シーズン4 【 木婚式 】 前編 *しよう、今夜、Hしよう



 五年経っても僕の仕事は変わらなかった。だけれど少しだけ立場が変わっていた。

「係長ー。南部地方の水産会社社長さんなんですけど。今期の契約分は断ったはずなのに料金が引き落としされているとクレームが。営業からなにも話を聞いていないから今期については今すぐ契約を打ち切って欲しいって。営業担当者からお電話させるって伝えたんですけど、電話のお姉ちゃんが伝えておいてってそればっかりで堂々巡りなんですけど……」

「うん、わかった」

 助けを求めに来た若い女性社員のデスクへ向かい、僕はそこに座る。マイクがついているヘッドホンを頭につけて、目の前の顧客ファイルデーターのモニターをざっと眺め、どのようなお客様か把握してからマウスを握る。

 深呼吸をしてから『保留ボタン』をクリック。

「お電話代わりました。佐川と申します。お待たせ致しまして申し訳ありませんでした。本日のご用件、弊社とのご契約期間についてですね……」

 ただ顧客との相談や、契約についてのコンサルに接客応対が長けていくだけだった。


 自宅も変わっていない。結婚当時のまま、同じ家に住んでいる。

 帰る時間も変わらない。係長になった以外はなにも変わらない。まわりの女の子達のほうがくるくる変わっていく。結婚したり異動したり辞めてしまったり。あ、あのおばちゃんはまだ頑張っている。それがパートからついに社員へと昇格して、僕のことを良く助けてくれる頼りがいあるお母ちゃんだった。

「パパ、お帰り~」

 変わらない日々の中、日々著しく変化しつづける一等賞が僕を迎えてくれる。

「ただいま、梨佳。これ買ってきたから、ママと食べな」

「パパ、またコンビニ行ってきたの~。もうコンビニオタクだよね、パパ」

「誰だってコンビニは行くだろう。オタクってなんだよ、オタクって」

 それでも娘は白いレジ袋の中身を確かめ、満面の笑み。

「ママー。パパがシュークリーム買ってきてくれたー」

『えー、本当? デザートで食べよう』

 キッチンから妻の声。靴を脱いでいる時に彼女が玄関にやってくるのも変わらない。

「お帰り、徹平君」

「うん。ただいま」

「今日も無事終了?」

「いつも通り。田舎のおじいちゃん社長に話がうまく伝わっていなくてクレームとかいろいろ」

「あー、あの契約期間ってややこしいよね。お年寄りにもっと分かり易いシステムにすればクレームも減ると思うけど」

「契約更新期を、地区別に区切って、限られた営業マン人数で回しているからしようがないよ」

 元同僚だけあって、妻とは仕事の話が通じ合う。それが良い時もあるし、良くない時もある。


「いただきまーす」

 娘の梨佳と三人の食卓も同じ。でも娘だけが日に日に成長し変わっていく。だから僕は自分が変化しなくても、日々が変わっていることを実感できているのかもしれない。

 そして変化はもう一つ。

「そうだ。高原さんが結婚退職することになったんだ」

「えー、あの愛ちゃんが結婚するの!」

 美佳子が在職中、彼女は新人で美佳子と同じ班、デスクが近かった。

「そうなんだー。あの頃は新人だった彼女達が適齢期になってきたのね」

「彼氏が東京に転勤になるみたいで、それを機に結婚を決めたんだって。来月、彼女も彼について東京に行くらしい」

「そうなの。大変ね……。そうだ。なにかお祝いしたいなあ。私、辛い時期あったでしょ。あの時彼女は新人だったからこっちの大人の事情なんて分からなかったんだけど、だからこそ明るく話し相手をしてくれて、すごく助かった記憶があるんだよね。私が辞める時も素直に泣いてくれて……。あれから徹平君を通じての挨拶ぐらいしか出来なかったけど、その気持ち渡したいな」

