第8話 ノーサイド
「貴史、お風呂
リビングのドアー越しに純子が顔を出す。
「あっ、うん・・・」
慌てて携帯のタップを手の中で押す貴史。当然それを、純子が見逃すはずがなかった。
「えっ、今何していたの? 誰かとメール?・・・」
「えっ、いや違うよ」
彼女の問い掛けに、しどろもどろの貴史。
「メールでしょ、誰としてたの?・・・」
言いながら、彼女は貴史の横にちょこんと座った。
この二人、広告代理店に勤務している宮沢貴史と彼より二つ年上の姉さん女房でもある小森純子。女房といっても籍を入れているわけではない。世間一般に言う内縁の妻とでも言うのであろうか。
一緒にひとつ屋根の下に住み始めてから、ちょうどこの4月で5年目を迎える。
ところがこの頃、少し貴史の様子がおかしいのである。つまりは、どうやら彼は他の女性と良い仲になっているらしいのだ。つまりは、浮気である。
それが証拠に、純子が留守の時などはいつも誰かとメールをしているらしい。最近では彼女がお風呂に入っている
当然純子の方も、薄々はそれに気付いていたが、今日はまさにその現場を彼女に押さえられてしまったというわけである。
「メールの受信を開いてみてよ」
純子が貴史の画面を見ながら指さす。
「い、良いよ・・・」
恐る恐る画面を開く貴史。しかし、そこには一通のメールも記録されてはいない。
「へっ、これさっき全部消去したっていうこと?・・・」
「さあね」
開き直る貴史。
「ふーん、そうなんだ。メールしていたわけじゃないんだ」
「だから、さっきからそう言ってるじゃん」
なおも強気な貴史。
「ふーん・・・」
そう言いながら、純子は貴史の携帯に指を伸ばす。
「メールやってなかったんだ・・・」
彼女の指が、『新規メッセージ』を送るマークを押す。当然画面には宛先や件名も、そして何もメッセージも無い画面が映し出される。
「ほら見ろ、何もないじゃないか!」
貴史は勝ち誇ったかのように、彼女の顔に不満の色を浮かべる。
「本当ね。じゃあこれは?・・・」
純子はそっと画面の『あ』をタップした。
そこには、『あ』から始まる沢山の語句の候補が並んでいる。当然それは、以前貴史がメールで用いた語句が新しい順にと並んでいるのである。
「貴史、一番最初にある文字を読んでみて・・・」
純子はわざと甘えるようにと質問する。
貴史は口を開けたまま、画面を見つめる。携帯を持つ手が小刻みに震えている。
「ねえ、読んでみてよ!」
耳元で彼女の険しい声が・・・
「あ・・・ 愛しているよ・・・」
声にもならない声で、その文字を読み上げる貴史。
「ふーん、愛しているんだ?・・・」
冷めた表情で彼女は次の文字をタップする。今度は『か』である。
「純ちゃん・・・」
「今度は、何て出てくるのかしらねえ?・・・」
しかして、その語句は『必ず』であった。
「必ず? 何が必ずなのかしら? ねえ、あなたもその先知りたいと思わない?・・・」
もう貴史の額には、うっすらと嫌な汗が噴き出している。
「ちょっと、貸して!」
純子はそう言うと、貴史の携帯を自分の掌の上で素早く操作し始めた。横では、ただ呆然と事の成り行きを眺めている貴史が、今にも泣きそうな顔で見つめている。
「いつも、宇宙一、笑顔、おくれ、君の、九時、結婚、今度・・・」
次々とタップする最初の文字を目で追う純子。その文字の一つひとつに、次第に疑惑がある確信へと変わっていく。
「あ、あの・・・ 純ちゃん?・・・」
「もう、その名前で私のことを呼ぶのはやめて!」
それでも指先だけは、機械のように正確に画面をタップする。
「・・・船で、返事、北海道へ・・・」
純子は『ほ』まで開くと、小さくひとこと呟いた。
「なかなか出てこないわねえ、女の名前が・・・」
(やばいな、彼女が
貴史は心の中で、白旗を揚げる。
と、その時。
テーブルの上の携帯が、ブルブルッとバイブしながら横へと移動した。もちろんそれは、純子の携帯である。
「あっ!」
手を伸ばそうとする純子。それよりも一瞬早くその携帯を手にした貴史。着信画面に目を落とす。
「雅人?・・・」
「ちょっと、人の携帯返してよ」
珍しく声を荒げる純子。
「雅人って、誰?・・・」
「と、友達よ・・・」
彼女にしては、どうも歯切れが悪い。すかさず貴史は、着信履歴をタップする。
「雅人、彰、和彦、治男、聖也、・・・・・マーク、えっ、外国人まで・・・」
そこには、貴史が今までに聞いたこともない男の名前がズラリと。
「この人達とも、友達っていうことなのかな?・・・」
貴史が目を細めながら尋ねる。
「そ、そうに決まっているじゃない」
純子のその額にも、嫌な脂汗がにじみ出る。
「ふーん・・・」
さらに目を細める貴史。
どうやらお互い、このままノーサイドというわけには行きそうもない・・・
【語彙】
ノーサイド:ラグビーで、試合終了のこと。すなわち、敵味方無しという意味。
転じて、(比喩的に)戦いや争いが終わったのち、互いの健闘をたたえ合い、それ以上争わないと言う状態となること。
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