ビーネイダーシュガー、ノアソルト

重宮汐

第0話:それは月夜の出来事


 月の明かりだけを頼りに、廊下を走っていた。

「いたぞあいつだ! 構うな、撃て!」

 背中のほうからまだ敵の怒号と発砲音が聞こえてくる。

 息が荒く、視界も目を撃たれたせいでおぼつかない。

 普段であれば、数が多くとも何て事ない相手のはずだった。人間ごときが、いくら武装しようとも自分に適うはずがない。と――。

 確かに彼女は、この美術館に侵入してから敵の半分は難なく消化していたが、もう半分にまで手が回らず、未だに追われていた。

 結果的に、左目に両肩、右腕の肘から下三カ所、脇腹にと銃創が刻まれていた。

 慢心したのは、いつからだっただろうか。お陰様で満身創痍だ。

「笑いそう」

 冗談が苦手な彼女の精一杯のジョークも、銃声にかき消された。

「ッ」

 辛うじて被弾を免れていた脚に、二発の凶弾が食い込む。

 身体を撃ち抜かれても、視界を損傷しようとも走り続けた気丈な脚だったが、ここに来て運が尽きた。右の足首と、左のスネを砕かれた彼女がそのまま倒れる。

 人間よりは強い身体だと自負していたが、もう動かない。動かそうとも、それだけで気が滅入った。ボロ雑巾の気分だ。

 ここで諦める事が出来たらどれだけ楽だっただろう。

 諦観、という感情があれば、ボロボロにならなくても済んだはずだ。

 ――それでも。

 まだ自分は、目的を果たしていない。役目を全うしていない。


 命令、だけが自分のすべてだ。

 途中で投げ出して死ぬ事は、許されない。


 その思考がスイッチだった。意識を戻してみると、追っ手に迫られていた。彼女は上半身を上げたまま後退する。

「どうやらここまでのようだな、お嬢ちゃん」

 向けられた銃口を強く睨むが、ふと視界の隅にガラス張りの床が映った。

 どうやらガラス張りの渡り廊下まで逃げてきたようだ。何度も美術館を訪れ熟知している彼女は、ようやくここで自分の現在位置を把握する。

この真下は、確か。

 ガラス張りの廊下と、銃口を交互に見る。

「あなたそう思うなら、それで結構」

 一言放つと、動かない肩を酷使して――両腕を振り上げる。

 そのタイミングを逃さず男が凶弾を放つ。

 次の瞬間、彼女の細い腕からは想像もつかないような威力の衝撃が、ガラス張りの廊下を叩き割った。


「流石にタフ過ぎませんかね、あの子」

 廊下の崩落部分を青冷めた顔でのぞきながら、追っ手の一人が言う。

 しかし先頭を切っていた追っ手、丸刈りにタトゥが目を惹く男は、一目彼女の姿を確認しただけで銃を仕舞った。

「当たり前だろ人間じゃねえんだから」

 追っ手達は互いに顔を見合わせたが、ぞろぞろと男に続く。

「ま、でも死ぬのは人間だけじゃない」

「多少強いだけで――」


「悪魔だって、死ぬさ」


 もう一度、追っ手が崩れ落ちた穴を覗く。

 確かに彼女の姿が、廊下を突き抜け真下にあるガラス天井のドームまで貫き、床に転がって動かないのを確認出来た。

「それでも怖ェなら、下行って心臓に杭でも打ってくるんだな」


 『悪魔』だって、死ぬ時は死ぬ。

 それが、聖なる炎に焼かれた時でも、銀のナイフで串刺しにされた時でも、聖書の言葉で祓われた時でも――身体を酷使した時でも同じだ。

 そして彼女は今、確かに死、というものを実感していた。

 銃創だらけの身体には、ガラス片が何十カ所も突き刺さっていた。特に、叩き割った衝撃で両手が血塗ちまみれだ。ドームの天井と床に叩きつけられたせいで頭からも流血している。

 咳込むだけでも吐血する。酸欠と大量出血で、まともな思考は働いていない。

 疲れた身体に、ゆっくりと、ねっとりと絡み付いてくる感覚。

 いっそこのまま、感覚に任せてしまえば、少なくとも絶望的な気だるさからは解放される。

「あ、あー」

 何か発音しようとしたが、喉に血がつかえて言葉にならない。また吐血するだけだった。

 それでも彼女は楽になる選択肢を切り捨てた。

 ――死ねない。

 彼女は身体を起こした。

 まだ目的のものを手に入れてない。

 展示台のすぐ近くに落ちたおかげでそれを支えに立ち上がる事は出来た。

 命令だけが自分のすべて。

 展示台の、ガラスケースの中を虚ろな目で覗く。

 それをこなせずに死ぬ事は許されない。


 ガラスケースの中には、ピラミット型の赤い宝石が一つだけ、あった。

 暗闇のなか、照明など無くとも宝石の輝きを失わず煌々と光を放っている。

 純粋で混じり気もない、まっすぐな赤色。

 この美術館に来たなら、誰しも一度はこの光に目を奪われる。このドームも、たった一つ、この赤い宝石を展示しているだけだ。

 彼女もまた、この光に魅了された一人だった。

 ――「きれい」

 それだけの理由で何度も美術館に足を運んだ。

 そんな大好きな光も、今の彼女の目には目的としか映っていない。


 ガラスケースを、何の躊躇いもなく叩き割る。

 警報もサイレンも鳴らず、ただガラスの割れる音が響いた。

 あるいは、彼女にはもう聞こえなかったのかも知れない。

 ――憧れだった光を手にして。

 ――目的を、達成して。

 彼女は赤い宝石を手にしたまま、再び倒れた。

「あったかい」

 赤い宝石は、まるで生きているかのように色づいて、少しだけ熱を帯びていた。

 その熱が、心地良かった。

 頑なだった彼女の心も、宝石の熱で溶けていく。

「いいんじゃないかな。私、死んじゃっても」


 赤い宝石は、彼女の言葉を理解した、のかしていないのか、どろり、と溶け出すと、彼女の右腕の銃創に入り込んで、跡形もなく消えてしまった。


 しばらく倒れていた彼女は、ふと思い返したかのように起き上がった。

「逃げなきゃ」

目的は達成出来た。もう命令を受ける必要はない。

 身体は相変わらず傷だらけだったが、ボロ雑巾の気分ではない。

 いつやられたのか分からないが、自分の左胸に刺さっている拳銃を抜くと、自分が落ちてきた穴めがけて一つ大きく跳躍した。



 もうやめてしまおう。この赤い宝石と一緒なら、どこで死んだって構わない。今いる此処、以外であるならば。

 義母ははおやから離れてこれから私はどうなってしまうんだろう。

 義母の『もの』でも無くなって、私は誰の為の『悪魔』になるの?

 誰の下で死ぬのなら、私は許されるの?

――私は、一体、『何者』?




 空が白んでいる。もう月は見えなかった。


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