アップデートに失敗しました

冬野瞠

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 僕らの人生は極小知性マイクロインテリとともにある。

 体の中を泳ぐインテリからのご託宣に従い、インテリに認められるように日々努力し、真っ当で善良な市民を目指す。

 それが僕らの世界を覆う、第一に優先される常識だ。



 かつて、私はあなた方とともにある、とキリストは言ったそうだ。

 信仰というものがどんなものか、二十一世紀半ば生まれの僕にはうまく想像できないけれど、僕らにも信じるものはある。

 市民が十二歳を迎えると、体内に移植されるマイクロインテリ。

 彼らは免疫細胞が対処しきれなかった病原体を殺したり、遺伝子が傷ついた細胞がガン化するのを防いだり、ホルモン分泌が狂って気分が乱高下しないよう調節したり、反社会的な思想を主人が抱いていないか監視したり、果ては今日どんな服を着て何を食べてどの話題を他人に振ればいいかの指示まで、何でもやってくれる。インテリの教えてくれることに間違いはない。

 インテリは僕らとともにある。

 信仰、とは少し違うのかもしれないが、現代人がインテリに全幅の信頼を寄せているという意味では、それは信奉と近しい位置にあるのではないか。僕はそう、二十世紀の人間に尋ねてみたい。



 インテリがさえずるかわいらしい声で目が覚めた。覚醒とともにインテリが僕のバイタルインフォを記録し始める。

 九月末、いい気候の時期だ。高分子膜を透過した眩しい日の光が、部屋を満たしている。家の外にはさぞや穏やかな朝が広がっていることだろう。

 二十一世紀初頭には、人類は極端化した気候に翻弄されていたらしい。この星そのものを苦しめていた温暖化現象――それに限らず、他の様々な環境問題や国同士の軋轢は、今から四半世紀前あたりに台頭してきた人工知能AIの導きによって全てが解決または改善し、人類は緩やかな繁栄を続けている。人間を超越した者ウーバーメンシュによってすべてが最適化された、このすばらしい世界。

 五十年前の地球の様子を、古い文献なんかで見るとぞっとしてしまう。あんな状況なら、僕はさっさと自死を選んでいただろう。激変する気候と多発する災害、生物多様性の無遠慮な蹂躙、人口爆発と食糧問題、長引く紛争や頻発するテロ、そんな血と不寛容と悲鳴にまみれた世の中で、自分の未来に希望なんて持てっこない。

 ――いや、こんなことを考えていたら、インテリが警告を鳴らして健康庁に通報してしまうかもしれない。やめよう、やめよう。

 体を起こすと、体内のインテリが今朝のご飯はクロックマダムとコーンポタージュ、水耕栽培のサラダだと脳に直接告げてきた。僕のインテリと母のインテリが、我が柊野ひらぎの家のローカルサーバにともにアクセスし、家族の嗜好にも合い、かつ栄養バランスの取れたメニューと適正な量の食事を相談して決めてくれるから、毎回がっかりすることもない。作る側も、毎食の食事に頭を悩ませなくて済むかららくちんだ。

 父と妹は既に食卓に就いていた。プレートにクロックマダムを盛り付けていた母が振り返る。僕は全員とアイコンタクトを交わし、皆の健康状態を確認する。まあ見なくたって分かるのだが、全員健康そのものだ。


「そういえば、そろそろがくのインテリのアップデートがあるわねえ。今度アップデートしたら、学問の適正が分かるわね。学が将来何になるのか、楽しみねえ」


 全員でいただきますのあいさつをすると、母が楽しげな声を上げた。

 マイクロインテリのアップデート。それは人生における最も重要なイベントだ。十二歳になると体内に入れられる極小知性は、五年ごとに中の情報が更新され、機能がどんどん拡張されていく。インテリのアップデートは五年に一度、誕生日に審査が行われる。僕らはインテリに気に入られるために、一生努力するわけだ。

 僕は十月生まれだから、一度目のアップデートが行われる十七歳の誕生日が、目前に迫っていた。

 十七歳では学問の適正が評価され、その分野に特化したアップデートが行われることになっている。二十二歳ではそれがさらに尖鋭化し、同時に遺伝情報に基づいた結婚相手の抽出の機能も実装される。

 恋愛はもはや過去の遺物だ。かつての人間たちがあんな不効率な行為でもって、婚姻の相手を選んでいたなんて笑ってしまう。僕らの人生の選択はすべてインテリがやってくれる。馬鹿馬鹿しい心の煩悶はんもんや懊悩に思い悩む、なんていう前時代的なことはとうの昔に廃れてしまった。


「いいなあ、私も早くアップデートしたーい」


 妹のみきが僕を見て羨ましげな声を出す。あと二年の辛抱だろ、そんなことよりちゃんと勉強しろよ、と僕は思わず苦言めいたことを言う。


「そうよー、アップデートに失敗しました、なんてことになったら、お母さん食事が喉を通らなくて死んじゃうわよ」

「分かってるよお」


 樹がぷうと頬を膨らませる。十五歳になるとは思えない妹の子供っぽさに呆れてしまう。

 アップデートは普通成功するもので、失敗は稀だ。というより、僕はその実例を聞いたことがない。

 失敗は即ち、社会落伍者という烙印を押されることに他ならず、現代社会では年齢相応のヴァージョンのインテリを持たない人間に行く場所はない。真偽のほどは不明だが、型落ちオールドタイプとなった人間はどこか遠い監獄へ押し込まれ、社会不適合者として酷い扱いをされる、というのが専らまことしやかに囁かれている言説だ。

