●元気をくれるひと。

 初生は結局、風坂先生の授業に出なかった。小テストだったのに。


 でも、成績の心配は無用だった。風坂先生は、いつもの縦長なえくぼをつくって言った。


「今日うまくできなかった人は、欠席している人と一緒に、3日後に追試です。絶対、全員を合格させるからね」


 風坂先生の出す課題は簡単で、採点はちょっと辛い。落第させるのが目的みたいな難しいテストがない反面、技術を徹底的に身に付けるまで合格が出ない。


 授業の終わりに、風坂先生はあたしに告げた。


「放課後、片付けを手伝ってもらえるかな? 実習に使った人形や道具を倉庫に運ぶから」


 そういう仕事、普通は男子が声を掛けられる。でも、今日は特別。風坂先生はあたしの話を本当に聞いてくれるんだ。


「わかりました。お手伝いします」


 あたしはちゃんと笑顔で答えた。その後の授業も、初生は出なかった。早退したみたいだった。



***



 放課後、あたしはナースⅢ実習の教室に戻った。


「失礼します」

「どうぞー」


 風坂先生がメガネをかけ直して、あたしに微笑みかけた。メガネを拭いていた布を、シャツの胸ポケットに押し込む。


 あたしは教室を見回して、首をかしげた。


「先生、あの、片付けるものは?」

「もう片付けたよ。重さ50キロの人形を女の子に運ばせるわけにはいかないって。最終コマは授業が入ってなかったし」


 最後が空き時間だったってことは、ほんとは放課後を待たずに帰れたんだ。


「なんか、スミマセン」


 風坂先生は適当な椅子に腰を下ろした。あたしは風坂先生に手招きされて、隣の席に着いた。風坂先生は、ふふっと笑った。


「教室のこっち側って、ずいぶん久しぶりだ。授業をするときは、あっち側だもんな」

「え?」

「普段ぼくが立つあっち側は、大人の側で教師の側。本当は全然、大人なんかじゃないのにね」


 大人ですよ、先生は。たくさん気遣いできる人だもん。あたしはバカで無神経で、頼りなくて情けない子どもで。


 風坂先生は、沈黙を作らないリズムでしゃべってくれる。


「特進科の甲斐瞬一くんは、医学部志望だよね?」

「はい」

「狙ってるのは、響告大医学部の先端医療学科。それ以外は眼中にないって言ってる」

「知ってるんですね、瞬一のこと」


 瞬一が目指す響告大学医学部の先端医療学科は、パパが「挑戦」を叶える研究機関だ。


 パパの病気、ALSを治せる可能性があるのは、万能細胞を使った最新の先端医療だけ。響告大医学部は、万能細胞医療の臨床では世界でトップレベルだ。


「実はね、ぼくの妹がそこで研究してるんだ。響告大医学部の先端医療学科、万能細胞研究のラボで」

「それって、瞬一の志望してるとこ……!」

「うん。だから、ときどき瞬一くんと話をするんだよ。1度、妹の研究室に連れて行ったこともある」


 風坂先生はあたしを見ている。露骨に観察するわけじゃなく、でも細心の注意であたしの様子をうかがってる。


 介助士の目だな、って感じた。相手が何を望んでいるか、どうすれば苦痛がないか、読み取ろうとしている。


 あんまり気を遣わせるわけにはいかないよね。あたしはバカだけど、ちゃんと自力で立てるんだから。


 あたしは笑顔をつくった。


「瞬一から、志望校の理由、聞いてますか?」

「具体的には何も」

「そうですか。瞬一があたしの家に住んでるって話、聞きました?」

「それも初耳だよ。妹はいろいろ聞かせてもらったらしいけど。瞬一くんとぼくの妹、タイプが似てるから、話しやすかったみたいで」


「きょうだいとして育ったんです。あたしが姉で瞬一が弟。瞬一はああ見えて、抜けてるところもあるんです。世話、焼かなきゃいけなくて」


 だから、信じられない。あたしが風坂先生の前で抱えるドキドキを、瞬一がいつも、あたしに対して感じてたなんて。


 毎日、同じ家で顔を合わせて、家族同然で、それなのに、あたしは何も気付いてなかった。瞬一は気付かせてくれなかった。


 風坂先生は、癖っぽい髪を掻き上げた。


「遠野初生さんは、瞬一くんのことが好きなんだね? その……告白、したの?」

