

 だが、ベルがトドメを刺してくることはなかった。代わりに、一つだけ問い掛けてくる。


「……小僧、お前は『幸せ』という代物の本性を知っているか?」


 そう言って、ベルは先程のように机の前に腰を下した。助かった……? 肌を舐めるような寒気に、腕を擦りながらディータは彼を見つめる。問い掛けの意味が、上手く飲みこめなかった。

 幸せとは、何か。ディータは、答えられなかった。


「くくっ、哲学的だったか? 人間の寿命は精々百二十年。大して長くはないその時間を精一杯に生きようとする。自分、もしくはそれ以外の者の為に。根幹にあるのは幸福。ならば、お前達が求める幸福とは何だ、幸せとは何だ? ……いや、言い方が悪いな。お前が思う幸せとは、何だ?」

「そ、それは……」

「自分の絵が売れて、世界に名を馳せることか? 金持ちになって、裕福な生活を手に入れることか? 愛する伴侶を見つけることか? 答えられないのなら、代わりに答えてやろう。自分が満たされれば、それを幸福と呼ぶんだ」


 言い換えれば、とベルが続ける。


「幸せというものは、個人によって価値が異なるということだ。愛する家族が飢えずに生活できればそれで十分だと思う者も居れば、金や愛、そして名誉の全てを手に入れても尚足りないと言う者だって存在する。幸せという代物は目には見えず、形を持たず、無限のように思わせながらも有限。それは果たして……。そんなものを追い求めるということ程、くだらないものはないと思わないか?」

「そ、そんなこと――」

「いや、お前は思っている。才能のあるお前を僻んで、嫌がらせをしてお前の居場所を奪ったヤツらは幸せだったんだろうぜ。自分よりも優れたお前の可能性を潰し、自分が前に出られるチャンスを増やすことが出来たんだからな。そいつらが得た幸せはそういうものだ」


 ディータは何も言い返せなかった。そうだ、彼の言う通りだ。幸せという価値観は人それぞれだ。決まった形は存在せず、定義を持たない。唯一の条件としては、心や気持ちが満たされることだろう。

 だが、満足する為には時に他人を傷付けてしまう場合がある。他でもない、ディータがそれを知っている。

 

 ……そうだ。


 所詮、幸福なんて個人の自己満足。自己満足を、他人と共有することなんて出来ない。出来ていると思っても、それは押し付けているだけだ。


「俺の妻は、とにかく子供が欲しい、家族で過ごしたいっていう願望が強くてな。だが、俺はそういうのは苦手でな。妻のことは大事に思っているが、あいつの幸せを叶えようとすれば絶対に破綻してしまう。クリスもそうだ、あいつの望みはわかっているし叶えてやれないこともない。だが、それもやはり破綻する。今の状態が丁度良いんだ俺にとっても、クリスにとってもな。だが、お前が望むのならばまた別だ」

「え?」

「クリスはお前のことを気に入ったらしい。俺もそれなりに気に入っている。お前の血、そして魂は中々に質が良い。餌として申し分ない。この屋敷で餌として暮らすなら、衣食住は面倒見てやる。代わりに幸せを諦めて貰う上に、セシルのように定期的に血と魂を貰うがな。殺しはしねぇよ」


 どうだ? とベルが聞く。それは、ディータにとってはこの上なく魅力的な申し出だと思えた。

 不思議な屋敷で、何の不自由もなく暮らせる。彼等と共に、同じ時間を過ごせる。決して幸福ではないものの、欲と快楽とまみれた蜜の日々。


 ――その言葉がまるで、『毒』のようにディータの心に染み渡る。


「ま、返事は急がねえからよ。考えてみてくれねぇか? この雨が止むまで……な」


 そう言って、ベルは再びペンを取る。それ以降、部屋を出るまで二人が言葉を交わすことはなかった。


 

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