7話  悪夢  -沙優side


「ほんとにいいのか?」


 私の肩をぐいと掴んだ彼が、そう言った。

 優しい雰囲気の、彼。顔は中の上。好みではない。

 名前は、もう忘れた。


「いいよ」


 私は精一杯、余裕たっぷりな表情で微笑んで見せる。

 私の言葉に彼は頷いて、私の下腹部に、『それ』を突き立てた。


「気持ちいい?」


 彼が、訊いてくる。


「うん」


 私が、頷く。


 はっきり言って、痛かった。

 でも、痛いのが、良かった。


……ッ」


 彼が、私を呼んだ。

 それは私の名前ではないけれど、今はそれが私の名前ということになっている。


「きもちい」


 私はあたかもそれらしく、可愛い声を出して見せた。

 それだけで、彼は満足するのを知っていた。


 気持ちいいのか、気持ち悪いのか、それすらも分からない。

 ただ、少し腹の奥が疼いて、入口のあたりはヒリヒリと痛んだ。

 その二つの感覚で、私は安心するのだ。


 ああ、私にはちゃんと身体があるんだなぁ。


 と。








 目が覚めると、部屋が明るかった。


「ん……」


 ベッドの方に目をやると、吉田さんはもういない。


「あれ……いま、何時」


 身体を起こして時計を見ると、午前の10時を回っていた。

 それを見て私はぎくりとする。

 ついに、やってしまった。

 吉田さんに『家事』を任されてからというもの、必ず吉田さんが起きるよりも早く起床し、朝ごはんを作ってから彼を起こしていた。それが義務だと思った。


「ご飯、何食べたんだろ」


 私が寝ていたのだから、当然折り畳み式の机は居室に置かれていない。

 明らかに人間が二人以上生活することが想定されていない間取りのワンルームマンションだ。

 ベッドがある横に布団など敷いた日には、他に何も置くことができない。


 台所へ行っても、彼が何か調理したような形跡は見当たらない。


「……ちゃんとしなきゃ」


 私はぺちりと自らの頬を叩いた。


 彼は。

 吉田さんは、不思議な人だ。

 明らかに厄介者である『家出女子高生』などというものを家に泊めた挙句に、「家事をやれ」などと言って、それ以上の要求を一切してこない。


 今まで、十を下らない程度の男の家を渡り歩いて来たが、こんな人は初めてだ。


 これまでの男は、必ず私を抱いた。

 ほとんどが、「ヤらせてあげるから泊めて」と言えば首を縦に振って、その日のうちに私とそういった行為に励んだ。

 最初は「そんなのいらないよ」と優しい顔をしていた数人も、こちらからちょっかいをかけたら、数日ももたずに私を食べた。


 それが、普通だと思う。


 だって、私、可愛いもの。


 ふふ、と笑いが漏れた。

 これは自己陶酔ではなく客観的な分析だった。

 私の容姿は、とてもいい。

 昔から、男子には好奇の目線をむけられ、女子からは疎まれて育った。


 私はそんな自分の容姿が、大嫌いだった。

 大嫌いだから、便利に使ってやろうと思ったのだ。



 だというのに。

 吉田さんは、私を抱かない。


 彼は私を『趣味じゃない』という。

 実際そうなのだろう。

 ベッドの下に放り込んであった雑誌を見るに、本当に彼は年上にしか性的関心はないようだった。

 それにしても、だ。

 そこそこなプロポーションの異性に迫られれば、とりあえず一度くらいは、と思うものではないのだろうか。


 いや、別にそれはいい。

 それで自分の容姿に自信をなくしたりするようなことはない。

 単純に、彼の好みではなかったというだけだ。


 それに、しないというなら、そちらの方が私の負担も少ない。

 好きでもない男と性行為に及ぶのは――もっとも、好きな男とそういったことをしたことは一度もないけれど――体力をかなり消費する。

 だから、今の状況は私にとっては最高だと言える。

 なにも、文句をつけるところはない。

 あの日、吉田さんと出会うことができたのは奇跡と言っても良いだろう。


 しかし。

 なんなのだろう、このもやもやと胸につかえる形容しがたい気持ち。


 不安とも、焦燥ともつかない、気持ちの悪さが胸の奥で首をもたげていた。


 どうして彼は、私を家に置いてくれるのだろう。

 家事をさせるためだけ? そんなまさか。

 一人でもできることを私にさせてまで、私という『社会的爆弾』を抱えるリスクを背負うメリットがない。

 しかし、私を性的に消費するでもない。


 彼は、私に何を求めているのだろうか。

 私は、彼の求める条件を満たしているのだろうか。だから、未だにこうして置いてもらえているのだろうか。


 もし、彼の求めるものを私が満たしていないのだとしたら。



 考えた途端に、胃がギュッと痛んだ。









「こんなに可愛いのに、なんで俺と?」


 私の身体を上から下まで眺めて、彼が言った。

 私は小さく頷いて、答える。


「おじさんが優しいからだよ」


 嘘だ。

 彼は優しくなんかない。