「いいよ、お祝いだって僕が渡してあげるよ。そうだ。僕も選ぶのをつきあうから夫妻からってことにしようか」

「本当? じゃあ、今度のお休みに一緒に探しに行こう」

 二人で頷きあうと、その間で黙々と食事をしている娘が両親の顔を交互に見ている。

「なあに、梨佳ちゃん」

「なんだよ、梨佳」

「パパとママは、どっちが『プロポーズ』したの。やっぱりパパだよね」

 四歳のくせに。『プロポーズ』なんて言葉、どこで覚えてきたんだと目を丸くしていると、妻の美佳子が大笑い。

「きゃー、どうしよう。録画していたドラマを観ている時、覚えちゃったんだね」

 女らしい美佳子に育てられた娘は、やはり『おませ』だった。

「一緒に観るドラマは子供が観ても大丈夫なものにしておけよ」

「わかっているわよ。エッチなシーンがあるドラマなんて……」

 と言って、美佳子がハッと口を閉ざす。娘の顔を確かめた後、何故か僕の顔を見て真っ赤になっていた。

「まあ、ドラマなんてそんなものなのよ」

「そうだな。そんなもんだろ」

 言い分ける妻がちょっとおかしくて、僕はつい頬を緩めてしまった。益々妻の顔が耳まで赤くなる。

 夫の目がないところで、ちょっと大人ドラマを一人で楽しむ専業主婦。そんな姿を垣間見せてしまって恥ずかしがっているから。

 結婚して五年。もう恥も外聞もなくありのままの姿を見せて生活をしているかと思ったが、まだ妻にそんなところがあると知って僕はなんだか……。

「えっちてなに」

 娘がさっそく、気になったことをかいつまんで聞いてきたので、僕と妻は揃って笑いあった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 午後の中休み前。美佳子の後輩だった高原愛ちゃんをそっと休憩室へと呼び出す。夫妻揃ってのお祝いを渡すと彼女もとても喜んでくれた。

「係長には大変お世話になりました。いつも丁寧に親身に助けてくださって。ほんと、どんなにお客様に怒鳴られても心強かったです」

「高原さんも頑張っていたよ。黙々と業務を進めてくれて、接客応対も丁寧だったし。五年間、しっかり地道にやってきて最近は一人で何でも手配できるまでになって僕の手伝いもほとんどなかったでしょう。これから東京でも、きっとなんでもやりこなせるよ」

 僕の言葉に、彼女もホッとした笑みを見せてくれる。

「ありがとうございます。佐川係長がそう言ってくれるなら、きっとその通りになれそうだと本気で思えるんですよね。今までもずっとそうでしたから」

 僕と彼女は穏やかに微笑みあう。そんな上司と部下の間に、わざわざ休憩室までやってきて割って入る女性が現れる。

「いた、係長っ。探したんですよ。ちょっと来てくださいよ。私の前に応対した人のデーターがむちゃくちゃなんですけど、見てください!」

「う、うん。分かった、今行く」

 彼女の登場で、愛ちゃんの顔色が変わってしまう。そんな彼女に気遣うように、愛ちゃんは箱を見えないよう抱きかかえ去っていってしまった。

「お邪魔でしたか?」

「別に」

「係長はえこひいきしないと思っていたけど。違ったみたい」

 愛ちゃんが少し大きな包みを持っていたことを目ざとく見つけていたようだった。

 この彼女は、来た時からやりにくい女の子だった。それも当然か……。この彼女は二年前にこのコンサル室に配属、事務室から異動してきたあの『沖田の彼女』だった女性。つまり『美佳子さんが私の彼氏を寝取った』と言いふらした張本人。

 沖田が他の支局へと異動して、あっという間に二人は別れたらしい。それからも彼女の立場はあまり良い物ではなかった。それでも平気な顔をして淡々と業務をこなしているうちに、彼女もついにコンサルへと異動してきた。

 そんな彼女はある意味嫌われ者だった。彼女も分かっているのか、言葉もキツイしツンと取り澄まして素直じゃない。だから僕は内心、彼女が確信犯的に割って入ってきたのだと予感しながらそっと溜め息。コンサル室に戻り彼女のデスクに座って、その『むちゃくちゃなデーター』とやらを眺めた。

「どれかな」

 僕が見る限り、どこも滅茶苦茶ではなさそうだが?