 そんなわけだから、別に母は本気で樹が型落ちになるだなんて思っているわけではないだろう。冗談めかして、勉強に不熱心な妹に発破をかけているに過ぎない。それを察して、寡黙な父が笑った。



 十七歳の誕生日。ついに初回のアップデートの日を迎えた。僕は学校を休んだ。アップデート審査には時間がかかるから、当然の権利として欠席は認められている。

 自分のインテリとタブレットを同期させ、健康庁から送られてくるアップデートソフトウェアをインストールする。

 画面に様々なデータが表示されていくのを眺めた。この五年間での、僕の生活における様々な評価が書き連ねられている。

 良好、良好、良好……。その二文字がだーっと上から下に流れていく様は、軽い催眠効果があったけれど、すべての文言を見届ける義務があるため、居眠りするわけにはいかなかった。

 そして、半日ほどかけてインテリのアップデートは無事に完了した。

 薄々思っていたとおり、僕は理系分野――それも生化学分野への適正が最も高かった。

 翌日学校に行って、担任に報告する。審査の結果はもう僕のインテリから先生のインテリに手渡されているので、無駄な言葉を交わさずに済む。既に僕のアップデート結果を参照していた担任は、鷹揚おうような笑みを浮かべてうんうんと頷き、


「柊野は化学も生物もクラスでダントツだもんなあ。将来が楽しみだよ」


 そう期待を込めて言ってくれた。

 僕にも将来への不安は何もなかった。高校卒業後は順当にバイオ系の進路に進み、学部時代には二本の論文が雑誌にアクセプトされて、大学院への進学を早々と決めた。



 二十二歳のアップデートを一ヶ月後に控えた秋。

 バイオインフォマティクスが専門の僕は、戯れにマイクロインテリの暗号情報を解析してみていた。僕らを正しき道へと導いてくれるありがたい存在が、どんな遺伝情報を持っているのか、純粋に気になったからだ。インテリは炭素とDNAデオキシリボ核酸からなる複合体で、その挙動はDNA上にコードされた遺伝情報に依っていた。

 遺伝子解析はその昔、大学のラボくらいの研究機関ですら外注していたらしいけれど、今ならば掌サイズのキットがあればお手軽に調べることができる。

 解析が完了し、その全遺伝子――いわば知性のゲノム――であるアデニンチミンシトシングアニンの羅列を見ていると心が静まった。僕にはその無意味な塩基配列が実体として感じられた。

 ひとつひとつの遺伝子がコードするタンパク質のいわばスペルは、何百という不規則な記号の列であるため、人間のちっぽけな脳で覚えるのはさすがに無理だけれど、なんとなくあ、ここらへんはこういう機能のタンパク質をコードしているな、というのが僕には分かった。他人に説明するのは難しいけれど、文字の手触り、歯触りとでも言えば、なんとなく分かってもらえるだろうか。こういった意味では、僕は才能があったと思う。

 空間投影されたディスプレイ上のゲノムを、何とはなしに眺めているとき、僕はそれに気づいてしまった。


 ヒトの"眠り"に関する遺伝子が、まとめてコードされている領域があることが。


 眠りというのはかなり複雑な身体のシステムであり、睡眠に関わる遺伝子は驚くほどたくさんある。ひとつの遺伝子発現が促進されると、その下流で別の遺伝子発現が抑制されたり促進されたりして、またその下流で別の遺伝子発現が――といったように、遺伝子発現の流れは長い長いカスケードを形づくっている。

 僕が注目した領域は、ヒトの睡眠に関わるすべての遺伝子を網羅しているようだった。睡眠は人体にとって何よりも優先される事象のひとつだ。おそらく、主人が不眠症の状態に近づいたりすると、知性は睡眠遺伝子を活性化させて人を眠りにいざなうのだろう。

 そしてよく知られたことだが、インテリは睡眠時には思考を含む身体活動の監視を中断する。

 おそらく、人間がどんな夢を見ているか、インテリに知られないようにと開発者は異図したのだろう。夢の内容はいまだに制御が利かない。夢の中で自分の命を危険にさらそうが、かけがえのない他人の命を奪おうが、睡眠状態にあればお咎めなしということだ。 

 そこまで思い至ったとき、全身が総毛立つようだった。肋骨の内を激しく叩き始める心臓を必死でなだめた。僕の中で発火したその考えに、自分が一番おののいていた。

 そんなことが可能だろうか。なにがしなんて。

 僕は深呼吸した。今にインテリが危険思想を健康庁に通報し、警告が来るかもしれない。僕はできるだけ何も考えないようにしながら、慎重にアイディアを書き留めた。

 サーバメモリに残らないよう、わざわざ電子ペーパーではない、繊維質でできた昔ながらのざらついた紙を使って。

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