24話  夕食


『すまん。後藤さんに夕飯誘われたから今日は外で食べて帰ってくる』


 吉田さんからメールが届いたのは、私が鍋いっぱいの肉じゃがを完成させたタイミングだった。少し複雑な気持ちになったけれど、こうやって連絡をくれるだけでもありがたいし、彼の行動を私が制限する権利などもとよりない。


『りょうかい! 楽しんでね~』


 そうは言っても、当の本人はとっても気にしているだろうから、文面から「私はまったく気にしてませんよ!」という雰囲気が伝わるように返事を書く。

 携帯をスウェットのポケットにしまってから、鍋の蓋を開いた。ほかほかと立ち上る白い湯気と共に、鼻を通って直接お腹に侵入してくるような、柔らかな塩味を伴った匂いがふわりと空間を包み込んだ。


「いい感じだ」


 一人ごちて、菜箸でじゃがいもを一つつまむ。口に運んで、はふはふと言いながら咀嚼すると、めんつゆの味と、少しだけ入れた鰹出汁の香りが鼻に抜けていった。


「めっちゃ美味しくできた……」


 頷いて、鍋の火を止めて、私はそのまま台所兼廊下に座り込んだ。

 部屋中に充満する肉じゃがの香りにお腹がくぅと鳴ったけれど、どうもすぐに食事する気分にならなかった。


「こんなに美味しいできたての肉じゃがを食べ損ねるなんて、吉田さんかわいそ~」


 小さく呟いて、一人でくすくすと笑った。そしてすぐに、自然とため息が出た。

 吉田さんは今頃、憧れの後藤さんと二人で夕飯を食べている。オシャレなお店かもしれないし、この前みたいに焼肉屋かもしれない。

 思えば私は、家の外で過ごしている吉田さんをまったく知らない。会社ではどんな顔をしているのか、どんな人間関係を築いているのか、どんなことをして遊ぶのか。

 彼が私以外に向ける表情を、私は知らない。

 吉田さんが私を見る目は、完全に子供を見るそれだと思う。悔しいことに、彼は私をほとんど『女』として認識していない。別に、それが悪いと言っているわけじゃない。そこが彼との共同生活が上手くいっている最大のポイントだし、彼の人格の良さが最も出ているポイントでもあると思う。けれど、思春期を過ぎた女子としては、まったくもって女性として興味を示されていないというのも複雑な気分だった。

 私が後藤さんだったら。

 なんとなく、そんなことを思った。

 私の身体が後藤さん並みだったら、吉田さんは私に手をかけるのだろうか。吉田さんが言うには、後藤さんは私よりも胸が大きいのだという。私だって、年齢の割には大きい方だ。この大きさでもまったく性欲を刺激されないというのなら、後藤さんはどんな化け物のような胸をしているのかと気になって仕方がない。

 吉田さんは、後藤さんに、どんな表情を向けているのだろうか。想像しようとしても、あまり想像がつかなかった。

 ただ、吉田さんが後藤さんを見つめる表情を想像しようとすると、それだけで少し胸の中にもやもやとした気持ちが広がるのを感じた。断じて、恋とか、愛とか、そういうものではないと思う。でも、吉田さんが自分に見せない表情を誰かに見せているかもしれない、と考えるのは、不快だった。


「よくわかんないなぁ……」


 呟いて、私は後頭部を廊下の壁につけた。

 ここに来てから、自分はいろいろと変わってしまったと思う。それが良いのか悪いのか、それすらも自分では判断がつかない。

 ただ、ここに来る前よりも、ずっと、私の心は救われていると思う。それだけは、間違いなかった。

 そして、それを与えてくれたのは他でもない、吉田さんなのだ。

 彼は、私に与えるだけ与えて、それでいて「好きに過ごせ」と言い放つ。だから、私も、彼が自由に生きることの邪魔をしてはいけないと思った。できるだけ、彼の負担にならないように。できるだけ、彼の助けになるように。そうやって、少しの間だけ生きようと思った。


 炊飯器を開けると、炊けたばかりのご飯の柔らかな香りが湯気に乗って立ち上ってきた。

 わたし用の――私が来るまでは来客用だった――茶碗にご飯を盛り付けて、おかず用の少し底のくぼんだ皿に肉じゃがを盛り付ける。

 本当ならもう一品野菜メインのメニューを作ろうかと考えていたけれど、吉田さんが帰ってこないと分かって急に作る気が失せた。自分だけの食事なら、別におかずは一品だけでも構わない。


「いただきます」


 手を合わせてから箸をとり、肉じゃがを口に運んだ。我ながら、美味しくできた。自然と口角が上がったけれど、すぐに、下がった。


『美味いな』


 美味しくできた、と自分で思える出来の時は、必ず吉田さんはそう言った。彼は、私の作った食事を食べる度、必ず感想を口にした。料理漫画のように、味付けや素材のことまで詳しく褒めてくれるわけではないけれど、シンプルな感想が、嬉しかった。

