お別れ

 七月三一日、午後一一時。

 剛司は憧の手を引き、それに寄り添うように憧は隣を歩く。

 そしてログハウス前に着くと、剛司は繋いでいた手をそっと離した。

「今日はいろんなことがありました」

「そうだね」

 剛司は憧と一緒に玄関口に腰を下ろす。

 二人肩を寄り添いながら空を見上げている。

「でも、今日で全て終わりです」

 憧の表情は哀愁に満ちていた。月の明かりが憧の顔を照らす。その様子が悲しみをより増幅させた。

「魔法使って良かったの?」

 剛司は気になっていたことを憧に問いただす。そんな質問したのも、皆の記憶が明らかに改変されていたことがあったから。



 先程まで剛司はずっと青羽の元にいた。遠くに行ってしまう憧のために、友恵が送別会を開いてくれたのだ。憧はもちろん、剛司もその企画があることを知らなかった。

 憧の送別会だけなら剛司も理解できた。

 それでも皆はそれだけではないと口をそろえた。

「剛司君のフライト成功も祝ってだからね」

 友恵は笑顔で剛司にそう告げた。

 亮も光も、そして朋も剛司と憧のフライトを最後まで見守ってくれていた。そして剛司と憧がランディングゾーンに到達すると、自分のことのように喜んでくれた。

 青羽や友恵、深川に新見が祝福してくれ、羽田からは電話でお祝いの言葉をいただいた。

 ただ、剛司は疑問に思うことがあった。

 何故か皆の記憶が明らかに間違っていたから。

 今日のフライトは、完全に失敗だった。

 レスキューパラシュートを使い、機体一式をどこか知らない場所に捨ててきた。そして最後は憧の箒に乗って、ランディングゾーンに降りたはず。剛司にはその記憶が鮮明に残っていた。それなのに、皆の記憶は剛司のフライトで降りてきたことになっている。



 だから剛司は憧に尋ねた。こんな奇跡を起こせるのは憧しかいないと。憧は否定せずに答えてくれる。

「ちょっとだけ事実改変しちゃいました」

「改変?」

「私が魔法使いって知ってるのは剛司君だけです。なので皆さんには、私が箒で空を飛んだことを忘れてもらいました。なので、フライトは成功したことになっています」

 憧は満面の笑みで剛司にそう言った。

「でも、魔法はつかっちゃいけないって」

 憧は言っていた。人間界のルールに従わないといけないと。

「一回ぐらいいいじゃないですか」

 憧が悪戯を成功させた子供のように、勝ち誇った表情を晒した。

「内緒にしてください。これは私と剛司君の二人だけの秘密です」

 あれだけ真面目だった憧が放った言葉が、剛司は信じられなった。それでも、何だかとても満たされた気持ちだった。憧が目の前で笑っているからなのかもしれない。箒で空を飛ぶことができたからなのかもしれない。

