奥さんに、片想い

市來 茉莉

奥さんに、片想い(本編)

シーズン1 【 独身 】*僕はいわゆる『いい人』、つねに対象外

※初出2011年の作品です。当時の古い価値観や社会理念のまま描写されています。



 彼女が泣いた。突然、僕の隣で泣いた。

 僕は彼女がずっと好きだったから、どうにかしてあげたかった。

「えっとー。食事にでも行く?」

 車を運転する僕が言いだした言葉もかなり唐突。でも助手席に乗っている彼女『美佳子』が、涙を拭いながら無言で頷いた。

 いつもの帰り道、信号待ち。まっすぐ行くはずの道を、僕は青信号でハンドルを右に切る。地元の細い旧道に入る。そこをまっすぐ行けば、たまに行くパスタ屋があるから。


 


 彼女が泣いたからって、僕が泣かしたわけではない。

 ちょっと前から、恋仲の男と別れたと僕は知っていた。といっても『噂』だけれど。

 残業後、彼女が一人しょんぼりと帰ろうとしている背中を見て『送っていくよ』と声をかけただけ……。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 この店で僕のお薦めは、ボンゴレ・ビアンコ。

 と言っているのに、彼女は『ボロニア風ミートソース』と頼んでいる。まあ、いいけど。


 夜遅くまで開いているこの店は、古い街並みの味わいがある寺院の町にある。僕が右折した旧道はとても古い道で狭い。なのに観光名所の寺院がある為、交通量が多い。トラックやバスとすれ違う時はぶつかるのではないかと錯覚するほど狭い道だった。郊外の割りに人口もあるが歴史ある地区なので古い民家も多く、はっきり言ってしまえば『田舎』だった。

 灯りも少ない田舎の旧道沿い。なのに寺院の手前まで来ると、ログハウス作りの明るいレストラン。ほのかな飴色の灯りに包まれ、ぽうっと浮かび上がる。周囲の古い街並みに似つかないイタリアンな佇まい。夜遅くまで開いているこの店は、この時間に車で来られる大人だけが集まる静かな店。


「ごめん、急に泣いちゃって」

 店に入って落ち着いた彼女が、それでもまだハンカチで目元を押さえた。

「いいよ、別に。いろいろあるでしょ。お互い、いい歳なんだから」

「佐川君ならそう言うと思った」

 なんだか不満そうに言われたので、僕は眉をひそめた。

 だからって、これ以上なにを聞けと。核心につっこめるはずもなく、僕はただ黙っていた。

「なんか言ってよ」

 『年下の彼と別れたんだって?』とズバリ聞いて欲しいとか? まさか、そんなこと僕から言いたくもないし聞きたくもない。

「いつも女の子達に優しい佐川君も、職場だけなんだね」

「優しくなんかないよ」

「わかっているんだから。女の子達を上手くなだめすかして円滑に業務を進める。課長がそれを期待して佐川君に女の子達を任せているって」

「ただ一緒に上手く行くようにと思って、普通にやっているだけだし」

「そういう言い方、喋り方。上手いよね」

 ああもう。なんか絡んでくるなあと、僕は困り果てる。といっても、女の子達を相手にしていると意味もなく矛先にされていることは良くあることだった。

「なんで私を送っていく、なんて言ってくれたのよ。それならそれで、いつもの佐川君みたいに慰めてよーー」

 彼女がまた涙をボロボロと流して『うわん』と泣き始めてしまい、僕も仰天。そして店の中を見渡してハラハラする。

「わ、わかった。なになに。どんな哀しいことがあったの」

 いつもそうしているように、とにかく『彼女達の事情』を彼女達の口から聞くことから始めるんだ!

