36話  平手

「……昨日なんかあった?」

「え?」


 バイト中に、突然あさみが声をかけてきた。ちょうど商品の棚出しに集中しているタイミングだったので間抜けな声で訊き返してしまう。

 あさみは私の反応に若干いらついたようで、語気を強めてもう一度言った。


「え? じゃなくてさ、矢口となんかあったかって訊いてんの」

「矢口さん? なんで?」


 矢口さんの名前が出て焦ったけれど、それが表情に出ないように取り繕う。

 今日、矢口さんと同じシフトになったものの、彼は一度も私に話しかけてはこない。昨日の今日で気まずいのは私も同じだしどちらかといえば助かっているのだけれど、その様子を見てあさみはきっと違和感を覚えているのだ。

 昨日のことをあさみに伝えるのは、私にとっても矢口さんにとってもおそらくプラスにはならない。矢口さんも自分から言い出したりすることはないだろうし、あさみには悪いけれど、黙っておこうと思う。

 あさみは数秒じっと私の目を見た後に、舌打ちをした。


「沙優チャソのそういうとこほんと嫌い」

「えっ……」


 あさみは踵を返して、事務所につながる扉の方へ歩いて行く。今事務所で休憩をとっているのは矢口さんだ。


「ちょ、ちょっと」


 慌てて後を追いかけるけれど、あさみは私のことなどお構いなしで事務所のドアを乱暴に開けた。


「え、なになに」


 事務所の中から矢口さんの声が聞こえてくる。

 私も慌てて事務所の中に入ると、パイプ椅子に座ってコンビニ弁当を食べていた矢口さんの前にあさみが仁王立ちしていた。


「昨日沙優チャソに何かした?」


 あさみは歯に衣着せずに、そう訊いた。

 矢口さんはぽかんとした様子であさみを見てから、その視線を私に移した。その目には明らかに「何か言ったのか?」という疑問が込められていて、私は反射的に首を横に振ってしまう。

 私のその様子を見た矢口さんは、苦笑した後に、はっきりと言った。


「お家に行ったんだよね。それでセックスしようって言ったんだけど」

「は?」

「断られちゃった」

「ったり前でしょうが馬鹿じゃないの!?」


 あさみが大声を出すと、矢口さんは顔をしかめて首を横に振った。


「当たり前って、頼んでみなきゃ分からないでしょ」

「頼む前から分かれっつの! え、それで無理やり襲ったりとかしてないよね」


 あさみが訊くと、矢口さんはぽりぽりと左手で鼻頭を掻いた後に、へらっと笑顔を見せながら言った。


「ま、まあちょっとだけ、そういう感じにはなったかも」

「……ッ!」


 矢口さんの言葉を聞いた途端に、あさみはその右手を思い切り振って、矢口さんの頬を平手で叩いた。乾いた音が事務所に響いて、続いて、矢口さんの手に持っていた割り箸がからからと地面に落ちる。

 私は、矢口さんがあまりにもあっさりと自分のしたことをあさみに言ったことと、そしてあさみの突然の平手打ちに驚いてしまって、その場でおろおろとするしかなかった。


「痛いなぁ……箸落ちたし」

「いいじゃん一回痛いだけで済むんだから」


 頬をおさえる矢口さんに、あさみは冷えた口調で言い放った。

 彼女のいつもと違う様子に、矢口さんは少し顔色を変えてあさみを見上げた。私の方からあさみの表情は見えない。


「あんたはさ、ライフワークの一環みたいにそういうことするのかもしれないけどさ」


 あさみは若干震え気味な声で言葉を続ける。


「すでにどこかで傷付いてる人はさ、何かあるたびに新しい傷が増えて、古い傷も痛むんだよ」


 あさみが拳をぎゅうと握っているのが見える。


「あんたが軽はずみにやったことで、相手の見えない傷が何個も何個も、何個も何個も何個も痛むかもしれないんだよ……!」


 あさみの声には、明らかに怒気が含まれていた。こんなに目に見えて分かるように怒っているあさみを私は見たことがないし、きっと矢口さんもそうなのだろう。二人とも、何も言えずに、あさみの言葉を聞いていた。

 あさみは肩を震わせて、静かに、けれどはっきりと言った。


「すでに傷付いてる人を、それ以上傷つけるなんてサイテーだ。あんたはサイテー!!」


 だんだんと声が大きくなり、最後は感情が爆発するようにあさみは矢口さんを怒鳴りつけた。矢口さんは、呆気にとられたように、身じろぎ一つもせずにあさみを見たまま固まっていた。


「沙優ちゃんに謝って」

「え……」

「謝って!!」

「わ、分かった謝るよ、謝る」


 あさみの気迫に押し負けるように、矢口さんは何回も首を縦に振った。

 矢口さんが視線を私の方に向けたのと同時に、店の方から「すいません!」と声がした。

 そういえば、営業中だというのに3人事務所に引っ込んでしまっている。

 あさみもはっとしたように口を開けて、一瞬顔をしかめた後に、矢口さんの方を振り返った。


「謝ってね。絶対」

「わかった、わかった」


 あさみは矢口さんの返事を聞くや否や私の横を通って店へ飛び出していった。「お待たせしました、申し訳ありません!」と普段より少し高めのあさみの声がレジから聞こえてくる。