 私が彼を利用したのと同じように、彼も私を利用している。

 それだけだ。


「そうかな……」


 私の答えに満足したようで、彼はまんざらでもない顔で頭を掻いた。


「それよりさ、早く……しよ」


 どうでもいい会話はいらない。

 私は彼の『それ』に触れて、自分の下腹部へと誘った。


「うん。いくよ、ちゃん」


 私は頷く。


 痛い。


 熱い吐息が、自分から漏れた。


「痛くない?」


「へいき」


 痛い、と言ってもどうせやめないでしょう。

 私は微笑んで、冷めきっている心を隠した。


 多分、気持ち良くなどないのだ。

 わからない、と濁しているけれど。

 本当は分かっている。

 けれど。


 腰が密着するたびに、私の上の彼は気持ちよさそうに息を吐いた。


 それが、たまらない。


 彼にとって、私はどうでもいい存在。

 私にとっても、同じ。

 けれど。


 彼が、腰を私に打ち付ける時。

 彼が、私の乳に手を伸ばす時。

 彼が、果てるとき。


 彼にとって、私は唯一無二の存在であって。

 至上の幸せを噛み締めているはずなのだ。

 私を、使って。


 それが、たまらないのだ。


 すべてを放り出して、すべてから逃げてきた私が。

 誰にも求められなかった私が。


 この瞬間だけは、目の前の男に、求められている。


 私でなくては与えられない何かを、与えている。


 それだけで、私は生きていることを実感てきた。




ちゃん……気持ちよかった?」


「うん。おじさん上手だったから」


「じゃあ、もう一回いいかな」


「ん……いいよ」


 まだ、私を求め足りないこの人に。


 私は自分の存在価値をもう一度主張するのだ。


 そう思って脚を開いた時。


 頬を平手で打たれるような感覚がした。

 少し、痛い。


 何かと思い、自分の頬に触れると、手が濡れた。


「え……?」


 気付くと、頬を涙が次々と伝っていく。


「な、なに……」


 困惑して、涙をぬぐう。


「どうしたの、ちゃん」


 私にのしかかろうとしている男が声をかけてくる。


「な、なんだろ、分かんな……ひっ」


 目の前の男の顔が変化した。

 見たことのある、いつだかに私を抱いた男の顔。


ちゃん」


 そして、また次の顔へ。


ちゃん」


 また、次へ。


ちゃん」


ちゃん」


ちゃん」


ちゃん」


 次々と変わっていく男の顔。

 すべて、見たことがあった。


「……嫌」


 怖くなった。

 私は、これだけの男に、求められて。


 そして。


 捨てられたのだと。


 胃がギュッと締め付けられるような感覚がして私は身体を縮こまらせた。


 誰か。


「たすけて」


 喉から振り絞るような声で呟くと、視界がグラグラと揺れた。

 景色がゆらゆらと不自然に揺れて、崩れ出す。


「おい! 沙優!!」


 そして、を呼ぶ声が聞こえた。








「寝るのか、泣くのかどっちかにしろ」


 私の目を見て、吉田さんがそう言った。

 その言葉で、初めて私は『夢を見ていたのだ』と気付いた。


 身体を起こすと、吉田さんが正面から私の目を困ったように覗いていた。

 明らかに、彼は困っていた。

『分からないもの』を見る目を、している。


 彼は、どうして私を置いてくれているのだろう。


 もう一度、その疑問が胸の中に生まれる。

 そして。


 吉田さんの顔を見れば見るほど、強い気持ちが首をもたげた。



 この人には捨てられたくない。



 そう思ったとたんに、視界がじわりとにじんだ。


「よしださん」

「なんだ」

「よし……よしださ……ん」

「どうした」


 吉田さんは、困ったような顔のまま、しかし、優しい声色で私の呼びかけに答えてくれた。


 安心した。

 どうして、会って一週間と少ししか経っていないような人にここまで私は心を許しているのだろう。

 分からない。

 分からないのが、怖い。

 捨てられたくない。


 脳内を、恐怖が支配していた。


 こんなに優しい人に愛想を尽かされたなら。

 私は、もう今後、自分の存在価値を他人の中に見出せないような気がしていた。


 こわい。

 この人に見限られたくない。


 だから。


「怖い夢でも見たのか?」


 優しく呟く彼を、私は押し倒した。


「吉田さん……」


 止まれなかった。

 一週間の、ぬるま湯につかるような生活が頭の中でフラッシュバックする。

 久々に、緊張の緩む生活だった。


「えっち、しよ」


 彼の目が、見開かれる。

 私は、彼の決めたルールを破ってしまった。

 もうここにはいられない。


 捨てられるんじゃない。

 私が去るのだ。

 愛想を尽かされたっていい。

 わざとだから。


 だから。


 最後に、私を必要としてほしい。





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