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 「え?」


 コーキも妹の視線を追って川上を見た。……確かに何かが勢いよく近づいてくる。……丸太? 誰かが山奥で木を伐採して流したか? でも……一本だけ?


 やがてそれが丸木舟だと気づいた。丸太をくりぬいただけの簡素なものだ。誰かが乗っている。というより、しがみついたままぴくりとも動かない。気絶している? 櫂のたぐいを持っている様子もなく、操船できる状態ではないように見て取れる……。



 コーキは慄然とした。その危険な状態よりも、人が乗った舟が流れてきたこと自体にだ。


 上流は激流、下流は滝、伝い歩いても容易に出入りできない、急峻な地形の狭間のわずかな平地に拓かれたからこそ、この地は隠れ里になりえた。陸路も巧妙に隠されていて、道を知らずにはとうてい踏み込めぬ場所だった。事実これまで、よそものが入ったことはない。


 それでももし、道を知らぬ者が、里にたどり着こうとするなら───川上の山中に分け入り、雪すら残る高地から煮炊きの煙を確認して位置を見定め、沢を伝って下るくらいしか手段がない。だがそれを実践する者がいるとは、誰も思っていなかった。コーキは背筋がぞくりとした。───この世には無茶をするヤツがいる!


 よそものは決して里に入れてはならない、という掟がある。この里の秘密が他の種族にバレたなら───甲人に隷属し、見世物になって生きるしかなくなるのだと、里の子供たちは脅しにも近い口調で大人たちから教わってきていた。


 しかし有名無実だった。本当にもしよそものが来てしまったらどうすべきか、コーキは知らなかったし、実際、里の誰も考えていなかった。



 今、どうすべきか。


 誰が乗っているのかわからない。里にあだなす怖ろしい存在かもしれない。だがコーキの中で好奇心が勝った。里の外からやってきた異物に少しでも触れたかった。あの舟がこのまま流れていったら、待っているのは滝壷だ……。


 頭でぐるぐる考えを回すうちに、体が勝手に動いていた。


 「お兄ちゃん! どうする気?!」ルカが岸から叫んだが、かまわなかった。


 うまい具合丸木舟は、水深のある主流に向かわず、浅瀬を流れ去ろうとしている。腰が立つ深さの場所だ。コーキは藻の生える淀みからその場所へ移動して、水流に負けぬようふんばった。


 「止める気?! 危ないよ、お兄ちゃん!」ルカが岸から叫ぶ。無理もない。人が乗るほどの木材だ。まともにぶつかりでもしたら、下手をすれば自分も滝壷の底だ。


 「るっせぇよ! 黙って見過ごせって言うのかよ! ───ルカ、木刀よこせ!」


 丸木はまっすぐに向かってくる。浮き沈みする丸木の断面が、少しずつ大きく見えてくる。岸から投げられた木刀を片手で受け取って、コーキは丸木を見据えた。見えている断面にはっきりとした亀裂がある。


 コーキは腹の底に力を入れた。立っているだけでも、気を緩めると負けてしまいそうな流れに、歯を食いしばって耐える。───耐えながら、その唇の端には知らず知らず笑みが浮かんでいた。


 激しく昂ぶっていた。右手の、てのひらと手袋のすきまから、とどめ切れず漏れ出す光は紅炎の揺らめきとなり、蛇の舌のように腕を舐めて這い上がった。そんな自らの輝きを見れば見るほどに、やれるという強い確信がコーキの心のうちに湧いた。


 一方で、兄の本気を察して、ルカは口をつぐんだ。心が遠く離れてしまうような───自分と兄の向かう道筋がもう二度と交差しないような、言いしれぬ不安が、ルカの胸中をよぎった。


 丸木舟は水面を蹴立て、ぐんぐん近づいてくる。コーキは腰を落とし、足下の川砂をぐっと踏みしめた。右手に柄を握り、刃にそっと左手を添えて構える。そして目を凝らす。蹴立てるしぶきが、そして丸太の断面がはっきりと見え始める。あと少しだ……タイミングを計る……もう少し……少し……三……二……一……今だ!


