11話  後藤愛依梨 -1-


「え、後藤さんとご飯ですか」

「ああ……」


 頷くと、三島は箸で掴んでいた焼き鮭をぽろりと皿の上に落とした。


「あ」


 ぼてっ、という音で我に返ったようで、再び三島が焼き鮭をつまむ。

 三島が食べているのは、さきほど「これ、好きなんですよねぇ」とか言いながら社食で注文した鮭定食だ。焼き鮭に野菜炒め、汁物と小さなお新香、そして白米というシンプルながらに定番を押さえたメニューである。

 対して俺は、「中華麺」を注文して食べた。席まで運んで、一口啜った時点ですでに少し麺が伸びていた。あまり美味くない。


「え、え、それって、吉田センパイから誘ったんですか」


 箸をちょいちょいと振って、三島が訊いてくる。


「いや、後藤さんの方から」

「えぇぇ……意味わかんな!」


 三島は鮭を一口、齧ってから。


「意味わかんな!!」


 もう一度言った。


 俺は鼻を鳴らして、首を横に振ってみせる。


「俺だって、意味が分からん」

「意味わかんないのに行くんですか!」

「上司にメシ誘われて断るやつがあるか」

「私、普通に断りますよ」


 俺は麺をずず、と啜って。


「そりゃお前だから許されるんだよ」

「どういうことですかそれ」


 三島が唇を尖らせるが、俺は返事もせずに、もう一口中華麺を啜った。

 見た目が良くて上司からも気に入られている女性社員だからそういうことが許されるのだ、とわざわざ言ってやる必要もないだろう。


 眉を寄せながら、三島は最後のひとかけらの焼き鮭を口の放り込んだ。


「ほへ、へっはいははへふほ」

「食いながら喋んな、まじで」


 若い女性がそういうことをするんじゃない。

 数日前の飲みでも思ったが、こいつは物を噛みながら喋ることをこの歳まで誰かに注意されてこなかったようだ。

 普通、親が注意したりするもんなんじゃないのか。親でなくとも、仲の良い友達とか、そのあたりが教えてくれたりするものだと思うのだが。

 最近の若い奴らはそういうことは気にしないのだろうか。わからん。


 ごくりと口の中の食べ物を飲み込んで、三島が言った。


「それ、絶対罠ですよ」

「なんだよ罠って」

「吉田さん騙されてるんです、行かない方がいいですって」

「俺を騙してどうすんだ」


 俺の言葉に、三島は「う」と声を出して、上手い返し文句を探すように視線を泳がせた。

 適当に言ってやがるな、こいつ。


「と、とにかく」


 三島は、ピッ、と俺に箸を向けて、もう一度言った。


「絶対行かない方がいいですって」

「箸を他人ひとに向けんな」


 彼女は、食事においては全体的に、行儀が悪い。






「吉田くん、焼いて焼いて」

「あ、はい」

「小野坂部長が、『吉田は焼肉奉行だ~』って言ってたよ」

「はは……」


 あのオッサン、都合の良いことを言いやがって。

 あれは小野坂部長が新人の女の子と喋ってばかりで肉を焼かないから、俺が一人で焼き続ける羽目になっただけだ。

 苦笑しながら、白い皿に盛りつけられた『ネギ塩カルビ』を網の上に置いていく。

 向かいの席には、後藤さんが座っていた。


「あー、良い匂い良い匂い!」

「そっすね……」


 どうも、上手く会話ができない。

 彼女がなぜ、今日俺を夕飯に誘ったのか。そればかりが気になってしまう。


「それ、もう食べられますよ」

「あ、ほんと? じゃ、もらっちゃおうかなぁ」


 にこにこしながら、後藤さんは肉を受け皿に移した。

 そして、ぱくりとカルビにかじりつく。

 細長いカルビを一口で食べることはできず、後藤さんはもぐもぐとカルビを半分くらいのところでかみ切るように咀嚼した。

 前歯を使ってかみ切ろうとしているだけに、唇はすぼまる形になり、妙に色っぽい。

 ……いかんいかん、他人が食べているところをまじまじと見るものではない。