「ここですよ、ここ。なにこれ。前回の応対内容のメモ、たったこれだけなんですよ。前に何を話したかお客様から聞かれたら、全然分からないじゃないですか」

 あー、彼女が言いそうなことだなあと僕はモニターを見て密かに唸った。データーの書き残し方を見るに『個人差』が出ているだけで、問題はない正常なデーターだと判断できた。それでもいちゃもんを付けてきたその訳が、僕と愛ちゃんが気になってということなのだろうか?

「簡潔に分かりやすくまとめているだけだと思うけどな」

「簡潔すぎますよ! 『問題く継続契約更新済み、今期契約期間了承済み。問い合わせなし』てなんですか。本当になにもなかったのか、問題なしでも気持ちよく契約更新してくれたのかどうか分からないじゃないですか」

 屁理屈だなあと思いながら、どうして彼女がこうなっているかを僕は密かに知っていた。のだが、密かどころか彼女から言ってくれる。

「あーあ。高原さんは良いなあ。結婚して辞めて、大手企業社員の彼氏の東京転勤についていって。それで係長に特別にお祝いなんかもらっちゃって……!」

 言いたくないが。特にこの彼女には言いたくないが。それでも今日、僕は心を決めて彼女に言った。

「嫁さんの後輩でもあったからね。彼女、毎年の年賀状にも必ず奥さん宛のメッセージも添えてくれていたし」

「ふうん。係長の奥さんの気持ちだったんだ」

 『まあね』と答えると、彼女が腕を組んで黙ってしまう。

「分かりました。ちゃんとやりますから。あーあ、私、アウトバウンド大嫌い」

 不満そうに吐き捨てながらも彼女はヘッドホンを頭に装着し、お客様応対に戻っていく。

 アウトバウンドは、こちらから顧客に電話連絡をする業務。僕の会社では、契約後のアフターサービス的な問い合わせや、契約内容について変更はないかなど定期的に尋ねる連絡をしている。それとは別に、契約内容の販促つまりセールスをすることもあるので、会社の名を言えばすぐさま電話を切られることもある。なので女の子達はお客から目的を持ってコンタクトをしてくれるインバウンドよりも嫌がっていた。

 それでも業務に戻れば、彼女はハキハキとした物言いで顧客との対話をスムーズに進め、テキパキと件数をこなしてくれる。

 まあ、ハキハキ、テキパキは、彼女らしいとも言えた。特に『ハキハキ』。なんと言っても彼女は、美佳子を『寝取った女』とハッキリと言い放つことが出来た程なのだから。


 


 いつものように休憩室へ行くと、おばちゃんがやってきた。

「徹平君もいま休憩なの」

「田窪さんも、今から?」

 いつかここで僕の汚れたシャツを拭いてくれたおばちゃん、田窪さん。子供が大学進学で家を出て行ったのを機に、社員としてフルタイム勤務へと移行。すっかりベテランでどの女の子からも一目置かれていた。

