Nothing Helps 2

 よくよく見れば、そこいらじゅうに腐臭を撒き散らすなにかが落ちている。

 彼女たちの視力でそれを捉えられなかったのは、はたして幸いだったのか、それとも不幸だったのか。

 落ちていたのは、長く伸びた爪にマニキュアを塗った女の左手首だった。

 まるで獣のあぎとに喰いちぎられたがごとくにその手首より上は無くなって、手首から先だけがもとからそうだっかの様にそこに無造作に落ちている。

 否、落ちているのは手首だけではない。

 そこにあるのは、体だった。

 手足。内蔵。脳。眼球。胴体。頭。

 人体を構成するおよそ思いつくかぎりのありとあらゆる部品が、堆積した埃が血を吸って固まって出来た真っ赤な床の上に転がっている。

 とうに萎びた眼球が、放り投げられたまま忘れ去られたボールの様に転がっている。

 明らかに幼い子供のものと思しい人間の脚の膝から下だけが、倉庫の壁際に落ちている。

 腸が床の上でとぐろを巻き、その上に幼い男の子の腐りかけた生首が載っている様は、まるで出来の悪いオブジェの様だった。

 頭は頭蓋骨が眉の上あたりから無くなって、中の脳髄だけが齧られた西瓜の様に半分欠けている。

 壁際には襤褸布と化した衣服を申し訳程度に身に着けた、四十代の男性の遺体が転がっている――はだけられた胸元からはあるべきものがごっそり無くなって、胸郭周りの骨と内臓、筋肉が剥き出しになっている。腕は無い――たぶんすぐそばに落ちている、薬指に指輪を嵌めた左腕が彼のものなのだろう。右腕はどこに行ったのか見当たらない。脚は残っていたが、太腿がごっそりと食いちぎられて無くなっていた。

 肋骨と胸骨が無くなって剥き出しになった心臓と肝臓は七割がた喰い散らかされて、切れ端だけが倉庫の隅に放り出されている。

 肺は口に合わなかったのか手つかずのままだった。

 指はそこらじゅうに落ちていたが、ばらばらになったそれらを集めたら到底ひとりぶんでは収まるまい。

 脳は大きすぎるプリンの様に、自重に負けて床の上でぐしゃりと潰れていた。

 膵臓は無傷のまま、踏み潰されて黒く汚れている。

 背骨は妙に綺麗だった、まるで血の一滴も残さない様丁寧にしゃぶり尽くしたかの様に。

 腰椎は興味を持たれなかったのか、薄汚い床の上に放り出されている。

 膝は骨だけが残っている――筋張った部分だけが手つかずのままで残っていた、肘も似た様なものだが、骨髄が綺麗に吸い出されていた。

 肋骨はこれまた綺麗にしゃぶり回されて、まったく血がついていない。

 太腿は脂の多い白身の部分だけが、食べられずに残っている。

 壁に叩きつけられて潰れているのは子宮だと知れた――ひと口だけ噛み跡がついている。まるで味見して口に合わなかったものを、癇癪を起こして投げて棄てたかの様に。床の上に落ちたその残骸の中に、小さな小さな掌が覗いていることを彼女たちが知らずに済んだのは、おそらくは幸いなのだろう。

 それらの部品――否、この際『喰い残し』と表現すべきか――が見えていなくとも周囲に満ちに満ちた凄絶な死の気配は感じ取れるのか、彼女たちの怯えは増す一方であった。

 と――男が動く。彼は大義そうに屍の山の上で腰を上げると、屍の山を踏みつけながらひょいひょいと軽い足取りで彼女たちに近づいてきた。

 女子高生が悲鳴をあげる――だがその声は猿轡のために、むーむーといううめき声になっただけだった。

「こ、来ないで!」 代わりに悲痛な叫びをあげたのは、紫色のスーツを着込んだOL風の美女であった。もがいているうちに、縛りが緩かったのか猿轡がはずれたらしい。

 だが拒絶の叫びは、ただ男の興味を引いただけの結果に終わった様だった。

 一番左端にいた幼稚園児に歩み寄ろうとしていた男の視線が彼女に向けられ、よりによって彼は彼女を最初の獲物に定めたらしい。

 だが、それはある意味幸福だったのかもしれない――少なくとも、残る全員が死ぬのを見届けて自分の末路を理解してから、訪れる死を待つことだけは無い。

「へぇ……僕に意見するんだ、お姉さん」 体は大人でも心はまともに成熟していないのか、どこか子供じみた口調で言いながら、男は彼女の前に立った。

 薄汚い床の上でひざまずかされたまま男を見上げる視線には、これから訪れる事態に対する恐怖が満ちている。

「あは、ずいぶん脅えてるね、お姉さん。なにがそんなに怖いの? 強盗? 強姦? あ、わかった。殺されることでしょ? ね、当たってる?」

 あはは、と気楽に笑う男――恐ろしいことをまるで子供の様に無邪気な口調で話す男のその瞳に紛れもない異常者の眼光を見いだして、彼女は声も出せないままいやいやと首を振った。

「あは、大丈夫だよ。僕もねぇ、前は色々怖いものがあったんだ。そこのそいつらとかね、ひどいんだよ――僕が出かけるとね、『このオタク野郎が』って殴りかかってくるんだ。僕はなにも悪いことなんかしてないのにさ」