 俺は後藤さんから慌てて視線を逸らして、良い具合に焼けたカルビを自分の取り皿に移した。

 タレをつけて、一口で肉を頬張る。

 奥歯でぐっと肉を噛むと、じゅわりと肉汁が口の中にあふれた。


「……んん」


 気まずい食事だというのに、肉は何の変わりもなく美味かった。

 そういえば、沙優はあまりガッツリとした肉料理を作らない。鶏肉は先日三島と居酒屋で飽きるほど食べたが、豚肉は久しぶりだったな。

 妙に美味く感じる豚肉をゆっくりと咀嚼する。


 ふと目線を上げると、こちらをじっと見つめる後藤さんと目が合った。

 どきりとする。


「一口で、食べちゃうんだ」

「え、なんかまずいっすか」

「ううん? 男の人だなぁ、って思って」


 そう言って、後藤さんがくすりと笑った。

 ……あぁ。

 いちいち色っぽいんだよなぁ。勘弁してくれ。


「いや、普通に、男っすよ」


 明らかに返事として成り立っていない言葉を吐いて、俺は恥ずかしさをごまかすように肉をもう一枚頬張った。

「男っすよ」ってなんだよ。見りゃ分かるわそれくらい。

 炭火の熱に当てられているせいもあるかもしれないが、自分の顔の温度が上がっているのを感じた。


「なんか、緊張してる?」


 俺の顔を覗き込むように少し頭を下げて、上目遣い気味に後藤さんが視線を送ってきた。

 俺は苦笑して、答える。


「そりゃ、しますよ」

「どうして?」

「そりゃ……フられた相手に突然メシに誘われたら、何事かと思うじゃないですか」

「あはは、そういうもの?」


 後藤さんは可笑しそうに肩を震わせて、カルビにぱくりとかぶりついた。

 俺はまた、彼女からスッと目を逸らす。

 あれを見てはいけない。

 下手をすれば愚息が立ち上がる。


「じゃあ、緊張ほぐしに、質問のし合いっこなんてどう?」


 カルビを飲み込んで、後藤さんが言った。


「質問のし合いっこ?」

「そう、お互いに、3つ質問をするの。訊かれたら、絶対に答える。どう?」

「……何を訊いてもいいんですか」


 俺がそう訊くと、後藤さんはふふ、と鼻を鳴らした。


「何を訊くつもり?」


 ずるいと思う。

 この人は俺が彼女に訊ねたいことなどお見通しなのだ。

 だが、自分からは言わない。

 あくまで、俺に『訊かせる』つもりだ。

 彼女のそういうところが、すごく苦手で、同時に、すごく魅力的に俺の目には映った。


 俺が答えに困っていると、後藤さんはくすくすと笑って、箸を軽く振った。


「何を訊いてもいいわよ。……多少、エッチなことでも」

「いや、そういうのは、別に」


 俺は首を横に振る。

 嘘である。めっちゃ訊きたい。

 それ、何カップなんですか。


「じゃあ、まず一個目! どうぞ!」


 後藤さんが楽しそうに言って、俺の目をじっと見つめた。

 俺は少し、悩んだ。

 正直、「なぜ俺を夕飯に誘ったのか」ということが今一番訊きたい。

 今すぐにでも、訊きたい。

 しかし、そう思うのと同じくらい、答えを聞くのが怖かった。

 最初から核心に迫る勇気は、俺にはない。


「……なんで、焼肉なんですか?」

「えー、なにそれ。3つしか質問できないんだよ?」

「いいから、答えてくださいよ」


 焼肉に行こう、と言い出したのは後藤さんだった。

 正直、驚いたのだ。

 彼女が男を夕飯に誘って「焼肉を食べたい」などと言い出すタイプとはとうてい思えなかった。

 焼肉に誘ったこと自体が、何か意味のあることなのでは、と勘ぐってしまう。


「だって、吉田くんだもの」


 あっけらかんと、後藤さんはそう答えた。

 俺は一瞬ぽかんとして、すぐに訊き返す。


「俺だから?」

「そ、吉田君だから」

「どういうことっすか」

「あ、店員さん。ハツお願いします」


 俺の質問を遮って、後藤さんは通りかかった店員に肉を注文した。


「吉田君は?」

「あ、じゃあタン塩で」

「ハツと、タン塩。あ、あとビール二つおかわりください」


