語る武藤の瞳に和久田が涙をみとめたとき、彼の魂の炉は激しく燃え盛った。彼女の白い肌とは異質の、蛍光灯の光の照り返しによって光る、白い目を覆う塩辛い涙の輝き……涙を流している! 武藤が涙を流している! そしてその涙の始動因が自分でないことに、和久田はかすかに不快を感じた。

「私は死ねない体にされていたんです。いえ死ねないどころか、傷つくこともできない体にされていました」

 武藤は袖をまくって左手首を露出すると、引き出しからカッターナイフを取り出して逆手に持ち、振り上げる。

 あ、と和久田が声をあげるのも束の間、武藤は一気に右手を振り下ろした。刃はまっすぐ左手首に吸い込まれたが、白い肌に触れた瞬間甲高い音を立てて動きを止める。武藤の意思で止めたのではないことは明白だった。刃を突き立てんとする武藤の手は未だ力を込められて震えている。武藤はカッターナイフを引き出しにしまった。

 曰く、関谷が生前に《ビオス》と契約して武藤にかけた《呪い》により、肉体を傷付けることができなくなっている、らしい。

「それで、その後どうしたんだ」

「手紙に書いてあった方法で《ビオス》を呼び出しました」

 現れたのは武藤がかつて目にした空色の髪の女とはまた別の、黒い服を着た赤目の男だった。彼は《ビオス》の「都村」と名乗った。武藤は最初、関谷を蘇らせることはできないかと駄目元で問い、男は不可能だと返答した。次に武藤が藤原……関谷の手紙にあった、あの空色の女の名前である……を自らの手で殺したいと言うと、都村は「出来るが時間がかかる。すこし待ってほしい」と言い、問答無用で武藤の黒兎の姿と爪を与え、姿を消した。都村が言うには、「仕事がたまっている」とか、なんとか。

「それが今年の一月の初めです」

 強く発音された一月という言葉に、和久田も反応した。一月、クウガの始まりと終わりの月。和久田の後輩が河川敷でホームレスの集団死をみつけた月。

「そして多摩川と幸区で二件不審死があって、《パルタイ》が現れた。間違いなく《ビオス》と《パルタイ》はつながっている。つながっているはずです。私は都村を探し出してなぜこんなことをしているのか問い詰め、私との契約を、藤原を探し出すことを再開させなければならない」

 武藤はそこで一度言葉を切って、言った。

「お願いが二つあります。一つは私が今話したことを誰にも言わないでいること、二つめはフェルミ瑠美と金輪際手を切ること」

 一つめはいいとして、二つ目――それは、できない。少なくとも簡単に約束はできない。即座にそう考えて、彼は自分でもフェルミへずいぶん肩入れしているものだと意外に思った。いや、そもそも武藤は何か勘違いをしているのだ。フェルミはつい昨日和久田に言った。べつに『叶えちゃいけない願い』を聞き出したところで和久田の魂を奪おうとは思わない、その願いはきっと超人の完成にも利するものだろうから、と。和久田はその言葉を信じていた。フェルミはあくまで和久田の中に自体的にあるとするその願いを利用しようとしているが、それは和久田の命を奪うという形では実現されないだろう。

 しかし、それを武藤に話したところで、聞く耳を持っているとはどうにも思われない。

 すると武藤は、

「ただでとは言いません」

 と言うと、二歩三歩と前に出て、椅子に座ったままの和久田の膝の上に馬乗りになって、下から肩へ手を回して上体を抱きしめた。

「もし条件を飲んでくれるなら、そう、私の体を好きにして構わないんですよ」

 異性との交際は過去二回、それも(ちょうど水族館に行った時のフェルミとのように)手を繋いだきり。キスなど一度として経験のない和久田である。顔が耳から熱くなるのを感じた。しかしその官能に刺激されて、仄暗い空間における惨殺のヴィジョンが意識に上ってくると、今度は一気に血の気が引いた。胃が鉛の塊のように冷たく、重たくなり、体中の血液が外へ流れ出したかのようだった。