「みんなが、私を避けている!」

「仕方がないだろう。自分でも避けられている理由、自覚しているはずだよね」

「あれ、違うの。誤解されている。けど、いちいちこっちから釈明するのもおかしな話なんだもの」

「んん? 誤解? 釈明? それが出来ない?」

 僕が知らない何かが目の前で繰り広げられる予感。でも彼女は自分から『聞いて欲しい』とばかりに振ってきたのに、やはり言い難いことなのか口ごもっている。

 仕様がないなあ。じゃあ、ここはひとつ。僕自身は嫌なんだけれど、いつもやっているみたいに開く時は開くのに閉じたら頑固になっちゃう彼女達特有の口を開けてもらおうかと深呼吸。

「僕が知っているのは。安永さんが彼と別れたって話なんだけど。年下のね、一階にいる営業のね、入社三年目のヤツと」

「あんな奴とつきあっていたわけじゃないわよっ」

 アイツサイテー! イーッと悔しそうに歯を噛みしめた顔。それを見て僕は「噂はガセだったのか」と違和感。

「あのさ、安永さんがそいつにスッゲー惚れているみたいな噂があったんだけど」

「なんなのよ、それ! でも否定しない。だって彼に誘われて何度かドライブに行ったのは確かなんだもの……」

「え、そうなのかよ」

「それがね。彼と一緒に行った港の回転寿司屋で、ばったり一階の事務の人たちと会っちゃったこともあってね」

「なるほど。それで二人は付きあっていると。年の差、年上女恋愛とうわっと広まっちゃったんだ」

「そんなことはどーでもいいのよ。だって勝手に勘違いした方が勝手なこと言いふらしているだけで、私はなーんにも教えていないし教える必要もないし、隠すようなこともしてないし」

「隠すようなこと?」

 だいたい何を言いたいのか僕はかわかっていた。その上で、女の子がオブラートに包んだ中身を僕が剥がすのではなく、包んだ女の子から剥がしてもらおうとする。男から暴くのは失礼かと思って……。だけれど彼女も一度はオブラートに包んだから、もう慎ましやかにしなくてもいいだろうとはっきりさせてくれた。

「彼とはドライブをしただけで、エッチなんてしていないし……」

 『はあ。そうなの』――素っ気なく応えながらも、僕の心が晴れやかになっていく。この急激に盛り上がるテンションは何? ああそうか。彼女が若い男といちゃいちゃしていなかったとわかって僕は嬉しいのか。そっか良かった良かった。なんて……。

「彼、最初から私をただの餌にしか思っていなかったとわかったから。きっとエッチをしたらポイだったと思う」

「聞いた話では、同じ歳ぐらいの彼女が彼に出来て、安永さんは捨てられたと思われているけど」

「うー、わかってる~。そう思われているだろうということも、毎日、肌で感じているっ」

 ハンカチを握りしめ、また悔しそうに力んだ顔。

「いったいどういうことなんだよ?」

「ねえ、佐川君。年上と年下が喧嘩したらどうすればいいと思う? それともどうすることが多いと思う?」

 聞かれて僕も考える。思い浮かんだのは『人によると思う』。そのまま彼女に言った。

「だよね。佐川君はそう言うと思った」

 彼女ががっかりしている。それを見て、僕は……職場で女性の宥め役であることを忘れ、一歩踏み込んでみた。

「人によると思うけど。そうだなあ。安永さんだったら、自分が反論するのは『大人げない』と思って彼の好きなように言わせておく。嵐が過ぎるのを待つ。いま、その段階ってこと?」

 今まで僕が見てきた彼女は、そんな女性。だから全てが事実と確定しない『噂』で終わっているのだと――。僕の主観かもしれないけど、これが僕が好きな彼女だった。

 だけど彼女は目を見開いて唖然とした顔で僕を見ていた。潤んでいた黒い目も乾いてしまっていた。

 そして、僕の見解はズバリ合っていたようだった。



 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 僕と美佳子は同期入社。入社して十数年になる。三年前から『顧客コンサルティングサービス』という部署で業務を共にしている。主に女性達が電話接客にて顧客と相談したり声を聞いたりすることが多く、課長と僕がそれを管理しているという形。

 僕は課長補佐の主任。つまり顧客と接客する彼女達の面倒を課長の代わりに見る。すると彼女達が困った時に、手助けをする機会が多く、さらに女性特有の諍いを察知して業務に支障がないように運ばなくてはならないので、おのずと『宥め役』になってしまうのだった。


 彼女達の愚痴聞きも多い。彼女達が顧客に叱りとばされていたら、僕が交代して代わりに叱られる。そうして彼女達を援護する。それが僕の役目でもあった。

 故に。僕はいわゆる『いい人』と言われるようになる。

 なので彼女達から頼られることは良くあること、でもそれは単に僕の仕事であるだけ。だからといってそれが出来て優秀かと言えばそうでもない。ただただ単にそこにいて、目の前に現れたことをこなして回転させていくしか能がない男だと自覚している。人と争うことが好きではない、だからってやられるのも嫌だ。ひたすら回避して火の粉が飛んでこないよう、必死に身をかわしてきた方だと思う。