 無邪気な口調が却って恐ろしい。脅える女性に向かって、彼は続けた。

「でもね、先週の金曜の晩に僕は選ばれたんだよ――知ってる? 三週間前の晩に起きた大量惨殺事件」

 男の口にしているその事件は、ちょうど三週間前の金曜日からから土曜日にかけての未明に発生した、路地裏で十数名分の死体が発見された事件であろう。

 老若男女お構い無しに十数人の人間が惨殺され、そして奇異なことにそのいずれもが体中の血液を抜き取られたことによる失血死。

 また異常なことに、そのいずれにも抵抗の形跡は無く、まるで命尽きるまでおとなしく血を吸いだされるに任せていたかの様な有様だったという。

「犠牲者は十六人だって言ってたでしょ? でも、違うんだ。ほんとは十七人。僕もそのときそこにいたんだよ――信じられる? 確かに血を抜かれて殺されたはずなのに、気がついたら僕は生きてたんだ――しばらく訳がわからずに街を歩いてたら、ほら。お姉さんを抑えつけてる、その緑色のが絡んできたんだよ」

 彼女の左肩を拘束している緑色に髪を染めた男を指差して、男はあははと笑った。

「普段なら僕みたいな、ほら、頭脳明晰だけど普段頭脳労働ばかりだから喧嘩の苦手な人間は、こんな低劣な連中相手には逃げるしか無いじゃない? でもね、そのときは違ったんだ――なんだか無性に喉が渇いてさ、たまんなくなってこいつの首に噛みついたんだよ。そうしたら凄いんだ。血を飲めたんだよ――コーラなんかじゃ、あれには全然足りない。物凄く甘くて美味しいんだ――きっと金持ち連中が食べてる物よりもずっと美味しいよ」

 無遠慮に指差された男が表情にも眼差しにも反感を湛えながらも、動こうとはしない――自分よりはるかに貧弱そうな目の前の男を捩じ伏せ打ちのめすことを、そもそも考えることすら出来ないかの様に。

「それに、血を吸うとこいつらは僕の言うとおりに動くんだ。そこにいるそいつなんかね、前に僕に靴の裏を嘗めさせたんだよ。この僕に、この僕に――世の中のバカどもには、僕の優秀さは理解出来ないらしいけどね、僕はやがてこの世界の頂点に立つ天才なんだ。その僕に、そこの豚は靴の裏を嘗めさせたんだよ――わざわざ犬の糞を踏んだ靴の裏を!」

 話しているうちにその時の屈辱を思い出してきたのか、男の声のトーンが跳ね上がった――だがそれも一瞬のことで、男は何事も無かったかの様に続けてきた。

「――だから、そいつが犠牲者第二号。そうしろって言ったら、犬の小便だって嘗めるし、糞だって食べるんだよ。面白かったぁ……」

 うっとりとした恍惚の表情を浮かべてそのときの記憶を反芻している男に、彼女はますます脅えの色を強くした――男はそんな彼女の様子など気にも留めず、

「凄いでしょ? わかるでしょ? 僕は選ばれた者なんだよ――この世界でたったひとり、なんでもやりたいことを好きな様にやっていいんだ。他の誰でも、自分の下僕にする権利があるんだよ――でもさ、やっぱり奴隷にするならこんなむさ苦しい奴らなんかよりも若い女の子のほうがいいよね。だから最近は女の子を集めてるの。ほらほら」

 言いながら、男がいずれも若い女性ばかりの背後の死体の山を指差す。

「あんなふうにね。お姉さんは特に若いし綺麗だし、当たりだな」 そう言いながら、男が彼女の前にかがみこみ、首筋に手を添える。

 続いて、男は彼女の上着をはだけさせ、ブラウスのボタンをはずして首筋を露にした。暴れようとしても両肩をがっちりと抑え込まれて、抵抗もままならないらしい――否、もはやそんなことを思いつきもしないのか、彼女はカタカタと歯の根を鳴らしながら震えているだけだった。

「クラスの女もね、僕のことを嫌ってたんだよ――気持ち悪いだのなんだの言ってさ。だから決めたんだ――世の中の若くて綺麗な女の子たちを、みんなみんな醜い姿にしてやろうって。一度試してわかったよ――女を犯すより、そっちのほうがずっと気持ちいいんだ」 壁際に並んでいる数人の女性――まるで死体がそのまま歩き出したかの様な濁った瞳でこちらを見つめている数人の女性たちを視線で示し、男は再びこちらに視線を戻した。

 色白の肌を晒されつつあるにもかかわらず、声が出ない――男たちが彼女を拘束する力はまるで電柱にでも括りつけられたかの様で、振りほどくことなど到底不可能だった。耳元で狂人が読み上げる宣告の内容が示唆する身の危険に助けを呼ぶことも出来ないまま、ただ脅え震えることしか許されていない。

 両腕を抑えつけられて抵抗出来ない彼女の首もとに鼻をこすりつけ、男はうっとりと息を吐いた。

「――はぁ、お姉さんいい匂いがするね」

 恐怖のあまりに歯をかちかちと鳴らしていた彼女は、男が蛞蝓の様な舌を首筋に這わせる段にいたって、とうとう失禁しながら悲鳴をあげた。

 あるいは気づいたのかもしれない――この廃倉庫に満ち満ちた胸の悪くなる様な死臭、その最大の発生源がほかでもない、この男であることに。

 彼女の頭の位置からでは死角になって見えないので彼女は知る由もないが、男の歯は犬歯が異常に長く伸び、鮫の歯を思わせる鋭利な尖端からはぽたぽたと生暖かい唾液が滴り落ちている。

「楽しみだな――こんな綺麗な肌が、じきに汚くなる」

 そして男は、女の首筋にかぶりついた。

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