第3話 僕は君で、君は僕で

 寒い。

 最初に感じたのはそれだった。

 ただ、雪は降っていない。寒さ自体も、さっきまでとは違う感じだ。体の芯から凍えるような……そんな冷たさとは違う。吹き抜けていく風が、僕に寒さをプレゼントしていく程度だ。

「気付きましたか」

 そう言われて、隣でちうちうと紙パックのジュースを飲むクロノスちゃんに気付いた。2人並んでベンチに腰掛けている。紙パックの表には薄いピンクで「いちごオレ」と書いてあり、デフォルメされたいちごのイラストが添えてある。そのジュースを飲むクロノスちゃんは、いかにも普通の小学生に見える。とても魔法使いには見えない。

「ここは?」

「さて、どこでしょうね。あなたが来たいと望んだ時間ですけど……」

 僕はキョロキョロと辺りを見回した。見覚えはある景色だ。古びた記念講堂が目の前にある。その記念講堂前のちょっとした空間に、そこそこの人だかりができている。

「あれは……」

 その集団に目を向けて初めて、僕は思い至った。ここは例年合格発表の行われる場所で、目の前の人だかりは受験生とその保護者……そしてサークルの勧誘をしようとしている学生と取材に来たメディアの混合だ。

「え、え、え⁉ 今日って何日だっけ?」

 慌ててスマホを取り出して見ると、2013年3月8日の午前10時50分を示していた。4年前の日付だ。

「え、嘘、マジかよ……」

「もう、まだ疑ってたんですか?」

「あ、いや、えっとね……」

 むくれたクロノスちゃんをなだめながら、僕は急に緊張してきていた。

 この日は僕が受けた大学、それも第一志望だったところの合格発表の日。あと10分後には発表されるタイミングだ。僕はこの日、不安に押し潰されそうになりながら発表を待っていた。つまり目の前の集団の中に、僕が居るんだ。

「ね、ねえ。僕はこれからどうしたら良いのかな?」

 緊張に耐えかねて、僕はクロノスちゃんに尋ねた。

「うーん。私にできるのは時間の操作だけで、具体的にどうすれば良いかということまではわかりませんね。ただ、前向きになれるような言葉を掛けてあげれば良いんじゃないですか?」

「前向きな言葉、か……」

 受験に落ちた人間に、それも自分に向けてどういう言葉を掛ければ良いんだろうか。

「お兄さんにとってこの受験は、どういうものだったんですか?」

「僕にとって?」

「そうですよ。それがわかれば考えるヒントになるかもしれません」

 飲み終えた紙パックを手際良く開いて丸めると、クロノスちゃんはすぐ隣にあったゴミ箱に放り込んだ。

 紙パックがゴミ箱の中に消えるのを見ていた時、僕は思い出した。この受験の時は、僕はまだ諦めていなかった。今度こそはと思って一生懸命に頑張って臨んだ。ただそれでも落ちてしまったから、僕は失敗する人間なんだと思って諦めてしまった。

 諦めたとは言っても、第一志望として挑むことをやめたわけじゃない。ただ、合格するわけはない、どうせ失敗するんだという観念が付きまとっていた。そう、この時なんだ。自信なんてものを無くしたのは……

 目の前の集団が、急に騒がしくなった。

 見れば、発表用の板の上端が人々の頭越しに見えた。ついに、発表の瞬間が来たんだ。

「いよいよですね」

 そう言うクロノスちゃんは少しテンションが上がっているみたいだ。

 僕の緊張も最高に高まっていた。心臓はバクバクと音を立てているし、手のひらに大量の汗がにじんでいる。何度も手のひらの汗をズボンで拭い、からからに乾いた口で何とか唾液を飲み込んだ。

 発表板が並べられ始めると、集団の一角で歓声が上がった。1枚目に番号があった人だろう。気の早い歓声は徐々に広まっていって、集団の騒々しさが一段と上がった。

 この時の僕は、どのくらい一覧を見ていただろうか。自分の番号が無い一覧を、それでも信じられずに何度も見ていた気がする。嬉しさいっぱいの歓声に囲まれながら、僕は長い間手元の番号と一覧を交互に見ていた。歓声も勧誘の声もシャッター音も、僕の耳には遠く聞こえていた。

 今こうやって外から眺めていると、何だか滑稽な茶番を見ているような気分になった。目の前はかなりの活気を呈しているけれども、そこを除いてはしんと静まり返っている。その静けさの上で、目の前の喧騒は浮いて見える。

「過去のお兄さんはまだ出てこないんですか?」

「ん、ああ、そうだね。多分まだ見てるんだと思う」

「結構念には念を入れたんですね」

「無駄に、ね」

 僕は苦笑した。

 その時、一人の男子に目が留まった。

 集団から一人離れて、ひどく項垂れながらトボトボと歩く男子。紺のオーソドックスなジーパンに赤地に白のチェックシャツ。その背中には、今でも僕が使っているリュックが背負われている。どれもあの日に僕が着て行った覚えのあるものばかりだ。