 なので女性達がどのようなことで怒ったり泣いたり、どんなことで男達にとばっちりがやってきそうかもなんとなくわかるようになってしまう。

 怒っている彼女達を、泣いている彼女達を、僕はひたすら宥め慰め労り、職務のレールにもどす。それを課長が望んでいることも良く分かっているつもりだった。

 だから女性達は言う『佐川さんはいい人』。でもだからってうだつが上がらない僕を恋人にしようだなんて女性はいない。そう、彼女達もよくわかっている。『彼は私達の慰め役でしかないのだ』と。

 女性の『割り切り』て、すごいなと思う。

 僕の慰めが『仕事に戻って欲しいから、円満にやってほしいから慰めてくれている』とわかっていても、それでも『よくやっているよ』『それは貴女が腹立つのも無理ないよね。うん、わかるよ』『辛いよね。そんなに我慢しなくて良いよ』『頑張ったよ』『貴女なしでは課長も困るよ』という言葉がなければ、立ち直れない時もあるから必要としている。でもそれはオフィスという箱の中だけで、彼女達も本当はわかっている。『佐川は私達を心から慰めていない』と。それでも『私達が泣いている時、怒りを鎮めたい時は、彼の言葉が必要なんだ』と――きっぱり割り切れる。

 だから『いい人』で終わる。そこに僕が男である意義は、彼女達にとってどこにもない。


 そして僕はきっと。美佳子にとっても『いい人』に違いなかった。

 彼女には入社当時から、いくつかの恋の噂があった。大学時代の彼、慰安旅行をキッカケにつきあい始めた会社の先輩、社外で出会った見知らぬ男、そして、他部署の課長。ちなみに課長は既婚者。いわゆる『不倫』。どれも噂で、どれが本当か嘘かはわかっていない。

 しかし良く聞く話だ。未婚の三十を超えた女性には、『結婚できないわけ』としての噂ももれなくついてくる。特に年齢と共に華ある女性へと変化した彼女には、男の噂も絶えない。

 だけれど『こんな男の人と付きあっているんだって』ぐらいの噂で、誰といつ出会って別れたなんて詳しい噂までは聞いたことはない。

 だが今回の『年下の彼』だけは違った。『課長との不倫』の噂が立ち消えた後、彼女と年下男との噂が流れた。多少歳が離れていることと、相手の男がまだ入社して三年目ということで、『年の差恋愛、しかも女が年上』だと囁かれた。

 それに彼女の笑顔も違った。どこか華やいで、楽しそうで、たまに彼女らしくない『はしゃぐ姿』を目にすることもあった。その『らしくなさ』が噂に拍車をかけた。

 しかしながら。これも良く聞く話で……。その若い彼が一階事務室の若い女の子と付き合っていると『公表』。話題として流れてきた。今度は彼の口から出てきた確かな情報ということで、事実だった。

 それからあからさまに、美佳子が元気をなくしたのだ。それどころかそつなく勤めてきた彼女が、一週間も続けて休んだ。こんなことになれば誰だって『やっぱり営業の彼との三角関係。本当だったんだね』と思い込んでしまう。もし噂が本当だったならば……。営業の若い彼が自ら『同世代の女性と付き合っています』とわざわざ公表したのも、『三十を超えたお局様との噂はこれで消えた』ということだったのかもしれない。オフィスの隅っこにただいるだけの僕にだってそう考えついたぐらいだ。


 そんな彼女が出勤すると、いつもの彼女に戻っていた。それでも周囲はヒソヒソしながら、腫れ物を触るようにして、彼女には妙な笑みだけひたすら見せている。それがまた、僕のいるフロアにぎくしゃくした空気を生んでいた。

 年下の彼と付き合っていたのか、若い女に取られてしまったのか、破局したのか。すべては噂で、本当にそうだったのか、彼女からはなにひとつ認めていない。それでもこうなるとオフィスでは『年下の彼と付き合って、若い女に寝取られ、ショックで会社を一週間も休んだ女』と見なされるのだ。