「待て、武藤、ちょっと離れて」

 言いながら武藤の体を引き剥がそうとして、しかし、どこを掴もうか。迷う間にも武藤は可能な限りの全身を和久田の体に密着させていた。武藤の方から一度身を離したが、彼女は羞恥の一切を看取させないまま和久田と目を合わせた。透明な瞳が硝子玉のようだった。

「駄目ですか?」

「どうして体を差し出すことになる」

「一般論でいって、男子学生に何かあげるとしてこれだろうなと」

 耳元でささやく声も、和久田をまっすぐ見る目も、いたって真面目な調子だった。いや、事実武藤は真面目そのものなのだ。徹頭徹尾真面目に、他人の命のために、自分の体を差し出そうとしている。没交渉ぶりをみるにきっと処女だろう、それを、たかだか一般論ごときで平然と投げ捨てるなど、出来るものなのだろうか? いや、武藤陽子にはそれができる。できて、現に今それをやろうとしている。

 武藤は腿の上に座ったままブレザーのボタンに手をかけ、脱ぎ去った。武藤の肌は漂白されたワイシャツよりもなお白く透き通っていた。顔も胸も直視できない和久田は視線を首まで落とし、ぶれる眼球がとらえる視界の中に、吸血ではなく捕食として白い首を損なうことができたらと思った。

「和久田さん…………ねえ、徹」

 やめてくれ!

 和久田は叫んで、武藤の肩を掴むと、ほとんど突き飛ばすような形で武藤を引き剥がした。そのまま立ち上がるとキャスター付きの椅子は後ろの学習机にぶつかって音を立て、武藤は頭から床に落ちていったものの運動を停止し、尻餅をつくようにして着地した。

 右の目では目の前の武藤を見て、左目では同じ武藤を縊り殺すのを見ていた。うつろな暗い部屋、水平線の彼方まで後退した黒い壁の部屋の、炭の色をした床。フェルミがおれの肉を食べている。おれの肉を食んでいる。頬に口付けし、歯を立てる、硬い音、削げる肉。肉は林檎だった。おれの歯は脂と血を垂らした。フェルミ、裸体のフェルミ、黒い影の頭、鎖骨の下の肉、甲高いよろこびの声。物言わぬ武藤の亡骸。覆い被さる蜘蛛。

 その肉は林檎だった。首筋に舌が這い、青い痣に歯を立てた。

「違う!」

 和久田は叫んだ。骨から肉を冷やす恐怖がもたらす叫びだった。

「違う、違う、違う、違う、違う、違う……おれじゃない、そんなはずがない。やめろ、やめてくれ武藤。それだけは嫌だ。おれは、おれは人を殺したくなんかない」

 和久田は顔を覆って蹲った。己の内なる怪物の願いを、裏返しであれ表に出してしまった。あんな風に突然武藤を突き飛ばして、もし武藤が《呪い》を背負っていなかったら、今頃彼女は物言わぬ死体になっていたかもしれない。第三には、武藤が自らの秘密を明かし交渉を持ちかけているにもかかわらず怪物を制御できない、交渉に身を入れられない自分の弱さが気に入らない。いきなり突き飛ばして、意味の分からないことを口走って、武藤は明らかに異様なものとして和久田を見ていた。第四に聖体であるところの武藤に、和久田はいとも簡単に欲情してしまった。こうして蹲っているのだって、股の間で厚かましくもいきり立っているものを隠すためでもあるのだ。冒涜だ。情欲の目で女を見る者は、既に姦通の罪を犯している……

 机と椅子の間に体を嵌め込み、ほとんど気が触れたようになっていた和久田の呼吸が落ち着くまで、武藤は何も言わずただ和久田を見下ろしていた。やっと話せそうになったところで、彼女は言った。

