26話  嗅覚


「あはは、じゃあつまり、その辺で拾った女の子を住ませてるってことなのね! 知らないうちにすごいことしてたのねぇ、吉田くん」


 初めて会った後藤さんは、吉田さんから話を聞いていたイメージ通りの女性で、かつ、私の想像以上に、その胸の内の読めない人だった。

 私たちは、後藤さんに対して隠し事を通すことができなかった。

 後藤さんは終始、お菓子をつまみながらにこにこと私と吉田さんに質問を投げかけてきたけれど、私や吉田さんが何かをごまかすたびにそれをやんわりと看破してみせた。

 途中からはもう私も吉田さんもすっかり諦めて、素直に彼女の質問に答えるようになっていた。


「沙優ちゃん、吉田くんに変なことされなかった?」

「ちょ、後藤さん」


 後藤さんはいたずらっぽい笑みを浮かべて吉田さんと私を見比べた。露骨に焦りを見せる吉田さんを横目で見て、私は失笑した。なんで焦ってるの。なんにもしないくせに。


「何もされてないですよ。ほんとに、びっくりするくらいで」


 私が答えると、後藤さんは少しだけ目を細めて頷いた。


「びっくりするくらい、ねぇ」


 後藤さんが私の目をじっと見たので、私は慌てて目をそらしてしまう。どうも、彼女の視線が苦手だった。胸の内側を覗かれるような、そんな気分になった。


「まあ、吉田くんは年下に興味ないみたいだしね。沙優ちゃんも運が良かったわね」

「もし興味あったとしても手は出さないっすよ」

「え~、どうかしらねぇ」

「ちょっと! そんな軽い男じゃないっすよ俺は!」

「あはは、冗談だって」


 後藤さんが吉田さんをからかう。それに対して、少し照れたような様子で吉田さんが言い返す。そのやりとりは微笑ましくて、この二人が会社内で長い間の付き合いを経て友情、そして、それ以上の関係を作り上げてきたことが手に取るように分かった。素敵なことのはずなのに、妙にそれが気に障った。

 私は何を見せられているのだろうか。

 もやもやとした気持ちを抑えつけながらうつむいていると、正面に座る後藤さんの顔の位置がずいと下がるのを感じた。視線をそちらに向けると、私の顔を覗き込む後藤さんと目が合う。


「どうしたの?」

「あ、いや……なんでも」

「なんでもないって顔してなかったわよ」


 後藤さんはあくまでもにこにこと、私を見つめたまま首を傾げた。

 ああ、その笑顔、本当にやめてほしい。その微笑みが、彼女の本質をすべて包み隠しているような気がした。その中に何が隠れているのか分からない不気味さが、私の二の句をどんどんと奪ってゆく。


「ほんとうに、なんでもないです。ちょっと夕飯食べ過ぎたのかも」


 取り繕うように言うと、後藤さんは「そうなんだ」と頷いて、それ以上の追及はしなかった。私の答えがその場しのぎなのは分かっているはずなのに、彼女はそれ以上は踏み込んでこなかった。安堵するのと同時に、少し不気味だった。


「そういえば、夕飯は何を食べたんだ?」


 吉田さんが一瞬の沈黙をごまかす様に私に訊いたので、私も助け舟を得たように顔を上げて、口を開いた。


「肉じゃがだよ。結構おいしくできた」

「おお、そうなのか。出来立てが食えなかったのはもったいなかったな」

「そうだよ。明日の朝ちゃんと食べてね」

「おう」


 私と吉田さんがいつものように喋っていると、後藤さんが吹き出した。

 後藤さんは可笑しそうに肩を震わせた後に、にやにやとした表情を浮かべる。


「新婚さんみたぁい」

「いや、ほんとやめてくださいって」


 吉田さんの反応も込みで面白かったようで、後藤さんはさらにけらけらと笑い転げた。可笑しくて笑う時の笑顔は、子供のようだなと思った。


「ちょっと、トイレ行ってきます」

「はーい、行ってらっしゃい」


 吉田さんが立ち上がって、トイレの扉がある廊下へと歩いて行った。

 居室には私と後藤さんだけが残された。

 何を話したらいいのか、いや、そもそも何か話す必要があるのか考えて一人で冷や汗をかいていると、後藤さんが鼻から息を漏らしたあとに、小さな声で言った。


「ねえ、沙優ちゃん」

「……はい?」


 後藤さんと目が合う。今までの何かを包み隠すような笑みはそこになかった。ただ、柔らかい笑みと、私の目を射貫くようなまっすぐな目線が、刺さる。


「少し、二人でお話がしたいのだけれど」

「二人きりで?」

「そうよ」


 後藤さんは頷いて、人差し指を意味ありげに立てて見せた。


「私があなたに訊きたいことがあるように、あなたも私に訊きたいことがあるでしょう? だから、どうかしら」


 すべてお見通し、というような彼女の表情に苛立った。けれど、彼女の言う通り、私にはどうしても彼女に訊きたいことが一つだけあった。後藤さんがそれとなく私に提示したのは『交換条件』だと思う。二人きりで話す機会を作ってくれたら、あなたの質問にも答えてあげる、とそう言っているのだ。