 あさみが出て行って二人きりになった事務所で、矢口さんは緊張が解けたかのようにため息をついた。


「はぁ……ほんとお人好しばっかだなこの辺りは……」

「……」


 矢口さんは呟いてから、私の方を見た。そして、バツが悪そうに下唇を数回噛んだ後に、少しだけ私に頭を下げて見せた。


「昨日は悪かったよ」

「え……」

「誘ったこと自体は悪いと思ってないけどね。……ただ、まあ、ちょっと強引すぎたのは認める。こう……頭に血が上ったというか」


 矢口さんは床に視線を落としながらもごもごと小さな声でそう言ってから、私をもう一度見る。


「僕は和姦以外したことないんだ。もしあのまましてたらその実績に傷がつくところだった」

「なんですかそれ……」


 素の感想が出てしまう。どこまでもズレている人だと思った。

 ただ、昨日の言動から、そして、彼の表情から見るに、おそらく本当に悪気がないのだ。取り返しのつかないくらい、私たちとはどこかがズレていると、ただそれだけなのだ。


「あの」

「うん?」


 私は、ふと浮かんできた疑問を口にした。


「どうして、あそこまで言っておいて、あさみに私との昔のこと言わなかったんですか。昔のことも併せて話したら、少しは釈明の余地もあったんじゃないかなって思うんですけど」


 彼が昨日ひとしきりに言っていた、「前はすんなりやっていたじゃないか」というような内容。昨日の彼の行動が正当化されるとは思わないけれど、「以前はそういうことをしていた仲だったのだから、今誘っても大丈夫だと思った」などと言えば、少しは理屈として通っているように聞こえると思った。

 ただ、彼はそうしなかった。

 矢口さんは数度瞬きをした後に、不思議そうな顔をしながら、首を傾げた。


「だって、家に連れて行ってくれたら過去のことは話さないって約束じゃなかったっけ?」


 彼の答えに、私はきょとんとしてしまう。

 話がしたいだけだから、と言って家まで来たと思ったらあっさり私を襲ったくせに。その約束は守ろうとするのか。

 あまりにちぐはぐな行動に、困惑を通り越して、可笑しくなってしまった。


「ぷっ」

「え、なんで笑うの」

「いや、矢口さんって相当ズレてますよね」

「ええ……?」


 はっきりと口にすると、矢口さんは若干傷付いたように眉を寄せた。


「昨日のこと……まだ許そうとは思えないんですけど」


 私が言うと、矢口さんは何も言わずに、小さく首だけ傾げた。私は言葉を続ける。


「怒る気も失せちゃいました。ただ……昨日は怖がるだけだったけど、次もし同じようなことしたら、その時は……」


 私は矢口さんの目を、自分の目にしっかりと力を込めて見た。私と視線を交差させた矢口さんは、一瞬驚いたように口を開ける。


「怒りますから」


 私が言い放つと、矢口さんは数秒口をぽかんと開けたままにした後に、「はっ」と口から息を漏らした。


「そりゃ、こわい。もうしないよ……恐ろしい番犬がいるのも分かったことだしね」


 矢口さんはおどけたようにそう言って、足元に落ちた割りばしを拾った。


「でも同居人のあのお兄さんも、ほんとに勿体ないことするよねぇ」

「え?」


 矢口さんは拾った箸をゴミ箱にぽいと投げ込んだ後に、肩をすくめた。


「一人の女の子をさ、どんどんいい女にしていってるくせに、それを抱かないっていうんだから。真面目すぎるのも人生損すると思うね、僕は」

「い、いい女……?」

「そうだよ。自覚ない?」


 矢口さんはそう言って、昨日と同じく、にこっと笑った。


「頬が痛すぎて冷やしたいから、自販機で飲み物買ってくる」


 矢口さんはパイプ椅子から立ち上がって、事務所の外につながる扉へと向かった。その途中で一度振り向いて、私に人差し指を向ける。


「ちゃんと、謝ったからね。あさみちゃんにも伝えてね」

「あ、はい……」

「あと……」


 矢口さんはぽりぽりと頭を掻いてから、片眉だけを上げて、言った。


「怒ってるときもギャル語使ってくれた方が怖くなくて助かる、っていうのも伝えといてもらえると」

「それは自分で伝えてください」


 私の答えに、矢口さんはけらけらと笑って、事務所を出て行った。

 完全に私一人になり、しんとした事務所の中。

 昨日あれほど恐ろしかったはずの矢口さんが、今はまったくそう感じないことに驚いた。

 けれど、理由は単純明白だ。

 昨日は、吉田さんが守ってくれた。

 そして今日は、あさみが守ってくれた。

 こんな私を守ってくれる人がいると、それだけで。

 こんなに心強く感じるなんて、知らなかった。


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