「あたしが余計なこと言ったのを、瞬一が偶然、聞いたんです。初生と瞬一が付き合えばいいって」

「間が悪かったんだね」


「あたしのお節介な一言のせいで、初生が瞬一に告白することになりました。それで今日、返事を先送りにしてた瞬一が答えて」

「その場面を、ぼくが聞いてしまったわけか」


 風坂先生は困ったように眉尻を下げた。


「巻き込んで、ごめんなさい」

「いや。まあ、悩むよね」

「どうすればいいか、わかんないんです。初生には嫌われたし、瞬一には今まで以上に避けられるだろうし。自分のバカさ加減が、ほんとにイヤです」


 あたしはいつの間にか下を向いていた。


 ふわっと、あたしの頭の上にぬくもりが載った。手のひらだ。風坂先生の手のひら。


 懐かしい感触だった。昔、あたしがべそをかくたび、パパがよくこうしてくれていた。


「えみ、いじけた顔をして、どうしたんだ?」


 頭を撫でてくれる手のひらは大きくて温かくて、あたしは顔を上げる。あたしの前にいるのは、パパじゃなくて風坂先生。


 ドキリと、あたしの心臓が大きく打った。


 風坂先生は「あっ」と小さく声をあげた。苦笑いで、手を引っ込める。


「ごめんね、笑音さん。つい、妹にするみたいなことをしてしまって」


 そっか。妹さんか。あたしもパパのこと思い出しちゃったけど。


 あたしは、背が高くて優しくて年上で声がステキな人が好きで。その根っこにあるのはパパの存在だって、急に気付いた。


「風坂先生って、うちの父の若いころに似てます。あたしがちっちゃかったころの父に」


 もちろん、風坂先生のほうが何倍もイケメンだけどね。風坂先生は苦笑いのまま言った。


「年齢的にも、そんなもんかもしれないな。31歳ともなれば、小さい子どもがいてもおかしくない」


 どさくさまぎれに訊いちゃおうかな。


「先生は、結婚とかしないんですか?」

「相手がいないよ。ずーっと、それどころじゃなかったんだ。今も引き続き、それどころじゃないし」

「仕事のためですか?」


 風坂先生が普段の笑い方をした。その表情、あたしにはわかる。「絶対に笑顔でいよう」って、悲しみを閉じ込めるための笑い方。


 先生は何かを背負っているんでしょう? なぜだかわからないけど持たされちゃってる、運命の大荷物。


「ぼくがヘルパーになった理由は、親友のためなんだ」

「親友、ですか?」

「最初にあいつの車椅子を押してから、もう10年になる。あいつがぼくの人生を導いてくれたんだよ」


 過去形だ。


「大切な人のお世話や介助をするのは、つらい仕事ですか?」


 覚悟してなきゃいけない。パパが手助けを必要とする体になったとき、あたしは笑っていたいから。風坂先生がいつも笑ってるみたいに。


「いろいろ思ってしまう、かな。ぼくも浮き沈みするよ。あいつには全部、見抜かれてた」

「笑顔でも隠せませんか?」

「隠すことは難しいな。機能を喪失していくあいつを見てることしかできない。治してやることができない。不甲斐なかった」


 風坂先生の経験は、あたしの未来だ。あたしもきっと、先生と同じことを経験していく。


「瞬一は、治したいって考えてるんです。先端医療を勉強して、難病を治せるお医者さんになりたいって」

「頑張ってほしいね」


 風坂先生の柔らかな声は、切実に響いた。


 それからもう少しだけ、風坂先生と話をした。あたしが料理苦手なこと。反対に、風坂先生は家事全般が完璧だということ。


「ぼくは妹と2人暮らしなんだけど、妹は、料理は全然しないんだ。全部ぼくが作ってる」


 いいなぁ、妹さん。風坂先生の手料理、食べてみたい。エプロン似合いそう。


 風坂先生が料理してるところを想像したら微笑ましくて、笑えてきた。そんなあたしに、風坂先生はホッとした顔を見せた。


 大丈夫だ。


 初生のことも瞬一のことも、1つも解決してない。でも、あたしは元気が出た。まだ笑顔で頑張れる。


 風坂先生、ありがとうございます。

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