 一瞬思い切り背をそらすと、上半身を戻すと同時に左手を後方に下げ、その反動で右腕を鋭く前に突き出す。大きなモーション、しかし狙いは寸分違わず、ただ一点に突きの威力を集中させる。


 これこそ光人剣術秘技・「雀蜂」である。


 ───光人の一族が、長い年月の間に、自衛のため独自に培った剣術は、非力な彼らの体に合うよう、無駄のない動きを追求するとともに、攻撃を一点に集中し一撃の威力を最大化することに特化している。その技の数々は、世界中の数ある武術を向こうにしても、けして引けを取らぬ優秀なものであった。それゆえ、光人剣術は後に大いに世に広まることになるのだが、それは別の話である。


 コーキの繰り出した剣先は、丸木の亀裂を確実に捕らえた。ばりばりと音を立てて真っ二つに裂ける丸木船。重い衝撃が腕に、さらには体中の筋肉に伝わり、悲鳴を挙げそうになるほどのしびれが全身を走った。足が水底を滑り、バランスを崩して流れに飲み込まれそうになったが、どうにかこらえる。


 裂けた片割れはコーキの左側を流れ過ぎ、もう片割れは右側を流れていった。やがて滝を落ちて砕けるだろう。ぼちゃんと真ん中に落ちた乗り手とその荷物を、コーキは体全体でがっしりと受け止めた。



 救出に成功して安堵したコーキだが、ふたつ、驚いたことがある。


 ひとつは、体に、ずっし、と、想像以上の重みがのしかかったことだ。……なんだ、この荷物? 革の背負い鞄で、やけに重い。肩に担ぎ上げると、石と石がぶつかり合うような、がちりと堅い音が中から響いた。


 もうひとつ驚いたことは───顔が水面につかぬよう、背後から脇の下に手を通し、思ったよりも小柄な体を抱え上げると、温かみと匂いを伴う人の重さと、肩ほどまでで切り揃えられた濡れた髪の匂いと、……やけに感触の良い、柔らかさが伝わってきた。なんだ? これ……。


 「い、いやあ、……死ぬかと思った」


 息も絶え絶えの、だが、舌足らずな高い声。───女の子?!


 いや、本当に死ぬところだったろうが、とツッコみかけて、手に触れた柔らかさの正体に気づく。それは、妹の袖口から見える、よりも、もう少し、はっきりした、その、なんだ……。


 「どさくさにまぎれて、ヘンなとこ触っちゃ、ダメっス、よ……」


 少女はかっくりとうなだれて、そのまま気を失ってしまった。


 赤面しながらもコーキは少女を抱え直し、彼女が見たこともない服装をしているのに気づいた。


 上半身を包む袖なしの服は、目に見えぬほど細かい織り目で、けばのない滑らかな手ざわりの、おそろしく薄い布地でできていた。……妙に「感触」がはっきりしていたわけだ……。


 下半身はポケットのやたら多くついた長ズボンで、やはり織り目細かくけばが少ないが、手ざわりがごつく、引っ張っても裂けそうにない頑丈な素材だった。


 どちらも、自分たちの着ている、麻や羊毛を手織りした厚ぼったい布の感触とはまるで違う。里は無論、麓の町ですらない、自分がいるこの狭い世界とはまるで違う世界から来た人間だと見て取れた。……また、手と手袋のすきまから、光が漏れ出すのを抑えられなかった。


 だがひとつ、共通点にも気づいていた。


 少女の左手にも同じような指出しの手袋がはめられていた。右手にはなかった。───コーキは、彼女が自分と同じように、何かを隠すためにその手袋をしているのだと直感した。


 それはルカも同じだった。ふたりは気を失った少女を自分たちの住む家に運び、休ませた。濡れた服を脱がさなくてはならず、それはルカが担当したが、彼女は手袋を取ろうとはしなかった。

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