 間違いない。過去の僕だ。

 妙にそわそわとしながら、ベンチから立ち上がってその背中を追いかけた。

 何と言って呼び止めようか、呼び止めた後に何を言おうか……完全にノープランだった。久しぶりに友達に会うとかだったら、もうちょっと気楽だっただろう。だけど、今回会う相手は過去の僕だ。

 どうしたものかな……

 考え事をしながら歩いていても、意外と容易く追いつくことができた。あまりにも早く追いついてしまって、まだ掛ける言葉が浮かばない。

 そのまましばらく僕(過去)の数歩後ろをついて歩いていると、門が見えてきた。このままキャンパスを出てしまうのは、話がしにくい気がする。

「あー、ちょっと君」

 追い抜きざまに振り向いて声を掛けた。声を掛けられた僕(過去)はぎょっとして立ち止まった。

 よし、ひとまず話しかけることには成功(?)した。

「あ、あの、すみません、用があるんで……」

 僕(過去)はそう言うや否や、僕を押しのけて立ち去ろうとした。

「ちょっと待った、待った。 あー、僕は未来の君だぞ?」

 僕に肩を掴まれた僕(過去)は、怪訝そうにじろじろと僕の顔を見て何かは感じたようだ。

「………」

「えーっと……」

 ただ、僕に向けられる疑いの目は変わらない。

 さて、どうやって証明したものか……未来の出来事を伝えて確かめさせる、というのは少し時間がかかる。ここは僕と僕(過去)が同一人物であることの証拠が示せればそれで良いはずだ。そうなると……

「氷室卓也。誕生日は1990年7月5日、血液型はA型。好きな食べ物は……あー、何だろ。何でも食うしな……まあ、これは良いや。あとは――」

「あ、あの、もうわかったから」

 とりあえず思い付くだけの自分のプロフィールを並べようとしたら、僕(過去)に止められた。どうやら理解はしてもらえたらしい。

「でも、どうやって未来の僕がここに……?」

 訂正。理解はできても納得はされていなかったらしい。

 まあ、唐突に「未来の自分です」なんて言われたらそうもなるだろう。

「あー、まあ、ちょっと便利な魔法を使ってな」

「は、はあ……」

 僕(過去)はまだ納得できていないようだけど、大事なことはそこじゃないから、申し訳ないけど強引に話を進めさせてもらう。

「今日は一つ過去の僕に言いたいことがあってな、それで過去まで来たんだ」

「言いたい、こと?」

「そう。お前、落ちただろ?」

 僕のその一言で、僕(過去)は目に見えて落ち込んだ。

「あー、それでだな、一つアドバイスというか何と言うか……絶対に諦めるな。今度こそ成功するから」

「え……?」

 僕(過去)がわずかに顔を上げた。

 ここぞとばかりに僕は喋り倒した。

「今まで何回も失敗してきた。それでもな、諦めなければ絶対に受かる。現に僕はここの生徒だ。こんなことを過去の自分に言うのはな、一度諦めかけて落ちかけたからなんだ。でもそこから立ち直って諦めなかったからこそ今僕はこの大学に居る。だから、絶対に諦めるな。諦めなければ、未来はあるんだから。今度こそ成功させて見せろ!」

 途中から自分が何を言いたいのかよくわからなくなっていた。それでも、言葉に詰まってしまったら説得力を失う。嘘八百でも、僕にはまくしたてるぐらいしか方法が浮かんでいなかった。

 しばらくポカンとしていた僕(過去)は、はっと我に返ったかと思うと何度も頷いた。

「よし、僕が言いたいのはそれだけだ。じゃあな!」

 勢いのあるうちに、僕は僕(過去)の元を離れた。後ろから「え、ちょっと!」と呼び止めようとする声が聞こえたけど、無視して歩き続けた。

 すぐに記念講堂向かいのベンチまで戻れた。競歩で歩いたせいで、はあはあと息が上がっている。火照った体に冷たい風が心地良い。ただ、汗で濡れた下着が気持ち悪い。

「お帰りなさい」

「ああ、ただいま」

 クロノスちゃんはまだベンチに座って集団を眺めていた。その手には「いちごオレ」の文字がパッケージに印刷された紙パック……またちうちうと飲んでいる。

「ひとまず終わりましたか?」

「うん……うまくいったかわからないけどね」

 ベンチに腰掛けて、空を仰ぎ見た。雲が多く覆う中、わずかに晴れ空が見える。

「じゃあ、結果を確認しに行ってみましょうか」

 紙パックをゴミ箱に放り込んだクロノスちゃんは立ち上がり、僕に手を差し出した。

「もう少し休憩したいけどね」

 苦笑しながら、僕はその手に自分の手を重ねた。

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