 その田窪さんが、誰も伴わずに僕のところへとやってくる。

「てっちゃん。愛ちゃんにお祝いあげていたでしょ」

「え、ええ。まずかったですかね。人目を避けて渡したつもりだったんですけど」

「まずくはないけど、彼女『落合さん』にだけは見られたくなかったわねえ」

 ああ、やっぱりそこですか。と、僕は項垂れた。

「目ざとくてびっくりしているんですよ、僕だって。まるで休憩室まで追いかけてこられたみたいで」

「さすがのあの子も平気じゃないんだね。てっちゃんのこと、かなり意識しているよ。嘘をでっち上げて追いつめた女の旦那だし、いまじゃ上司。それに沖田君が貴方を殴ったばかりにこの会社追い出されるようにして異動して二人は別れて。それからご縁なしで彼女もいつの間にか三十路。あの頃の美佳子ちゃんぐらいの年齢になって。後から入って来た愛ちゃんが学歴ひとつでストレートにコンサル業務に配属されて、めでたく寿退社。絵に描いたような女性の王道をいけた愛ちゃんに対して、落合さんは事務室からやっとコンサルに配属になって今は彼氏ナシ。そんな順風満帆な愛ちゃんが、落合さんの敵だった美佳子ちゃんやその旦那さんと仲良しなのも気に食わないし、気になって仕方がないんでしょう」

 ああ、やだやだと僕は震えながら首を振った。でもこんなこと、多かれ少なかれ日常茶飯事。女性ばかりのフロアは花園のようでも、女の情念渦巻く大奥御殿みたいなもの。いつだって誰かと誰かがいがみ合い僻みあって彼女達も女のバトルを乗り越えながら職務を遂行している。落合さんの感情だけが特別に歪んでいるということでもない。ただちょっと露骨なだけで……。

「愛ちゃんが無事に退職出来るまで、気を付けた方がいいよ」

「勿論です。気を付けておきます」

 おばちゃん田窪さんからのミニ情報はいつも僕を助けてくれる。

 僕の身の回りを案じてくれるアドバイスをしてくれるだけでなく、その『落合さん』についてさらに一言。

「彼女も人のこと言えないみたいよー。営業に新しく配属されてきた年下の男性にアプローチしているってさあ」

 『ええ』と僕は目を点にする。

「それってあれってそれですよねっ」

 言いたいことを明確に言えずにこんな言葉しかでてこなかったのだ。『それ』って――『彼女が年下の営業マンを狙っている』ことは、『あれ』――『うちの奥さんがはまった落とし穴』に、『それなんですよね』――『バカにした本人の落合さんも同じことをしようとしているってことなんですよね?』と聞きたい! だけれど僕は美佳子が年下の彼に一時でも熱をあげて夢中になり弄ばれたことをどうしても口に出来ずにいた。そんな僕の慌て振りを田窪さんが笑った。

「ま、そういうことよ」

 そして田窪さんも曖昧に流してくれたが、がっちりと意思疎通で僕が言いたいこと聞きたいことを分かってくれたようだった。

「そんな。おかしいでしょ。どう考えても。あんなに人のことバカにして貶めておいて」

「そういう子なんでしょ。自分は魅力がある三十歳で他の三十歳の女とは違うから大丈夫とか思っているんじゃないの」

 呆れたおばちゃんの溜め息に、僕もちょっと沸騰した胸の内を宥めるようにして一息ついた。

 いやあ、すごい。そりゃあ、美佳子も敵わなかったわけだ――と、僕は思った。彼女の自信は今も全速前進中ということらしい?




 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


「お願いです、佐川係長。落合さんは係長には負い目があると思うんですよ。なんとか遠回しに言ってくれませんか」


 この時。僕の頭の中には『歴史は繰り返す』とか『三十路女が通る道』という言葉が浮かび上がっていた。


 女の子達が帰り、管理をしている男性メンバーだけがフロアでデーターをまとめている残業時。田窪さんが教えてくれた『営業の狙われている彼』が何故か僕の目の前にいた。

 インバウンドの着信音もしないデスクが並み居る中、一番端の角が僕専用のコール&データーデスク。そこで電話をしたりデーター入力をしたりしている。そんな端っこでぽつんと一人で夜の業務に勤しんでいると、その静けさと人目の無さを狙ったかのようにしてスーツ姿の彼がこっそりとやってきたのだ。