 気のせいか。暫く、彼女が孤立しているように僕には見えた。


 他の女性達は帰ってしまったのに、彼女だけが残業をしていた。

 『大丈夫かよ。まだ出来ないの。僕も手伝おうか』。『ううん、いいの。私、集中力なくて、ただ要領が悪くて遅れただけだから』。ちゃんとやって帰る。そういうからそっとして、黙々とアンケート葉書のデーター入力をする彼女の仕事が終わるのを見守っていた。どちらにせよ。今日は僕がこの部署事務室の鍵を閉めなくてはならないから、待つことになってしまう。

 彼女の仕事が終わり、全てのマシンの電源を落とし、事務室の灯りも落とす。最後に鍵。その時、向かいのロッカールームから彼女が上着と荷物を持って出てきて、一人で暗い中帰ろうとしていた。その時、僕は『送っていくよ』と声をかけたのだった。


「さすがに一週間はヤバイよ。体調不良という理由で欠勤してもその理由が通用しない状況にあったし、『若い子に寝取られてダウン』なんて恋沙汰で休むのは、女の子達も迷惑だと思っていただろうし、特にパートのおばちゃん達がいちばん黙っていないと思うしね」

「……ったんだもの」

 小さな声で呟かれ、僕には聞こえなかった。『え、』と聞き直す。

「私が寝取ったことになっていたんだもの」

 なんだか混乱してきた。

「あれ、彼とは寝ていないんだよね」

「寝てないわよ」

「ん? 誰が『安永さんと彼が寝た』なんて話を流したんだよ。安永さん自身は寝ていないと言うなら、男の彼から安永さんと寝たとか寝ないとか知られるようなことを、誰かに喋っていたってこと?」

 彼としては彼女がいることを公表したんだから、美佳子との関係は無いに等しいことにしたいはずなのに。もし僕に恋人がいるのに他の女性とちょっとした関わりを持ってしまったとしても、口が裂けても恋人に知られないように黙っているし、会社のヤツにも同じ会社の女の子とデートをしたことなんか自慢したりしない。そんなリスクが高いこと……。そこまで考えつき、さらにその先を考えた時に僕はやっとあることに気が付きハッとする。なんだか急に見えきた!

「も、もしかして。安永さんが言っている『年下と喧嘩』って、公認の彼女の方!?」

 彼女がこっくり頷く。そしてその目に涙が見る間に溜まっていき、ボロボロと流れ始めた。

 つまり。営業の若い彼と付きあっていると公表してもらえた若い彼女が、彼が少しでも興味を持っていた女性を憎く思い、美佳子が不利になる噂を流した――ということらしい。

「それはヒドイ」

 女ってこえー。ほんと、僕は心底思った。あることないこと自分を良く見せるためなら、あるいは相手を貶めるためなら『平気で嘘を言う』のかと。

 これは僕も同情してしまう。

「安永さんもそこは『大人げない人間になりたくない』じゃなくて、ちゃんと反論した方がいいと思うな」

「会社で? 私はエッチしていない、あの年増女が私の彼とエッチしたとか言い合うの? 先に場違いなカードを切って私を勝手に土俵にあげたのはあっちなんだから。でも私は少なくともそんな愚かな土俵にはまだ立ったつもりはないから」

 彼女らしい言い分だ――と僕も納得してしまう。でも、このままでは……。でも、僕も彼女と同じ意見だった。

 たとえ、嘘でも本当でも。確かに職場で『男を寝取った寝取られた』とやり合うのは場違い。それに、僕もそんなみっともない美佳子は見たくなかった。どんな男の噂も『噂で終われる』そんな彼女であって欲しい。

 しかし向こうがそんな非常識な宣戦布告をしてきたなら、美佳子がスルーするにも限界があるようだった。先に言葉を表した者勝ち、『社会の噂』にはそんな性質がある。そして若い彼女も、若いが故に思いあまったところがあるのだろう。それを大人の美佳子が真に受けて真っ向から喧嘩するのも確かに『余計に大人げなく見える』ことになってしまうだろう。

「営業の彼、かばってくれなか……かばうはずないか」

 僕は溜め息をこぼす。男って、そういうところ簡単に逃げるからなあと。きっと彼も彼女の暴走でこんなことになってしまい、自分にどのような被害がこれから襲ってくるか。その前にどうやって収拾すればいいかと生きた心地がしないことだろう。……そこは『ザマミロ』と僕は密かに思う。