 いずれにしても、今日の出来事は憧を変えることができたという証明になった。

 だからそれでいい。これ以上の詮索は蛇足だと剛司は思った。

「あのさ、憧」

 剛司は自ら履いていた左足の靴を脱ぐと、憧に差し出した。

「これって……剛司君が大切にしていた靴じゃ……」

「うん。僕の大切な靴。憧との出会いをくれた大切な靴。これを憧に持っててもらいたいんだ」

 差し出された靴を憧は中々受け取ってくれなかった。

「でも、本当にいいんでしょうか。この靴はその……剛司君の大切なものです」

「たしかに大切な靴だよ。でも、僕はもう靴に頼らなくても進めるんだ。大切なものはここにちゃんとしまうことにしたから」

 剛司は自分の心臓を軽く叩いた。

「だからその靴は憧に持っててほしい。この靴の存在が憧と出会うきっかけをくれた。だからこの靴があれば、また再会できるかなって」

 夢見すぎだよね、と剛司は笑って見せる。

「いえ、そんなことないです」

 憧は剛司の手から靴を受け取り、その靴を抱きしめた。

「一生、大切にしたいと思います」

 憧はそう微笑むと、少しためらいながらも剛司を見つめた。

「あの、私も剛司君にお願いがあって……」

「お願い?」

 首を縦に動かした憧は、ゆっくりと剛司に視線を向けた。

「最後に剛司君と空を飛びたいなって思って。いいでしょうか?」

 憧の瞳に剛司は吸い込まれそうになった。まるでブルーサーマルの景色のような青さを持った瞳が、キラキラと輝いている。

「いいよ。僕も憧と一緒に飛びたい」

 断る理由なんて剛司にはなかった。憧と最後に飛ぶことができる。そう思うだけで、剛司は嬉しかった。

「それじゃ、ちょっと待っててください」

 憧はログハウス内へと一旦戻っていった。剛司はその間に靴を履き替える。ログハウスの玄関口に片方だけとなった靴を置いた。

 風が吹き、剛司の頬を撫でる。訪れた沈黙が剛司に現実をつきつけた。

 剛司は隣を見る。先程までいた憧がいない。その事実がもうすぐ当たり前になってしまう。時間ももうほとんど残されていない。

 突然、感情の波が押し寄せてきた。剛司は胸の苦しみを隠すように身体を丸め、膝に額を当てて顔を隠した。

 どうして別れないといけないのだろう。

 剛司の脳内はそのことだけがめぐっていた。覚悟は決めていたはずなのに。それでも、悲しいものは悲しい。こんなにも強くそう思ったのは、生まれて初めてのことだった。

「お待たせしました」

 憧の声に顔を上げた剛司は直ぐに気づいた。

「カチューシャつけたんだね」

 ハルジオンをあしらった可愛いカチューシャは、本当に憧に似合っていた。

「はい。剛司君に可愛いって言ってもらえた……私の大切な宝物です」

 満面の笑みを見せる憧を剛司は見ていられなかった。胸の鼓動が高鳴り、その気持ちを抑えることができない。

「それじゃ、乗ってください。剛司君」

 憧は手にしていた箒にまたがった。剛司も憧の後ろにまたがる。

 今、剛司は憧と密着するくらい近かった。タンデムフライトの時とは違い、すぐ目の前に憧がいることを強く意識してしまう。剛司の頬が赤く染まった。憧のフローラルな香りが剛司の鼻腔をくすぐる。その柔らかそうな身体に、剛司は思わず息を飲んだ。

「剛司君、腰に捕まってください」

「こ、腰」

「そうです。危ないですから、腰が一番安定するので」

 憧は気にする素振りもみせず、自らの腰をポンッと叩いた。ここだと示しているのは剛司にも直ぐにわかった。

「し、失礼します」

 呟くように言った剛司は、ゆっくりと憧の腰に手を添えた。それを見計らって憧は地面を蹴る。瞬間、ふわっと身体が浮かび上がる。慣れない揺れに剛司は憧にしがみつくような体制をとった。みるみる高度が上昇していき、気づけば今日タンデムフライトした高さくらいまできていた。ざっと四〇〇メートルくらいだと剛司は予測する。

「剛司君、大丈夫ですか?」

「うん。大丈夫」

 箒で空を飛ぶ。当たり前にできない体験を今している。それを実感した剛司は遅れてやってきた驚きと凄さに、ただただ魅了されていた。

 パラグライダーと同じ景色を見ることができている。しかしその雰囲気は全く違うものだった。上空にはコバルトブルーの空は見えていない。見えているのは漆黒の青。そこに散りばめられた星々が、良いアクセントになっている。その景色の中、飛べている事実が剛司の心を震わせる。