 本当に、ずるい人だと思う。そう言われてしまえば、私に選択肢などないではないか。


「時間、作ってみます」


 私が答えると、後藤さんはにこりと笑って少しだけ頭を下げた。


「ありがと」

「いえ……」


 後藤さんから目を逸らして、私は吉田さんがトイレから出てくるのを待った。ほんの数分のはずなのに、ものすごく長く感じる時間だった。

 トイレの流水音が聞こえて、遅れて、吉田さんがトイレから出てきた。私は振り返って、用意した言葉を投げかけた。


「吉田さん、ごめん、明日の朝ごはんの食材買っておくの忘れちゃった」


 私がそう言うと、吉田さんは一瞬固まったけれど、すぐに首を傾げて口を開いた。


「別に朝は適当でもいいけどな」

「ダメだよ朝はちゃんと食べないと」

「つっても買ってきてないもんはしょうがないだろうよ」

「いや、だから、その……」


 私は吉田さんに申し訳ない気持ちになりながら、ごまかし笑いを顔に貼り付けた。


「今から買ってきてもらえない? もう22時過ぎそうだし、私が出ると補導されちゃう時間だから……」


 私がそう言うと、吉田さんは眉を寄せてから、私と後藤さんを交互に見た。


「別に行くのはいいけど……二人で平気か?」

「大丈夫よ。二人で楽しくお話してるから。ね、沙優ちゃん?」

「あ、はい……うん、大丈夫。頼んでもいい?」


 後藤さんもわざとらしくない口調で吉田さんに笑いかけた。私が頷くと、吉田さんは小さくため息を吐いて、首を縦に振った。


「何を買ってくれば?」

「卵と、ニラと、あと味噌を買ってきてほしい」

「分かった」


 吉田さんはもう一度後藤さんの方をちらりと見てから、廊下の脇に置いてあった自分のビジネスバッグから財布と煙草を取り出して、寝間着姿のまま玄関へと向かった。


「煙草吸ってから帰ってくるから、ちょっと時間かかるかもしれねぇ」

「わかった。行ってらっしゃい」


 吉田さんが玄関から出て行って、ドアが閉まった。

 少しの間の静寂。


「さて、と」


 後藤さんが口を開いた。視線を上げると、まっすぐこちらを見つめる眼差しに射貫かれる。


「じゃあ、まず私から、訊いてもいい?」

「……はい」


 私が頷くと、後藤さんはさきほどとはまた違う、少し陰りを帯びた笑顔を浮かべてから、口を開いた。


「あなたが高校生っていうのは本当?」

「本当です」

「どこから来たの?」


 その質問に、一瞬言葉が詰まる。本当のことを言うべきかどうか、考えた。けれど、後藤さんに嘘をついても見抜かれるのは目に見えている。

 言うべきかどうか、ではない。言わなければならない状況なのだ。

 私は唾を飲んで、口を開く。


「北海道……から」

「家を出たのはいつ頃?」

「半年前くらいです」


 私の答えを聞いても後藤さんは特に表情を変えることはなかった。淡々と、私に質問を重ねていく。


「どうして、家を出たの?」


 その質問で、旭川での様々な出来事が頭を過りそうになり、私は頭を横に振った。


「……答えたくありません」

「……そう、分かったわ」


 後藤さんも私の答えを聞いて、静かに頷いた。


「あなたがどういう事情で住んでいたところから飛び出してきて、どういう経緯でここにたどり着いたのかは聞かない」


 後藤さんの声色は優しかった。私の答えから、その心境を察してくれているのが分かった。嘘をつかなくて良かった、と思った。この人は心の内が読めなくて恐ろしいけれど、私に対して最大限の敬意を持って話をしてくれているのはとてもよく伝わってくる。私に敬意を払ってくれている人に対して、私が不義理を働くわけにはいかない。


「けれどね」


 後藤さんの声のトーンが少しだけ下がったのを感じた。


「一つだけ、はっきりとさせておかないといけないことがあるの」


 後藤さんはそう言って、私の目をじっと見た。私も彼女の目を見る。吸い込まれそうな瞳だ。心拍が早まっていくのを感じる。


「吉田君の“友人”として、そしてあなたにとって“他人”の私だから、訊けることよ」


 そう前置きして、後藤さんはにこりと笑った。

 そして、次の瞬間、彼女の顔からスッと微笑みが消えた。その視線は、私の目を刺し貫くように、冷たい温度でこちらを向いている。


「あなた、いつまでここにいる気?」


 小首を傾げて、後藤さんはそう言った。

 心臓が跳ねるように痛んだ。


 私も、ここに来てから何度も、考えた。

 そして、答えを出さないまま保留していたその漠然とした疑問を、彼女は私に再び突き付けてきたのだった。



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