「わかりました。すみません。和久田さん、ロマンチストなんですね」

 一体彼女がどんな理解をしているのかわからなかった。間違った理解をしているというのだけはわかったが、しかし何も言わなかった。

「簡単に股を開くような女とは関係を結びたくないというんでしょう。良いと思いますよ、健全で。そうあって然るべきだと思います」

 和久田の目の前にしゃがみこんで語る仕草は、泣く子を慰める時の挙動のようにも思えた。そういえば彼女に兄弟姉妹はいるのだろうか。恐らくいないだろうという気がしていた。

「踏んでくれないか」

 そう言うと、武藤は、「はい?」と怪訝そうな声をあげるのみで、真意をつかみかねるというよりかは和久田が何と言ったかも確信できていない様子だった。彼は顔を見せないよう伏せたまま足下まで這っていった。

「頭でも背中でもいい、思いきり踏みつけてくれないか」

 今この瞬間何を望んでいるかと問われればそれしかなかった。靴下越しでさえ武藤の体に触れることはおこがましいが、罰としてこれ以上はないように思われた。

「踏むというのは、足で? 足の裏でですか?」

「そうだ」

 武藤は黙っていたが、やがて脚を持ち上げる気配がして、恐る恐る和久田の頭に足裏が乗るのがわかった。もっと体重をかけるよう言うと、その催促に応じて、後頭部にかかる重量が増えた。和久田は額をカーペットの敷かれた床に着けた。土下座する和久田の頭を武藤が踏みつける形だった。彼女は時折ぐっと強く体重をかけたり、足裏を擦り付けるようにぐりぐりと動かしたりした。

「これでいいですか」

「ありがとう」

 和久田は起き上がると、荷物を持って部屋を出ようとしたが、そこで武藤が彼をひきとめた。

「一応、口約束でいいので、宣言してくれますか。今日のことを秘密にし、フェルミと一切の縁を切ると」

 ちょうど和久田は戸の方を向いていたので、声は背後からかかってきた。ドアノブに触れようか迷っていたところで、彼の手は宙に浮いたままぴたりと止まった。

「秘密は絶対に守る。でも、フェルミと縁を切るのは、駄目だ」

「何故です」

 その声を聴くだけで鳥肌が立った。三メートルとない背後で窮極の害意が膨れ上がり、空間を圧迫さえしている。

「もしおれが縁を切ると言ったら、フェルミを殺すんだろ?」

「はい」

「フェルミを見殺しにしたくない」

「どうして」

「言っても信じてくれないと思うけど」

 そこで和久田は一度言葉を止めた。武藤は遮るでもなく、何です、と言うので、続きを言う。

「昨日フェルミはおれに言ったんだ、おれの願いはパルタイの目的を遂げるのに利益があるかもしれないから、《ビオス》や他のパルタイみたいに契約してもおれを殺すことはないって」

「和久田さんは、それを信じているんですか?」

「うん」

「信用ならないでしょうそんなこと」

「おれは信用してる」

「それで死んだらどうするっていうんですか!」

 今まで聞いたことのない声だった。肩が痙攣し、強張る。振り向きたくない、早くこの部屋から脱け出したい、しかしそうもできなかった。

「こっちを向いてください……和久田さん……早く!」

 命令とあれば従わないわけにはいかない。振り返って彼女を見ると、細い目の奥で涙がきらきら白く光っている。和久田は急に苦痛をおぼえた。自分は武藤に涙を流させてしまっている――。

「そんな戯言を信じて死ぬかもしれないんですよ。それが、間違っていないはずがない。ずいぶん仲が良いようじゃないですか、絆されたとでも言うんですか、あの人外に?」

 和久田は短い間考えた。間違ってはいなかった。

「そうだ。おれは、フェルミに死んでほしくないと思ってる」

 携帯電話を取り出し、LINEを起動させると、友だち一覧からフェルミのアカウントを選んで、武藤の前に画面をつきつける。

「でも、もう踏んでもらったんだし、その分のことは最低限しなくちゃいけない。だからとりあえずLINEをブロックするのと、アドレスやらも消す」

 操作をして逐一見せている間、武藤は何も言わなかった。ただむっとした風の顔をして、伏しがちの顔の目だけを画面につきつけるだけだった。

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