「そんなこと言われても。仕事とは関係ないし……」

「僕には付きあっている彼女がいるんです」

「そう言ってあげたらいいじゃない。崎坂君に好きな子がいると伝えれば、向こうも諦めてくれるんじゃないかな」

「伝えましたよ。なのに『それなら彼女の写真をみせて』とかしつこくて」

「見せたらいいじゃん。それで納得してくれるんだろう」

「……嫌ですよ。例え見せたとしても、断ったことで何を言われるか怖くて」

 それはあるな。と僕も思った。いわゆる『逆恨み』とかいうヤツ?

 まだ二十代の瑞々しい爽やかな佇まいから、困惑し続けた憔悴が滲み出でている。大人の世界に疲れ果てた青年の姿。僕だって同情する。

「僕は単なる係長だし、そんなプライベートの恋沙汰にまで口出しなんかできないよ」

 だが、長身の青年の表情は見るからに追いつめられていた。

「先輩から聞いたんです。あの失礼ですが……。佐川さんの奥さんは在職中、落合さんに酷い目に遭わされたとか」

 でた。ここでそれを出したな、この野郎。と、言ってやりたいが。端正で怜悧ないい男の顔を授かりながらも、すり切れていない純朴さ故の戸惑いが彼の目の奥から見えた。だから僕も無碍には出来なくなる。

「まあね。昔の話だけど」

「そのお話を聞いて、僕も酷いと思いました。自分が若い時には三十歳の女性をバカにして確かな証拠もないのに貶めて。なのに自分が三十歳になったら人に言ったことを忘れて平気な顔で僕に……」

 そこで苦く口ごもる顔を見て、この彼も彼女の途方もない押しの一手に辟易しているのだと察した。その『辟易してしまう程の女の貪欲さ』を考えると、僕の胸が軋む。それはいつか妻が、あの沖田にしたことと同じものなのではないのかと――。

「崎坂君の気持ち、わかるけど。もう少し様子を見てみようよ。そうだな、一週間、僕に時間をくれないかな。一週間後、またこの時間に、あまり女の子達に見られないように来てよ」

「……わかりました。申し訳ありません。本当はこんなことお願いしてはいけないと分かって……しかも残業中に……」

「気にするなよ。その点では嫁さんの姿みてきたから、察するよ」

「有り難うございます。少し気が楽になりました」

 やっと彼らしいといえそうな、凛々しい笑顔を見せてくれた。


 彼が去り、僕は溜め息をこぼした。

 若い青年の魅力とはなんなのだろう。手に届きそうだから、女として少し頑張ってしまうのだろうか。大人になった自分の魅力で、若い二十代の女性と勝負する。まだいける勝負が出来る。自信がないところは『男の言葉』で前に進む。『美佳子さんって綺麗ですよね』、『全然、三十歳にはみえないよ』、『俺、年上好みなんですよ』、『若い女より、経験がある女性の方が魅力的だな』。僕の頭の中、あの沖田がにやけた顔でそんな言葉を囁いている。この憎々しさ。そしてそんな男の言葉に頬を染めて、女としての艶を醸しだし、ついにはまだまだ眩しいばかりの青年へと手を伸ばしてしまう。

「はあ、だめだ。もうだめだ!」

 あの時、うんと下の下の下の道を地味に歩いていた僕の真上に、沖田に落とされた妻が降ってきた。偶然、僕が受け止め、そこで泣いている彼女がもう上には行けないからと僕に抱きついた。

 額を抱え、僕はマウスをがちりと握る。そしてそのまま業務PCをシャットダウンさせてしまう。

「課長。残っていますが、明日、早めに来てまとめておきますので今日は帰ります」

「ああ、そう。いいよ」

 課長はいつもなにもいわない。僕がやるままにしてくれる。


 


