1話  味噌汁


 ふわりと、美味しそうな香りが鼻孔に侵入してきた。


「ん……?」


 ぼんやりと目を開けると、窓の外が明るくなっていた。

 それも、朝日といった雰囲気ではなく、思い切り南向きの日が入ってきている明るさだ。


「今何時だ……」


 ぼやける目をしぱしぱとまばたいて、左腕につけたままにしていた時計を見る。


「うわ、もう14時かよ……」


 眉を寄せて、ベッドから身体を起こす。

 何時に帰宅したのかすら記憶にないが、自分の恰好を見る限りでは帰宅後着替える間もなく眠りに落ちたようだ。

 今日が休日で良かった。出勤日だったら寝坊どころの騒ぎではない。


 ところで、さっきから漂ってきている美味そうな香りはなんだ。

 匂いのする方向に視線をやると、視界の中に突如として。

 女子高生が現れた。


 突然のできごとに、脳がフリーズする。

 視界のど真ん中に仁王立ちする女子高生は俺の目をじっと見て、片手を上げた。


「おはよう」

「なんだお前!!」


 ベッドから飛びのいて大声を出すと、女子高生はきょとんとした様子でまばたきを数回した。


「なんだって言われても……女子高生ですとしか」

「なんでJKが俺ん家に!」


 女子高生は、苦笑した。


「泊めてって言ったら泊めてくれたじゃん」

「誰が泊めてやるって言ったって?」

「おじさんが」

「俺はおじさんじゃねえ」


 今度は、失笑した。


「いやおじさんでしょ、ウケる」

「ウケねえよ。というかこの匂いはなんだ。何作ってんだお前」


 居室とキッチンの間に立っていた女子高生をどけると、コンロの上の鍋から湯気が出ていた。

 蓋を開けて中身を見ると、そこには味噌汁が作られていた。


「……味噌汁」

「つくったよ」

「人ん家で勝手に味噌汁作るなよ」


 俺の言葉に、女子高生は溜め息をついた。


「なんだよ、なんの溜め息だそれ」

「おじさんが作れって言ったんじゃん」

「おじさんじゃねえ」


 やれやれと肩をすくめて、女子高生は語気を強めた。


「おじさんじゃないなら、なに。なんて呼べばいいわけ」

「呼び方とかどうでもいいからとりあえず出てけよ」


 なんだってそんなに堂々と他人の家に上がりこんでいるのだ。

 しかも、無許可で味噌汁なんて作っていやがる。


「ほんとに覚えてないの? 昨日の夜、電柱の下で困ってたらおじさんが話しかけてきたんだよ」

「だからおじさんじゃ……電柱? 昨日の夜?」


 言われて、昨晩の記憶がぼんやりと脳内に浮かび上がる。

 ゲロを吐きながら歩いたのだ。それは覚えている。

 そして、家の近くの電柱の下に……。


「あ、黒パンツの」

「なにその思い出し方。サイテーなんですけど」

「体育座りしてたJKだろ」

「そう」


 だんだんと記憶がよみがえってくる。

 後先考えずに橋本と酒を飲んだのだ。

 そして、その帰りにこいつを見つけた。

 その後。

 その後、どうしたんだったっけか。

 女子高生を拾ってからの記憶がほとんどない。

 じわじわと背中に冷や汗が浮かんでくる。


「……俺、お前のこと襲ったりしてないよな」


 俺の問いに、女子高生は真顔のままこちらをじっと見るだけだ。

 返事がない。

 どばどばと汗が分泌されるのを感じた。

 昨晩は俺の人生で最も酔っていたと言っても過言でないほどに酔っぱらっていたし、なによりも自暴自棄になっていた。

 何をしていてもおかしくない。


「……おい、なんか言えよ」


 冷や汗をだらだらとかきながら俺が言うと、女子高生はプッと吹き出して破顔した。


「あはは、してないしてない」

「なんだよ今の間は! 焦っただろうが!」

「からかいたくなっちゃって、ふふ」


 可笑しそうに肩を揺らして、女子高生は言葉を続けた。


「いやね、タダで泊めてもらうのもどうかと思ったから、あたしはそのつもりだったんだよ? でもおじさんが“ガキとはヤらねえ”の一点張りでさ」

「まじかよ」


 よくやった昨日の俺。

 流れに任せて女子高生に手をかけていたら、今頃昨日の俺を今日の俺がミンチにしていたところだ。

 酔っぱらっていてもそれなりの分別は保てていたようだ。


「だから、何かしてほしいことある? って訊いたら」


 女子高生はそこで言葉を切って、プッともう一度失笑した。


「“毎日味噌汁作ってほしい”って」

「プロポーズじゃねえか!」


 断じて言うが、そんなことはいくら酔っていても俺は言わない。

 女子高生は可笑しそうにけらけらと笑っていた。完全にからかわれている。


「おじさんさぁ」

「おじさんじゃねえ」

「なんて名前なの?」

「……吉田だよ」


 女子高生はふぅんと声を上げて。


「吉田さん……うん、しっくり来るな」

「なんだそれ」

「吉田さんって感じの顔してるってこと」


 吉田さんって感じの顔、などと初めて言われた。

 女子高生特有の感性というものなのだろうか。正直、ついてゆける気がしない。


「あたしの名前は訊かないの」

「別に興味ないしな」

「えー、訊いてよ」


 完全に会話が女子高生のペースだ。

 しかし確かに、脳内で“女子高生”と呼び続けるのも疲れるし、名前くらい訊いてやってもいいかもしれない。


「で、なんていうんだよ」


 俺が訊くと、満足げに頷いて女子高生は自分の名を名乗った。


「サユだよ」

「サユ」

「漢字は、『毘沙門びしゃもん』の“沙”に『優しい』の“優”って書くの」

「漢字の例えに毘沙門使うやつ初めて見たよ」


 沙優はにへらと笑って、鍋からおたまで味噌汁をすくった。

 そして、どこからか勝手に取り出したお椀へ盛り付けた。


「おい、お前いつまでいる気だよ」

「んー」


 声をかけると、沙優は味噌汁の入ったお椀を俺にスッと差し出してきた。


「まあとりあえず味噌汁食べなよ。話はそれから」

「なんでお前が仕切ってんだ」


 俺が口答えするのとほぼ同時くらいに、俺の腹がぎゅるると鳴った。


 そういえば、昨夜食ったものはすべて吐き出してしまったのだった。

 そして昼過ぎまで寝ていたとなれば、腹も減るだろう。


 俺の腹の音を聞いて、沙優はにまにまと口角を上げた。


「食べないの」

「……食う」


 俺は渋々、沙優からお椀を受け取る。

 さすがに、「俺は食うからとっとと帰れ」とは言えなかった。




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