十五

 布団を被ってしまえば眠りに落ちるまでは早かった。

 そうだ、簡単なことじゃないか……武藤が和久田の前から消えれば、和久田が彼女を殺す可能性はゼロになる。ほんとうはクラスや学校が同じになるのさえ嫌だけれど、さすがにそこまで変えるわけにもいかない。今はこれが精いっぱいだ。なに、ゴールデンウィークが明ければきっと席替えなんかもあるだろう。そうなればいよいよ武藤ともおさらばできる。

 しかし本音を言えば、全然「おさらば」なんて心地ではないのだ。できることなら彼女の全身を、あの白い肌や肌に包まれた骨肉を余す処なく愛でていたかった。だがそんなことをしていたら、いつフェルミが埋め込んだ怪物が、和久田の手を操って彼女の首を絞めにかかるかわからない。

 クウガにも天道にもなれないけれど、それでも殺人を喜べるような人間にはなりたくなかった。彼、天道の黄金色の瞳が一瞬脳裏に浮かんで、意識が溶けていく。

 和久田は泥のように眠った。


 天道は何でも知っていた。いや知らないこともあっただろうが、当時の和久田からすれば、彼はこの世のすべてを知っているのではないかと思えるほど博識だった。彼は話すのが好きで、それ以外にも自転車で生田緑地やみなとみらいまで行ったり、石切りで石が跳んだ回数を競ったりした。

 しかし、少なくとも一年は一緒に過ごしたというのに、和久田はついぞ彼がどこでどんな風に暮らしている何者なのか知ることはなかった。彼は自分自身のことについて話すことはほとんどなかったように思うし、和久田も和久田で自分のことをすすんで話したりはしなかった。

 彼について和久田が一番強烈に覚えているのは、いつ思い出しても変わらず、彼の黄金色の瞳なのだった。


 和久田は十一時過ぎに起きた。雲が晴れて月が見えた。

 武藤に嘘をついてしまったこと、もう武藤を犯すことも殺すこともできないこと、それらが悲しくて、今にも涙が出そうだった。でも悪いことばかりじゃない。武藤を傷つけずに済む、フェルミもきっともう狙われることはないはずだ。何が目的か学校に潜入しているけれど、周りに何か害を及ぼしているわけでもないのだから。

 彼女はこれからも人間に交じって平穏に生きていくことだろう。夜な夜な青い童女と黒いゴムの肌の怪物の姿になって、翼を羽撃かせ、和久田の知らないところで、人の意志と命を、集め攫い、喰らいながら。しかしどうしても彼にはあの童女が怪物の姿で月の夜を飛ぶ姿を想像できなかった。

 間違いなく彼女たちパルタイは、自ら生き長らえる過程で人を殺している。しかし彼らにとってみれば願いを叶えることや《意志》の収集と捕食、その結果としての人の死は狩りや食事の謂いであり、フェルミなら「私は《意志》をもらってるだけです、向こうが勝手に死んでるんですよ」とでも言うのではないか。曰くパルタイは人間の《存在への意志》を食わぬことには消えてしまうらしいではないか。パルタイには生きるために人の魂が必要なのだ。そして彼らが《超人》に至るためにも。

 思考はパルタイが目指すところのもの《超人》に跳んだ。超人Uebermensch、人間とパルタイの間……その言葉から和久田は、フェルミが強調していた「アポロンとディオニュソスの間」というフレーズを思い出した。たしかあれは『悲劇の誕生』だっただろうか? 音楽の精髄からの悲劇の誕生die Geburt der Tragoedie aus dem Geiste der Musik…………フェルミは入門用の新書と、かのドイツの哲学者の処女作『悲劇の誕生』を読むよう強く薦めてきた。受験が終わった三月の和久田も、むつかしい本を読むことにはまんざらでもなかったので、四月半ばを過ぎた現在より遥かに無邪気に二冊を読み終えた。

 アポロンとディオニュソスの間……『音楽の精髄からの悲劇の誕生』の中で、アポロンとディオニュソスという二柱の神はそれぞれ異なった属性の象徴として語られる。アポロンは夢と光明と理性の神、ディオニュソスは陶酔と狂奔と情動の神。そして前者は色と形を示す光彩の神にして、後者は燃え猛る音楽の神。そして若きドイツの哲学者は言う。後者ディオニュソス、合唱団が奏でる音楽こそ悲劇の中心、人間の内なる見えざる力の忠実なる顕現である。だがディオニュソスだけでは悲劇は生まれない。衝動は知性認識されえない。陶酔Rauschは光=仮象=表象Scheinによって肉付けされることでようやくこの世界に感覚可能知覚可能な形で姿を現し、舞台の構成要素ストイケイアになることができる。舞台上で科白ロゴスを表す演者があり、彼らの身に着ける身に着ける諸々の造形と、悲劇合唱団の音楽とが混ざり溶けあったところではじめて、オリエントの西の果てに燦然と輝く古典ギリシア悲劇は生まれるのである。

 アポロンが人間、ディオニュソスがパルタイに対応するのだろう。そしてその間、即ちパルタイが無数の人の魂を喰らい混ざりあった地点に、パルタイの追い求める《超人》がある。翻って和久田についていえば、フェルミはつまるところこう言っているのだ。「もっと自分の欲求に正直になれ」。自分は願いを叶えるものであって変えるものではない、願い、衝動が告げられれば、それに形Scheinを与えて現実にすることもできる。

 現存する最古の悲劇は二千五百年前に遡る。アイスキュロスの『縛られたプロメテウス』。巨人神ティタンの一人であるプロメテウスに関する説話は古くギリシアの先史年代からあって、それはヘシオドスの両書にも相当委細に記されている。『縛られたプロメテウス』はアイスキュロスが物したプロメテウス劇三部作の第一で、あとに『解放されたプロメテウス』『火を運ぶプロメテウス』の二つが続くと多く推定されるが、この二者は時の砂粒に埋もれてしまった。

 最古の悲劇の主人公が古い神であったことは重要である。

 運命は神々の上位にあった。完全性さえも超越した無慈悲だった。

 かつて文献学者であり、イタリアの山野にオリエント東端の大平原の賢者を重ねたかの男が目指したのは運命を受け入れその繰り返しをさえ望む人間だった。神話的強力を超えた強力、運命を前にした認識の強力。一瞬を肯定することでそこに至るまでのすべての時間と、そこから始まるすべての時間を肯定する、神話的に強靭な然りの一撃。

 運命は彼岸に、人間は此岸にある。運命に抗する能わざる人間が身に余る願いを成就させんとするならば、奇跡の力を振うあの神話的なパルタイの力を借りるよりほかない。

 ――彼女の願いは尋常の方法では、パルタイの力をもってさえ不能ざる事柄でありますゆえ。

 では、パルタイの技術はおろか、恐らくは人間の戸籍というきわめて社会的なものさえでっちあげられる《インテリジェンス》でさえ実現不可能な願いがあるとすれば、そのときパルタイは?

 改めて思い浮かべてみると、パルタイの願いという語はやはり和久田にとっては滑稽な感じのあるものに思えた。パルタイは願いを叶えるものではないか、そのパルタイが何かを願うなど……しかし、どうやら事実であるらしい。ぴしゃりとニールスの声を遮ったときのフェルミは決しておふざけで言ってはいなかった。

 和久田はベッドに腰かけた。部屋に切り込む夜の光は濃い青い色をして、彼の顔もまた濃紺の光を背後から受けた影の中にあった。


 上弦の月が見えた。外に出ると、甘い空気の中を涼しい風が吹いた。

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