 自宅に帰ると、妻と娘は先に食事中だった。

「お帰りなさい。もうちょっと遅いかと思っていたけど」

「うん、明日の朝、早めに出ることにしたんだ。なんだか今日は残業している人間が多くて集中できなくて」

 毎日玄関で迎えてくれる美佳子もなんの疑いもない顔で『そう』と微笑む。

 娘はテレビを見ながら食事中。僕は寝室へ着替え、そしてその後を妻がついてくる。

「今夜は酢牡蠣を作ったんだけど。お酒はどうする?」

 部屋の灯りもつけずにネクタイをほどいてシャツのボタンを外す僕の後ろ、部屋のドアにもたれかかる美佳子からいつもの問いかけ。

 肩越しに振り返り、美佳子と目が合う。

「徹平、くん?」

 ゴールデンタイムのバラエティー番組、笑い声に効果音が賑やかにリビングから聞こえてくる中、僕は暗がりの寝室に美佳子を引っ張り込んだ。

「ちょ、てっぺ……い」

 クローゼットの扉に彼女を押しつけ、背中から抱きついた。扉がガチャガチャとうごめく中、戸惑う彼女に構わず、僕は妻のスカートをたくし上げその奥に潜む柔らかい肌を鷲づかみにしていた。

「や、パパったら」

「しよう。今夜、しよう」

 彼女の丸い尻を撫で回しながら、僕は耳元で我を忘れて囁いていた。彼女の髪からいつもの爽やかで甘い香り、良く知っているのに今日の僕はとてつもなく興奮していた。

「わ、わかったから。うん、わかった……か、んっんっんっ」

 無理矢理、唇を奪って離さなかった。

「パパ、ママ?」

 長く一人きりにされた娘が、食卓から寝室へ向かってくる足音がして僕と美佳子はさっと離れた。

「ママ、どうしたの。梨佳、ひとりだよ」

「うん、ごめんね。梨佳ちゃん」

「パパもごはん、たべないの」

「うん。すごくお腹空いているよ」

 にこりと微笑む僕とは対照的に、美佳子は頬を染めたまま楚々と娘を連れていく。


 なのにその晩。娘を寝かしつけてからベッドに潜り込んで来た美佳子を、僕は抱かなかった。

「徹平君、寝ちゃったの」

 寝たふりをした。

「もう、そっちから誘ったくせに」

 ふてくされる妻の溜め息。暫く僕を恨めしそうに見下ろしている気配を感じながら、僕は必死に寝たふりをした。

 妻がベッドから出て行く。もうそれ程頻繁にセックスもしなくなって、本当に久しぶりに僕が誘ったのに……。

 僕だって本当は燃え上がったまま美佳子を抱き倒したかった。でも、それをしたら後の何もかもがなし崩しになって、美佳子のことなどどうでもよくなるような気がした。

 片思いだった憧れの女性から、『主人』となった僕がいつだって壊せる単なる一人の女。そこに彼女を貶めてしまうような気がして。

 美佳子。お前はどうなんだよ。憧れていたのは僕との結婚ではなかっただろう。本部に出世したあの先輩とか、大人の課長とか、そして積極的で自信があって女をどう喜ばせるかよく知っている心地よくさせてくれる男とか。そういう男との生活を夢見て頑張ってきていたはずなんだ。なのに、あいつらに泣かされ負けて僕のところに転がり込んできた。それで結婚はしたけど、本当に納得した結婚だったのだろうか? 後悔しても子供がいるから母親として頑張っているだけで、僕という男の事なんて。

 お前はもう自分で自分を貶めて、それで僕のところにいるのか?

 だから今夜は抱きたくても、抱けない。今抱いたら、きっと僕は美佳子を征服するように否定するように抱いてしまうだろう。


 美佳子もモヤモヤしたまま眠りについたことだろう。僕の身体も、男の身体も、ずっと鎮まらなかった。


 僕はなにをしているんだろう。嫌な男だ。




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