 肉じゃがを口に入れて、少し咀嚼して。

 それから、白米を口に運んで。

 無言でそれを続けていると、だんだんと肉じゃがの味が薄くなってゆくような感覚を覚えた。


「なんか」


 一人呟く。


「味気ないなぁ」


 この空虚な感情には覚えがあった。それは、まだ北海道にいた頃の――



『沙優ちゃんの卵焼き、いっつも美味しいね』



 脳内で再生されたかつての友達の声。

 それを思い出したとたんに、背中にぞくりと鳥肌が立ち、一気に冷や汗が分泌されるのを感じた。

 何かを考えるよりも先に、私はトイレに駆け込んでいた。


「……ぉえ」


 そして、食べたばかりの肉じゃがと少しの白米を、便器に戻した。

 喉は焼けるように熱く、逆にお腹は冷え切っているような気分になった。震えが止まらない。

 だんだんと呼吸も落ち着いてきて、吐き気も引いてきたので、ノブを捻って便器の中身を流した。

 ゆっくりと立ち上がると、足先の感覚少し麻痺しているようで、足裏が地面にしっかりとついているのかよく分からなかった。


 結局。

 こんなところまで来ても、私は過去から逃げきれていないのだ。

 大好きだったあの子のことを思い出すたびに、どうしようもない吐き気に襲われる。


 なぜ急に、彼女のことを思い出したのだろう。この家に来てから、一度もあの事を思い出したことはなかった。

 そして、すぐに答えにたどり着く。

 今日は吉田さんがいなかったからだ。加えて、この生活にも慣れて来て、目の前のことでいっぱいいっぱいではなくなってきたから。

 吉田さんが普段通り帰って来てくれていれば、きっとこんなことにはならなかった。

 そこまで考えて、ため息が出た。


「ほんと、なんにも変わってない……」


 私はいつも、すべてのことを自分のせいだと口にしながら、心の中では、誰かのせいにし続けている。



 食欲が完全に失せて、冷蔵庫に入っていたペットボトルの麦茶をちびちびと飲んでいると、居室のテーブルに置いたままにしていた携帯電話が揺れた。私の携帯電話に登録されている連絡先は吉田さんだけだ。つまり携帯が揺れるということは吉田さんから連絡がきたということで。

 ちらりと壁にかかった時計を見ると、まだ吉田さんから「夕飯は外で食べる」という連絡が来てから1時間と少ししか経っていない。

 まだ帰ってくるには早い時間のような気がした。なにしろ、食事の相手は憧れの女性なのだ。できるだけゆっくりと食事をしてくるのが普通だと思う。

 画面を見ると、そこには吉田さんからのメッセージが表示されていた。


『すまん、めちゃくちゃ急なんだけど――』


 通知だけでは全文を読むことはできなかったので、画面をスワイプしてメッセージアプリに移行する。

 吉田さんとのトーク画面を開いてすぐに、私は目を丸くした。


『すまん、めちゃくちゃ急なんだけど、今日、後藤さん連れてくるわ』


 ……連れてくる?

 この家に?


 胸が、ちくりと痛んだ。

 大人の男性が、憧れの女性を家に連れてくる。つまりそれは、ただ連れてくるだけということじゃないのは簡単に想像できた。

 もやもやとした気持ちになりながらも、やはり私は吉田さんの決めたことに逆らうつもりはない。


『そっか! じゃあ私は今日はどこかで外泊した方がいい?』


 手早くメッセージを打って、携帯を机の上に置いた。

 そして、私も机に突っ伏す。


 吉田さんが、この家で。

 この後、後藤さんと。

 少しだけその仔細を想像しそうになって、私はすぐに机に自分の額を打ち付けた。


「ばか。本人の勝手でしょ」


 どうしてこんなにもやもやするのだろう。

 吉田さんの長年の恋が成就するかもしれないのだ。私は祝福すべきじゃないのか。


 でも。


 その後すぐに、私の脳内は『不安』でいっぱいになった。


 もし、吉田さんと後藤さんが恋人関係になったとしたら、どう考えても私という存在は邪魔だ。恋人に対して私の存在を隠し通すことは現実的に考えて不可能に近いだろうし、気軽に彼女を家に呼ぶこともできないのだ。

 そうなったら。

 私は。


「また、捨てられちゃうのかな……」


 口にして、胸が締め付けられるような気分になった。

 しかし、その切なさと同時に、脳内には吉田さんのときどき見せる、はにかんだような笑顔が浮かんでいた。

 私がいなくなって、吉田さんが笑えるなら、それでもいいのかもしれない。

 そんなことを、思った。


 テーブルの上の携帯が再び揺れたので、身体を机から起こして画面に目をやった。


『いや、そうじゃなくて……』


 そして、メッセージの内容を見て、私の思考はストップした。


『お前に会いたいって言ってるんだよな、後藤さんが』


「へ?」


 素っ頓狂な声が、自然と漏れた。

 なぜ、後藤さんが私の存在を知っているのだろうか。いや、それは吉田さんが彼女に言ったという結論にしかたどり着かない。そうだったとして、吉田さんは彼女に私のことをどう説明しているのだろうか。そして、どうして彼女は私に会いたいなどと言い出したのだろうか。

 一気に脳内が疑問符で埋め尽くされた。


 ぐるぐると疑問が脳内で渦巻いて、私は何度も居室のテーブルに膝をついたり、足を組みなおしたり、もぞもぞと動き続けた。


 最終的に。


『吉田さんがいいなら、いいけど』


 そう返信するのに、10分以上は要した気がする。





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