第21話 パラドックス(移植)

 「本当に君が愛おしいよ」


 満開の桜の花が見える病室のベッドで、雅夫がそう呟く。

 その言葉を嬉しそうに聞いている恋人の明菜。彼女の鼻には呼吸器用の酸素の管が着けられている。

 雅夫は彼女の額に軽く口づけをする。

 長い黒髪に対比するかのような、色白の明菜のほおほのかに赤らんだ。


 二人はこの秋に結婚をする約束をしていた。ところが運命とは、時に残酷な悪戯いたずらをするものだ。この時、明菜の身体は既にたくさんの病魔におかされていたのである。

 「雅夫さん、この結婚は無かったことに・・・」

 「何を言っているんだい」

 二人の間に高い壁が立ちはだかれば立ちはだかるほど、より一層互いの気持ちは深まっていった。


 5月、最初の治療が始まった。

 放射線を利用した最新式の治療だそうだ。そのため、多少のリスクが伴うが、それよりも今は治療による効果の方が優先される。

 一週間後、病気の治療と平行するかのように、すっかり抜け落ちてしまった髪の毛に、最初の移植手術が施された。


 「おやっ? その髪の毛の色は?・・・」

 久しぶりに見る明菜の髪の色は明るい栗毛色に変わっていた。

 「気分転換に明るい色にしてみたの」

 そう言う彼女は、嬉しそうにニコリと微笑む。


 「良いじゃないか。黒髪の君も素敵だったけれど、その透き通るような白い肌には、実にマッチしているよ」

 雅夫はお世辞ではなくそう思った。

 「ありがとう・・・」

 明菜は雅夫の手を握る。

 「ところで、放射線治療の方は辛くないはないかい?」

 治療の辛さを微塵も表に出さない明菜の気持ちが、雅夫にはかえって辛い。


 7月、次なる治療が始まる。

 大量の薬を投与することによる治療である。そのため、病気の回復状況とは裏腹に、明菜の内臓が悲鳴を上げ始める。

 結局、彼女は複数の臓器を移植することになった。


 それでも運が良いことに、複数の臓器の提供者が、ほとんど待つことなく同時に現れた。ただし、提供者の一人は事故で亡くなった若者であり、もう一人は受刑囚であるという。

 それに当然、移植手術にはたくさんの輸血が必要となる。それらは四方八方の血液バンクより急いでき集められた。

 

 17時間にも及ぶ手術の末、見事にそれは成功した。まさに奇跡と言っても過言ではない。


 二週間後、やっとの想いで会いに来た雅夫は、明菜の病室に入るなり多少の違和感を覚える。 

 「おやっ明菜、少しふっくらしたんじゃないかい? それに肌の色も黒くなったような・・・」

 雅夫がそう感じたのも無理はない。

 大掛かりな手術の後、その移植した臓器による拒否反応だけではなく、多量に入れ替えた血液による副作用が身体のあちこちに出始めたのである。


 その中で最も顕著なのが、皮膚と体質、つまりは新陳代謝の変化であった。そう、代謝の悪化により、食べた物がほとんど明菜の身体の中へと留まってしまうのである。

 そのため体重は以前よりも12kgも増加し、蓄えられた脂肪が彼女の透き通るように白い肌に容赦なく吹き出物として現れてくる。そのうえ皮膚はがさつき、それを我慢できずに掻きむしった後がみみずれのように瘡蓋かさぶたを作っている。

 

 「雅夫、チョコレートが食べたいんだけど・・・」

 「えっ?」

 (雅夫って・・・)


 「下の売店に行って買ってきてよ」

 「何言ってるのよ、雅夫さんはあなたのお見舞いに来てくれたんでしょ」

 すかさずお義母さんが彼女をたしなめる。


 「チョコレートが食べたいって言ってんでしょ!」

 明菜の言葉に戸惑う雅夫。

 「ごめんなさいね、雅夫さん。手術後、この子少し変なのよ・・・」

 「はあ?・・・」

 雅夫はもう一度明菜を振り返った。


 9月、悪性の細胞が今度は彼女ののどへと転移してしまった。さっそく咽の声帯移植手術が施される。


 数日後、出張に出ていた雅夫が1ヶ月ぶりに明菜の病室を訪れた。手には綺麗な花束が握られている。


 「うるせえんだよ、このくそババアがーっ!」

 突然、病室の中から男の罵声ばせいが聞こえてきた。

 (はて?・・・)

 雅夫はもう一度入り口に下げられた札に目を落とす。

 『梶本明菜 様』

 (どうやら、間違えではないらしい)


 再び部屋のドアーに手を掛けようとしたとき、中からお義母さんが血相を欠いて飛び出してきた。

 「お義母さん!・・・」

 「雅夫さん、明菜が、明菜が・・・」

 お義母さんと入れ替わるようにと中へと入る雅夫。

 

 「明菜!・・・」

 「おう!」

 振り向く明菜。

 「どうしたんだ、その声は?」

 「その声って、これが私の声でしょうよ」

 明菜は病室のベッドの上に仁王立ちしている。


 「本当に明菜なのか?・・・」

 「当たり前だろう、私は何も変わっちゃいないわよ」

 そう言う彼女のあごには、うっすら青くひげを剃った跡が残っている。


 雅夫はもう一度聞き返す。

 「君は本当に、あの明菜なのかい?」

 「そうよ。半年の間に中身が少し変わっただけで、私には変わりはないわよ。それともなに、今の私は明菜じゃないとでも言うの?」

 (たしかに、何処までを明菜であると言えるのであろうか?・・・)

 

 彼女が勢いよくベッドの上から飛び降りる。

 「ところで結婚式の予定は確か秋だったわよね。雅夫、ちゃんと覚えてる?」

 「・・・・・」


 「式が終わったら、今度は角膜の手術よ。その次は皮膚移植ね・・・」

 

 (いったい僕は誰と結婚するんだろうか?)

 雅夫はゴクリと唾を飲み込んだ・・・



【語彙】

パラドックス:「逆説」と直訳される。語源はギリシア語の(paradoxa定説に逆らうもの)

ある真理には反するようだが、よくよく考えると一種(別)の真理をあらわしていることや、逆に正しくないように思えても、実際には真理となっているようなこと。

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