「あの、剛司君。少しお話いいですか?」

「うん」

「剛司君に、最後まで言ってなかったことがあるんです」

 憧の声音が低くなった。剛司はその変化が気になった。

「その、私が人間界から離れたら……剛司君の記憶から、私は消えちゃうと思います」

 憧の言葉は上手く理解できなかった。

 今何を言ったのか。

 剛司は咄嗟に憧に聞く。

「それって……う、嘘だよね?」

「……いいえ。本当です。私は魔法界に帰ります。なので人間界の記憶に残ることは許されないんです」

 憧の言葉を剛司は否定したかった。どうしてこうなるのだろう。悲しみが剛司を襲う。そしてその感情をおさえることはできなかった。

「嫌だよ。僕は憧のことを忘れたくない」

 剛司は手に力を入れた。先程までそえる程度だったのが、今はしっかりと憧の腰を掴んでいる。必死の抵抗。剛司は自分の意志を憧に伝える。

「それは、私もです。ですが、仕方がないことなので」

 魔法界のルール。剛司はそれを一生恨むんだと思った。どうしてルールに縛られないといけないのか。ずっと思ってきたことに、剛司は最後まで邪魔をされることが悔しかった。

「でも、大丈夫です。私は剛司君に大切なものをもらいました」

 剛司と憧を繋いでくれた大切なもの。

「毎日靴を見て思い出します。だから、剛司君も無理かもしれないですけど、靴を見て私のことを思い出してくれたらなって」

 剛司は初めて物の存在理由に気づいた。今までは物にばかり頼ってきた。そこに込める思いが強すぎて、周りを見ることができていなかった。

 でも遠く離れてしまう人にとっては、物こそが繋がっているという気持ちを与えてくれるのではないか。物に頼るのも決して悪くない。そう憧が言ってくれている気がした。

「それで、私……その……」

 憧は箒を空中で静止させると、剛司の方に身体を捻った。

 憧と視線が重なる。その透き通る瞳は、何度見ても吸い込まれそうになるくらい、綺麗で美しかった。

 そして、暫く見つめ合っていた沈黙を憧が破った。


「剛司君が大好きです」


 憧の言葉に剛司の心臓がはねた。憧は恥ずかしそうに微笑み、続けた。

「出会ってから、ずっと私は剛司君に励まされてきました。私の為にこんなに頑張ってくれた剛司君の姿を見て、いつしか傍にいたいと思っていました」

 憧の声が徐々に震えているのがわかった。剛司も胸が苦しくなる。

「私は剛司君のお蔭でここまで来れたと思っています。たった一ヶ月だけでしたけど、こうして空を飛ぶこともできました。憧れを現実にすることができました。本当に感謝してもしきれないです」

「そんなことない。それは僕も同じ……憧がいなかったら、ここまで変わるって意味に気づくこともできなかった」

 この一ヶ月。剛司は多くのことを学んだ。自らの変化に周囲の変化。自分がいかに人に頼って生きてきたのか。今までの自分が駄目ということに気づけたのも、目の前に憧がいてくれたから。憧の存在が剛司を変えた。そう言っても過言ではないのだと思う。


「僕も大好きだよ」


 自然と口から出た言葉に、剛司は驚いた。無意識に発していた言葉だった。だけどその言葉に偽りはなかった。剛司の本当の気持ちだったから。

 剛司の発した言葉に、憧の目から光るものがこぼれ落ちた。

「憧と出会って、僕の生活は本当に変わった。その変化をくれた憧に僕は憧れ、次第に引かれていったんだと思う。憧のためにって気持ちが強くなったのは、変わりたいっていう思いを聞いていたからだったけど、そんなの関係なかったんだと思う。たぶん出会った時から憧が好きだったんだ。ただそれだけなんだ」

 剛司は泣きたくなかった。でも自然と涙が溢れてくる。

 もう時間がない。

 考えていなくてもよぎるタイムリミットの存在が、剛司の感情に拍車をかける。

「ごめん。最後くらい、笑顔で送ろうってずっと思ってたのに」

 憧は泣いていない。それなのに泣いている自分が本当に情けなかった。

「剛司君なら、きっと大丈夫です。この先何があろうとも、きっと乗り越えていける。私が保証します」

 笑顔で剛司の頭に憧は手をのっけると、ゆっくりとさすってくれた。その手の温かさが剛司の感情を揺さぶる。とめどなく溢れる涙が、自分の無力さを伝える。

「あの、最後に……最高の思い出をくれますか?」

 憧は自らの向きを変え、剛司と向かい合った。二人見つめ合う。その時間は止まっているようだった。

「大好きです。剛司君」

 そして月明かりに照らされた二人のシルエットは重なった。

 柔らかい感触に剛司は包まれる。そして記憶が薄れていく感覚に支配されていく。


 魔法なんて最初は信じていなかった。だけど様々な奇跡が重なって今日まで来た。この一ヶ月の奇跡を剛司は絶対に忘れない。たった一つの靴が導いてくれた物語は、意味のある終わりだった。そしてこれからの自分にとって糧になる。何となく剛司はそんな気がした。

 これで良かった。

 そう心から思った。


 憧から離れると、剛司は身体の力が一気に抜けるのがわかった。

 剛司は憧に身を任せるように倒れ込んだ。

 もう終わりなんだ。そう剛司は強く感じた。

 記憶がなくなる寸前、憧の声が脳に響く。


「ありがとう、剛司君。私は絶対に忘れないよ」


 温かい声に安心した剛司は、そのまま気を失った。

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