 若い彼女が先だったのか、美佳子を誘ったのが先だったのかはわからない。それでも彼は美佳子を誘っていたのは事実。そして若い彼女を後から選んだのも事実。これから男の彼も立場が悪くなっても、それも『身から出た錆』。しかも自分はまだ安全なところにいて、女同士を争わせ、知らぬ顔とは……。それも男として既にみっともない。彼も打撃を受けていることだろう。

 なんの対処も思いつかずただ考え込んでいる僕の目の前で、また美佳子がくすんくすんと泣き始めてしまう。今度はハンカチを握りしめ静かに泣いていた。ひたすら涙を流し、心底哀しいという彼女の想いが僕にも伝わってきた。

 毎日がもどかしくて仕方がないことだろう。あることないこと囁かれ、そしてなかなか去らない嵐に、厳しい視線に晒され、もう一週間も休むことなどできるはずもなく――。

「よほど、ショックだったんだな」

 きちんと仕事を続けてきた彼女が休んだんだから――。寝取ったなんて噂を流されて……。

「ショックだったのは……」

 涙声で彼女がやっと口を開いた。

「ショックだったのは。彼女がうちのコンサルのロッカーにまで押しかけてきて、『いい歳をした大人が、なに浮かれて若い男にひっついていったのよ。遊びに決まっているじゃない。みっともない。不倫の噂があるだけあって、人の男寝取るの得意そうね』て言われたから……」

 うっわ。若さってある意味凶器だな――僕の背筋が凍る。僕もこれから若い女の子を『宥める時』は言葉や接し方に気を付けようとすら思った。

「寝取ってはいないけど、『みっともない』は、本当のこと。私がショックだったのは、『みっともない』自覚が私自身になかったことよ。本当に馬鹿みたい。若い男の子にちょっと褒められて、その気になっちゃって。最近は年下の男の子と付きあうことだって世間的にそんなに変なことじゃない。そいうい甘えがあったのよ。『誘われたなら年下でもついてゆく』なんて自覚もユルユルになって、ほんとみっともない年増だって思ったら、すっごくすごく情けなくて……。喜んで彼の誘いについていった大人のはずの自分が恥ずかしい。そんな自分を殺したかったわ」

 驚いた。平気で人を罵る若い女の子を憎むどころか、自分の非を憎むとは。でも僕はこの時、ほんとうに『彼女が好きだ』とかあっと熱くなるのを覚えた。やっぱり彼女はこういう人だと。

「情けない自分にショックだったんだ……」

「もう三十歳越えた。いままでしっかり社会を見てきた大人だから大丈夫。なんて、思い上がっていたのね。ほら……三十過ぎて、だんだんと男性とのご縁もなくなってきて。ちょっとした焦りもあったのかも。年下の男の子に嬉しいことを沢山言われて舞い上がっちゃって。ほんと、私ってバカ!」

 っていうか。確かに美佳子は『綺麗なお姉さん』に見えるかもしれないが、アイツめ、何を思って美佳子を言葉巧みに誘ったのやら。年上の大人のお姉さんと一度だけ寝てもいいか――とか考えていたのだろうか。自業自得。お前は明日から美佳子以上に苦しめ――。僕はいつのまにか、営業の若い小僧に激しくむかっ腹を立てていた。

