2・漏れ出したプライド 

『プライドうんち』の本名は岩城一徹である。

 岩城は深刻なアルコール依存症であり寝ている時間以外は常に酒を飲んでいるような老人だ。ここ何年もろれつが回ったためしがなく、まともに会話を成立させることは不可能に近い。

 それでも引っ越し当初から気軽に接してくれる岩城を、信夫は好意的に捉えていた。

 秋の初めのある日のこと。ひょんな流れで岩城の部屋で酒盛りをすることになった。

 夕方五時からのおよそ12時間、何ひとつ会話が成立しないまま一緒に酒を飲み続けた。きっとアフリカの部族にレポーターとして飛び込んだならこんな感じだろうと、信夫は乾杯を繰り返しながら笑っておいた。

 岩城はパチンコで身を崩すまでは、ちゃんとした勤め人だった。沖縄の家族にも仕送りを欠かさず続けていたという。その名残りか、見た目はだらしないアル中のくせに、部屋の中は信夫よりきれいに片づけられている。

 畳の上の絨毯が心地よく、信夫は朝日が昇ると同時に眠ってしまっていた。

 翌朝の十時、信夫が目をさますと岩城はすでにアル中として本格始動していた。あのまま飲み続けていたわけでなく、一度寝てまた飲み始めたのだと、多少は聞き取りやすいしわがれ声で岩城は笑った。

 なんでそんなに清々しい顔で笑えるのだろう――。

 信夫はずんと気持ちが重くなった。気持ちだけでなく、深酒した頭も重く、表情が陰った。自分は今日も仕事がない。

 そんなことを知ってか知らずか、岩城は銭湯に行かないかと誘ってきた。

 ほぼジェスチャーでのやりとりだったが、信夫はすぐに了承した。このモヤモヤした気持ちも熱いお湯で流してしまいたかった。

 連れだった銭湯は、岩城の馴染みだったようで、入るなり「もう飲んでんのか!」と受付のおばさんが岩城を叱った。「昨日の残りじゃ」と顔を震わせる岩城の後ろには「酩酊状態の入浴は禁止」とはっきり書かれていた。

 それから間もなくして、信夫はなぜ銭湯側がそんな禁止事項を設けるのかを知ることとなる。

 サウナで汗を出し切った信夫は、露天スペースで大の字に寝転がっていた。  

 すると、突然洗い場で怒号が響き渡った。

 そのざわめきの中心には銭湯の親父さんと岩城がいた。

 慌てて信夫が駆け寄ると、親父さんは「チッ」と舌打ちし、驚愕の事実を告げた。

「こいつ、うんこ漏らしやがった」

 驚いた信夫は岩城に目を向ける。岩城も驚愕の表情で親父さんを見ていた。

「本当か……」

 岩城が呟いた。きっと自分がお漏らしした自覚がないのだろう。でも、岩城の足元には、親父さんの言う痕跡が点在している。

「だから酔っ払いは嫌なんだよ、バカヤロウ」

 親父さんは洗面器でお湯をすくいながら吐き捨てた。悪いのは岩城だ。それはもう弁解の余地などない。

 だから岩城が親父さんの前に移動した時、誰もがその曲がった腰をさらに曲げて頭を下げるのかと思っていた。でも実際は逆で、岩城は顔を上げその背をぴんと伸ばした。

「岩城の名にかけて誓う。わしはもう二度と、絶対にクソは漏らさんぞ」

 アル中の岩城がまともに言葉を発していた。かつて母国のために命を賭けた憂国の士がプライドを取り戻した瞬間だった。

 他人の振りをして湯船から様子をうかがっていた信夫は、その誇り高き姿に感銘を受けた。

 その日から、信夫は敬意を込めて岩城を『プライドうんち』と呼ぶことに決めたのだった。

 あの時の情景が、首吊りリングに顎を乗せた信夫の頭によみがえる。

 岩城はあの時教えてくれた。――たとえどんな状況に置かれたとしても自分のプライドだけは捨ててはいけない、と。

 それでも今の信夫が心から思ったことはこんなことだった。

(マジで、どうでもいい……)

 ついに信夫は木箱から飛び立ってしまった。


「……ゴボ、ゴボボボボ!」 

 喉を締め上げる百円ショップのビニールテープは、泣き声ならぬ鳴き声を信夫にあげさせた。

「ブシュ、フシュシュシュシュ」

 聞いたこともない音が自分の喉から漏れ出している。

(このままじゃ死んでしまう……)

 焦った信夫は首の隙間に全指を挟み込む。だけど食い込んだビニールテープは緩まない。

 大慌ての信夫に巡る噂に聞いた走馬灯。

 せめて初恋の保母さんとのエピソードにしてくれと願ったものの、灯りの内容を選ぶことはできないようで、最初に頭に浮かんできたのは、真下の部屋で暮らすアル中、通称『赤モグラ』の顔だった。

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