 後藤さんがにこりと店員に言うと、店員は「かしこまりました」と言いながらハンディ注文機を操作しながら、ちらりと彼女の胸を見た。

 分かるぞ。見ちゃうよな。


「それで、なんだっけ」

「ああ……『俺だから』って」

「そうそう! 吉田君だから」


 後藤さんはうんうん、と頷いて自分の目の前のビールグラスを手にもって、まだ半分ほど残っている中身をぐいと煽った。

 俺はその様子をきょとんとしながら眺めていた。

 良い飲みっぷりだ。

 数秒で、後藤さんはビールを飲みほして、「ぷは」と息を吐いた。その様子も、なんだか背徳的に見えて、俺は慌てて目を逸らす。


「どう?」

「え?」

「半分も一気に飲んじゃった」

「良い飲みっぷりですね?」


 俺が首を傾けながらそう言うと、後藤さんはけらけらと声を出して笑った。


「そういうところ、そういうところがいいの」

「……えっと?」


 何が言いたいのか分からず苦笑を漏らすと、後藤さんは手をひらひらと振って言った。


「同期とか、上司の前じゃあ、焼肉食べたりとかビール飲んだりとか、率先してできないの。みんな、私に『お淑やかさ』みたいなのを求めてるんだもの」

「ああ……そういう」


 なるほど、そういうことか。

 合点がいった。

 確かに彼女は見た目も大人っぽく、上司の間でも――当然ながら――非常に人気が高い。はっきり言って、エロい目で見られている。

 そんな彼女が自分から『焼肉』だの『ビール』だの、オッサンが言い出しそうなことを言い出せる空気ではないというのは、なんとなく分からないでもない。


「それで、どうして俺の前ではOKなんですか」

「だって、吉田くんはそれで引いちゃったりしないでしょ」

「まあ、焼肉もビールも美味いっすもんね」

「ふふ」


 後藤さんは少し目を細めて、肩を揺らした。

 そして、頬杖をついて、俺を見た。


「だから、吉田くんとだけだよ。焼肉になんて行くの」

「はは、それ喜んでいいんすかね」

「んー、どうだろ。微妙かもね、ふふ」


 後藤さんの鼻からスッと吐き出すような、鼻の奥に少しかかった笑い。

 それが、妙に俺の心をくすぐった。

 この笑みに、俺は5年前から、ずっと勝てずにいる。


「じゃあ、次は? 2つ目」


 頬杖をついたまま、後藤さんが催促してくる。

 試すような、上目遣い気味の目線。

 まだ、訊かないの? と、挑発してくるようだった。

 俺は、小さく息を吐く。


「今日は何で俺のこと、誘ったんですか」


 はっきりと、訊ねた。


「何か、用事があるんですよね」


 彼女の目を見返してそう訊くと、後藤さんはゆっくりと口角を持ち上げた。

 その問いを待っていた、と言わんばかりの余裕だ。

 本当に、こういうところが。

 俺はぎりりと奥歯を噛み締める。

 俺はこの女性が苦手だと思う。だというのに、こんなにも心惹かれている。

 今だって、俺の鼓動は早鐘のようにどくどくと高鳴っていた。

 早く、答えが欲しい。


「それはね」


 後藤さんが、ゆっくりと口を開いた。

 俺を人差し指で指して。

 にこりと微笑みながら。



「吉田くんのことが、好きだから」



 そう言った。


 思考が、フリーズした。

 今、なんと言った?

 俺のことが、好きだと。そう言ったのか。


 動き出した思考は、一気に混乱を始めた。

 いやいや。

 あなた、数週間前に俺のことフったばかりでしょう。

 彼氏がいるって話だったでしょう。

 別れたということなのか?

 いやいやいや。

 別れたにしたって、その後すぐに俺が気移りするというのはどうかと思う。


 ぐるぐると思考が脳内で渋滞を起こして。

 結局、口から出力されたのは。



「え?」



 その一言だけだった。





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