 泣いている女と、腸煮えくりかえっている男。そこへ空気を切り替えるかのようにして、僕のボンゴレがやってきた。

 つやつやとオリーブオイルで光り輝くクリーム色のパスタに、赤と緑の彩り。そして香ばしいガーリックとアサリ貝の潮の香。ふわんとした湯気に包まれて僕の前に置かれた。

「わー。佐川君のボンゴレ、美味しそう」

 彼女の前にも、ミートソースが置かれる。

「だから。この店のオススメはボンゴレだって言ったでしょう」

「だって。ミートソースって無難じゃない。私にはボンゴレは冒険なんだもの」

「それって。僕の言葉をまったく信用していないってことだよな」

「そういうわけじゃないけど。失敗したくなかっただけよ」

 美佳子がほんとうに羨ましそうに見てばかりいるので、フォークを手にしても僕も食べるに食べられなくなる。

 そして僕は決めた。伝票を置いて去っていこうとする店員を呼び止める。

「あの、グラスワインを白で。ひとつ」

 『かしこまりました』と店員が去っていく。

 そして僕は美佳子の前にボンゴレの皿を差し出す。彼女の不思議そうな顔。

「交換する?」

「え。いいの!」

「僕は何度も食べているし」

「本当にもらっちゃうからっ」

 『いいよ、いいよ』と言いながら、僕から彼女のミートソースと交換した。

 互いにひとくちずつ、やっと食べる。

「うわー。本当にこのボンゴレおいしー。佐川君、疑ってごめんなさい!」

「うん。たまに食べるとミートソースもうまいなあっ」

 互いに、いつもの自分とは違う一皿に舌鼓をうつ。

 暫くして、僕が頼んだグラスワインが運ばれてきた。

「こちらに」

 そのグラスを彼女の前へとお願いした。また彼女が不思議な顔をしている。

「僕が飲むわけにはいかないでしょう。車を運転して帰らなくちゃいけないんだから」

「え、どうして?」

「酔って忘れる、じゃなくて。一杯でも飲んですこしでも気分をほぐして、ぐっすり眠って『明日も業務を頑張ってください』――」

 唖然とした彼女の顔。その一杯が僕にとって『特別』であったのか、またはいつも彼女達を社外で宥めるためにご馳走している一杯のコーヒーと同じ感覚なのか。僕にもわからなかった。そしてきっと彼女も、『いつもの一杯』なのか『特別な一杯』なのかわからなかったのだろう。

 でも。やがて彼女が笑ってグラスを手にしてくれていた。

「ほんと、佐川君て。うまいわよねー。こういうこと」

 嬉しそうに飲んでくれたので、僕もそれだけでホッとした。

「ちょっと気が楽になった。やっぱり佐川君に聞いてもらって良かった。一人でもわかってくれる人がいれば、それだけで全然違うもんね」

 まだ哀しい眼差しはするが、グラスを傾ける彼女にもう涙はなかった。


 


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 翌日も、なんとなく孤立しているふうの美佳子ではあったが、以前通りにきちんとそつない仕事が出来る彼女に戻っていた。

「昨日は有り難う。ぐっすり眠れた」

「ふうん、それは良かった」

 僕の席で集めている書類を持ってきた隙に、美佳子からひとこと。そして僕も素っ気ない顔でひとこと。

 僕も変わらない。宥め役で終わった一夜。そして美佳子も変わらない。自分の小さなセクションをまとめている小役人の主任男に、いつもどおり愚痴を聞いてもらって立ち直っただけ。

 彼女が平常心を戻したのは嬉しいし、僕も楽しい時間を過ごせた。でも期待なんかしない。僕だっていい歳の男だ。小さな事で浮かれて勘違いなんかしたくない。

 いつも通り。彼女のことが好きでも……。


 だと、思っていた。


「佐川君って美味しいお店、いっぱい知っていそうだよね」

 暫く日が経った頃だった。二人になった隙を見て美佳子からそう言ってきたのだ。

「あといくつ『ボンゴレ』を隠し持っているのよ」

 ボンゴレを隠している――つまり『美味い店をどれだけ知っているのだ』という意味らしく、僕は笑い出しそうになったがデスクにいたのでなんとか堪える。

「なんか知らないと損している気になったきたのよね。なんとかしてよ」



 僕の答は決まっている。他の誰にも悟られないように、これまた彼女の顔などみないよう、脇にある書類を整理する振りをして小さな紙にペンを走らす。


「うん、わかった。これ僕の」

「サンキュ」


 携帯電話のメールアドレスを即行で記した小さなメモを差し出す。それを彼女はさらっと軽やかに取り去り何食わぬ顔で去っていった。


 それから半年後。僕たちは婚約した。

 社内の誰もが驚いた。『いつの間に!』とか『わからなかった!』とか。

 あるいは――。『どの男ともうまく行かなかったから、仕方なく地味な佐川君を選んで、噂で居づらくなったこの会社を寿退社するんだ』とも、囁かれていた。

 僕は彼女の逃げ道ということらしい。

 気にしない。僕は元々彼女が好きだったから。僕はいま大満足。


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